六話 男子高校生の欲望

「遅かったじゃねぇか。どうしたんだ?」


 健二が教室に戻るや否や、大西が余裕な表情でドアの方へ詰め寄った。


「おいおい近い近い。離れろよ」

「すまんすまん」

「んで、宿題終わったのか? いや、移し終わったのか?」

「あぁ、もちろんよ! 簡単に片付いたぜ!」

「ゲームで言うチートを使えば、そりゃ誰だって簡単に片付くわ」

「んな、んなことねぇよ。写すのにだって――」

「あるわ」


 大西の発言は否応なしにスパンと遮られる。

 頭をかき、へへへと笑うと大西はスキップで自分の席に戻っていった。


「はぁ、いつも通りだな。アホみたいな調子で……」


 大西の上下に跳ねる後姿を見て、健二は思わずあきれ返るしかない。

 呆れを通り越して、ふふふと静かに笑ってしまっている。


「さて、一限の支度すっか」


 机に貼っている日課表を一通り目を通す。

 しかし健二の生き生きとした心持ちも一瞬にして崩れ去った。

 なにせ一限から早速、吉本という地獄がやってくるのだから。


「うわ、朝からこれかよ……。だっる」


 そこには二文字で『国語』と書かれてあった。

 説教された吉本が脳裏によぎったのか、手で顔を覆う。

 絶望。今の健二には、もう救いの手なるものなんぞ一本たりともたりとも残っていなかった。


「もう、帰りてぇわ」


 机に頭を打ち付け、一限が終わるのを切望しながら寝る体制につく。仏道修行のごとく、彼は時間が過ぎていくのを懸命に祈り続けた。

 もちろん、思うように時間は過ぎていくはずもない。


「果報なんてありゃしねぇけど、寝て待と……」


 教室の蛍光灯があまりにも煌々としている。目を刺すような光を遮るべく、国語の教科書で屋根を作りそれを頭に乗せると健二は途端に死体のごとく半永久的にスウスウと寝息を立て始めた。


「よし、授業やるぞ」


 寝たそばから本人ご降臨だ。

 吉本の太い声で教室がしぃんと静まるや否や、席を離れていた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように自分の席へと音を立てて帰った。


「号令だぁ。号令」

「うぉっと、俺か。起立!」


 たまたま日直だった大西は急いで号令をかける。大西の号令すら無視してしまった健二は、起きる気配を見せることなく伏せている。

 もう彼の耳には、何一つ音という波長は届かないのかもしれない。


「れい! 着席!」


 一挙一動、頭の先からつま先まで、クラスの全員が息の合った習慣を一斉に行う。

 これじゃあ個々のアイデンティティを失った軍隊そのものだ。


「それじゃ、教科書六十ページから……」


 そんな軍隊まがいな空間の中、たった一人抗うようにして寝て動かない健二。

 吉本は彼をもう、いないものとして扱い、そして咎めることも諦めてしまったようだ。


 地獄の一日が吉本の声に合わせてスタートラインをきったのだった。



 それから二時間。時は長々しく流れ……。



「あぁ、授業終わったぁぁ!!!」


 焦らしながらどこかへ消えていった、合計三時限にわたる前半戦が終了し、クラス中が騒々しくなる。

 この時間帯と言えば、全校生徒の五割が参加する『売店競争』および『食堂競争』が同時に行われる。


 うるさい教室と、ハイテンションマックスな大西の袋だたきに遭った健二。

 彼は自分の唾液で、机に大規模な池を作り上げ、真っ白で新品だったノートに洪水を起こしていた。

 午前の部をぶっ通しで寝れば、そりゃ机も汚くなる。


「おいおい、お前飯ないんだから、売店いかねぇとまずいだろ?」

「大丈夫だよ……飯の一つぐらい抜いたって」

「腹が減っては戦は出来ぬ。午後もあるんだし、行こうぞ?」

「午後も寝る。体力温存のためだ」

「んなつめてぇこと言ってねぇでよ? な? ついてこいよ」

「んな、面倒癖ぇ」

「そうか、そうか。わかった」


 大西は腕を組み、一人納得すると一瞬で健二に詰め寄り、こうささやいた。


「せっかく、せっかくいい機会だったのに。

 お前に、例の写真集を見せてやろうと思ったのに……」

「例の? 例の写真集?!」


 健二の目に輝きが生まれ、丸くなっていた背骨は綺麗なS字曲線を描き、そして天井まで伸びに伸びまくった。

 やっと、彼の元に朝がやってきた。


「おうよ、例のな?」


 なるほど、健二の好物で釣る作戦に出たようだ。


「こりゃ、行くしかねぇな!」


 まんまとトラップに引っ掛かる健二。

 彼の午後に対するモチベーションも、うなぎのぼりである。

 さすがは健全な男子高校生と言ったところか。


「それじゃ、行くぜ健二!!」

「おうよ大西!!」


 仲良し二人組は、廊下の真ん中を陣取って歩き、売店へと向かう。


「おぉ、今日もこんでますなぁ」

「せやな……」


 売店は生徒であふれかえっていた。

 ごった返す中、ささいな諍いや詰め合い、足の踏み合いが日々絶えないこのエリア。


 ほんのわずかだけ規則性をなす太く長蛇な列に、健二と大西は忍びこむ。

 宛のいない中、地味に順番を抜かして。


「なんとか、入れたな」

「そうだな。んで、雑誌はいつ俺にくれるんだ?」

「あげるなんて俺、言ってねぇぞ?」

「そうだったか? 気のせいか……」

「それにそうあせるなって、な?」

「……分かったよ」


 謎の焦りを見せると、健二はほんの少しだけ待った。

 口から出るほど湧き上がる感情とせかせかと体中を巡る血液を抑え、何とかして気を紛らわそうと、昼飯のことを考えはじめる。


「あれ? いなくなってる」


 売店の会計に続く列を見ると、前をゆく人だかりはもうとっくに去っていた。


「順番来たみたいだな」

「らしいな。じゃ、買うか」


 二人は見事、目的のパンを買うことに成功。

 健二は、右手にあるおいしそうなフレンチドッグと、左手にあるケバブもどきに目がいく。

 せき止められないほど弱い、唇という名の堤防からはまたも涎が、ドバドバと勢いを付けて床にたれて落ちていくのだった。


「おい、健二。気持ち悪いぜぇおい」

「あぁすまん。口が緩んだ」

「それが許されるのは、入園前の赤ちゃんだけだわ。それも一度だけだし」

「そうだったな。へへへ」


 ポケットに突っ込んであるグシャグシャなハンカチで口を拭う。

 口がいつも通り乾燥したのを確認し、二人はそのまま取引の場所へ向かった。


「んにしても、さっきまでのローテンションが嘘まてぇだな」

「ハハハハハ」

「んまぁ、戻ってくれたことが嬉しいのに越したことはないんだけどな」


 大西は、ついでに買ったコーヒーを廊下のど真ん中で偉そうにラッパ飲しだした。

 それも歩きながら。


「そう言ってくれると、なんか嬉しいよ」


 かと言って、健二も咎めることは無い。

 むしろ欲しいぐらいだった。


「うまいのか? コーヒー」

「飲む?」

「いや、いいよ」

「そうか」


 そんなこんなで、江戸時代の侍にでもなった気分の野郎二人は取引場を覆う体育館に到着した。


「なんか緊張してきたなぁ」


 体育館内はあたりに独特の閉鎖的な空気と、古びてかつ加工された木の匂いを漂わせている。

 今から行われる取引は、極秘的でかつ彼らにとってのライフラインであると言えよう。


「それじゃ、入るぞ。準備はいいな?」

「も、もちろんだよ」


 健二の合図とともに、大西は重くかたい錆び付いた体育館倉庫のドアを勢いよく開けた。


「んじゃ、早速いいな?」


 電気をつけ、二人は跳び箱の影に隠れた。

 大西はブレザーの内ポケットをガサゴソと、探り始める。

 閑散とした取引現場だから、ビニール特有の荒い音が妙に目立つ。


「っと、あったあった」

「お!? 来たか?」

「おうよ、釣った釣った!」

「あくしろよぉ!」

「まぁまぁ、そう焦るなって」


 今日の健二はことごとく、大西のおもちゃになってしまっている。宿題の写から始まり、雑誌でつられ、終いには焦らされている。


「いくぞ、心の準備は出来てるか?」

「もちろんだ!」

「よしきたっ!」


 ガサガサ。

 四次元ポケットのように、無駄に広いブレザーの内ポケットから出てきたのは


「てってれー、極秘雑誌ぃ」

「ひみつ道具じゃあるまいし……」


 薬が入る程度の小さなビニール袋だった。

 しかし中身は、彼の言うとおり極秘の雑誌である。

 もちろん、極秘というのは彼らにとって……いや、全国の思春期男子にとってのみ。


「じゃあ、さっそく中身を確認してくれ!!」

「声でけぇよ、抑えろよな」

「すんまそんな」


 大西は、約束の雑誌を健二に渡し、口角が上がり始めた。

 なんせ、自分の体験した快楽や楽しみを、今から興味津々で尻尾を振っている自分の友にも味わってもらうのだから。


 健二は袋からそっと雑誌を取り出す。


 雑誌は、表紙からインパクトを出していた。


 表紙を飾る若い女性は、健康でツルツルな純白の美肌をなんの恥じらいも持たず露わにする。

 あと少しで見えそうな際どい極部は、腕やら手やら足やらでギリギリ隠されている。


 見たいのに、見えない。

 見えそうで見えない。あと少しで、欲望をつかみ取れるのに。


 いかがわしい方面で引きつけるのには、十分な表紙だといえよう。


「こりゃおまえ、ダビデ像ばりの芸術性を感じるぞ」

「おぉ! お前の完成よく分からんが、気に入ってくれたんならいいゾ!」

「借りるな! 恩に着るぜ大西の兄貴」

「いいってことよ、そんぐらい」


 狭い個室でバカ騒ぎしだす二人。

『極秘の取引』の名目はどこへやら。


「だれだ? ここで騒いでるのは」


 大きい声に反応して、聞きなれた声の女性が外で何かを言っている。

 どうやら取引現場を嗅ぎつけてしまったようだ。


「まずい、どうする?」

「とりあえず跳び箱に避難しろ」

「そんな、ありきたりなところで大丈夫か?」

「いいからいいから、早く」


 健二は押し込まれるようにして、跳び箱の中へ入った。


「よし、このまま待機だ」


 異常なほどうるさかった時があったと感じさせない、水を打ったように静かな空間へ変化した。

 ギャップの差に、思わずクスクス笑う二人。


 ガラガラガラガラ


 大西が開けた時よりも、数段開きがよかったのかスムーズに扉が開いた。


「まったく、真昼間から体育館倉庫でなぁにをコソコソしてるのか」


 女性はズカズカと体育館倉庫に入ってくる。

 一方のムズムズした環境で待機中の二人は、跳び箱の手をかける部分から外の様子を除き見る。


「おい、まじかよ……」


 その女性に、健二は小声で焦り始めた。

 跳び箱の中の蒸し暑さによる汗と、訳の分からない冷や汗がダラダラと流れる。


「誰なんだよ、入ってきたの」

「お前も覗いてみろ、わかる」

「んな、もったいぶんなって」


 健二は大西と場所を代わり、今度は大西が穴から覗く。


「うわっ?!」


 大西は目に入った光景に、思わずおののく。

 あまりに不自然で、驚く場面だったので跳び箱の天井に頭を強く打った。


「いてててて」

「そこか? そこにいるのだな」


 女性の声が近くなり、青ざめる二つの顔。

 お互い見つめ合うが、解決策がどちらも見当たらないらしい。


「とりあえず、胸ポケットに戻せ」


 声を潜める中、健二は渡された袋を大西に押し付ける。


「いや、なんで俺の胸ポケットやねん」

「だっておめぇのじゃん」

「まてまてまて、お前が責任もって管理せぇよ」

「もう開くって早くしろよ」

「お前が入れろよ!」


 大西が健二の内ポケットへ無理くり入れると同時に、跳び箱の中へと絶望という外界の光と鋭い眼差しが飛び込んできた。


「んん、お前ら何してんの?」

「あぁ、アッハハハハ……」

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