二話 慌ただしい兄妹と歯磨き粉

「ま、とりあえず歯ぁ磨くか」


 明美に渡された制服を、リビングに放り投げ洗面所へと向かう。

 雑に並べられた色とりどりの歯ブラシには、それぞれの持ち主の名前シールが貼られていた。

 色とりどりの、とは言ったもののそれは柄だけであって、ブラシはすべて真っ白。


 フッ素なんたらというラベルのついた歯磨き粉を手にする。

 もうあと少しで空だ。

 歯磨き粉の出口以外は、プレスをかけたように薄っぺらで自立すら困難な有様になっている。


 実はこの紙みたく薄い中にも、あと数日分の歯磨き粉が残っている。

 なんてことがざらだ。


 健二は歯磨き粉の端を両手で持つ。

 いつも通り力任せに白い歯磨き粉を押しす。


「あ…………」


 出入っていたすべての歯磨き粉が洗面器へドロップアウトした。

 残り何日か分あるはずだった歯磨き粉を、数秒さみしそうな目で眺める。

 どうしようもなく、そして救いようがない。

 事実は変わらないのだから。


 健二はあたりを見回す。

 偶然にも、明美と怜奈は視界に入っていない。

 健二は自分の歯ブラシを取り出し、落ちた歯磨き粉を洗面台から掬い取る。


「よし。なかったことにしよう」


 自分の愚かさをかえりみることなく、事実をねじ伏せ何食わぬ顔と手つきで歯を磨き始める。


「んまぁこれえいいあろ」


 口の中で歯ブラシを忙しなく動かしリビングに向かう。

 歯を磨きながら制服に着替えるという暴挙をするらしい。


 嫌という程何年も何年も同じ動きをしたからか、着替えはルーティン化した模様。

 手をクロスさせ、上ジャージを素早く脱ぎ捨てる。

 床に落ちている白いシャツに手を伸ばした。


「……ん?」


 下を向く。

 ――なにこれ?……

 きょとんとした健二は、腹に染み付いた赤い手型を発見。


 白いシャツは手から離れショックで開いた口から、こぼれ落ちた歯ブラシと同時に落下。

 金縛りにでもあったかのように健二は動かなくなった。

 滝のように流れる汗が、ダラダラと垂れているのがわかる。


 三秒の間が流れ、精神のキャパシティを超えた心霊現象から膨れ上がった恐怖は、行動に現れた。


「なぁんじゃこりゃぁぁああああ!!」


 エビも驚く見事なイナバウアーと絶叫。

 大声は天井と壁をすり抜け、妹の耳にまで届いた。

 ドタドタ鳴り止まない急ぎ足で何事かと思い階段を降りた妹は、兄の半裸を目の当たりにし兄と発狂。


「きえぇぇぇぇえぁぁぁぁあああ!!!」


 口に手を抑え、飛び出るほどに目を見開く。

 おぞましいものを見たような。

 いや、見た反応だ。


 キャーなんて発狂は生ぬるい。

 唯一の取得である可愛らしさも、夜に轟く断末魔によって形相も精神も崩壊。

 驚いている怜奈が怖いくらいにまで様子がおかしく酷い。

 人の体内から出てきた断末魔とは、とうてい思えない。


「どうしたのお兄ちゃん、その体……」

「どうしたもこうしたもねぇ!!!

 俺だって知りてぇくらいだ!!!」


 ただでさえ物恐ろしかった背の模様が、実は腹にもついていることへの驚きと脅威。

 やはり二度あることは三度ある。


 絶句して声がうまく出ない二人。

 朝から冷え切ったリビングでは、何人たりとも音を発せないでいる。


「あ、もしかしえあえか……」


 健二はエビ反していた腰を元に戻し、昨日見た怨霊に襲われる悪夢を脳内再生しだす。

 クライマックスもクライマックスのシーン。


 巨大な刃が貫いていった腹部に、身の毛もよだつ手型がここだと主張して張り付いている。


 夢と現実との間で、何かがリンクしているのかもしれない。

 冷静を保っていた面構は、だんだんと青みを帯び始め口角がピクピクと振動。


「あぁ、もう考えたくねぇわ。俺の命日今日かもな。ハハハ」


 震えあがっている掌を怜奈の肩に乗せ、健二はすべてを悟ったかのようにしてこう切り出した。


「怜奈、お前にすべてを任せる」

「ねぇ、バカなこと言ってないで帰ってきてよ」

「さようなら、怜奈」


 二コリと笑い、健二はうつぶせで倒れ落ちた。

 歯ブラシの位置といい、健二の周りが死体現場に酷似している。


「お兄ちゃぁぁぁぁん!!!」


 怜奈の涙袋はは大粒で大量の涙で溢れかえる。

 頬を伝っていく滴は、怜奈のアゴ付近で一瞬止まり、後から伝ってくる滴とともに健二の白い背中にポタリポタリと落ちていく。

 ぬくもりのこもった、兄への愛情が涙としてこぼれていく。


 健二の肌に落ちると、滴は何個にも分裂し再度兄の肌へ。


「んん、ん?」

「お兄……ちゃん?」


 健二はぬくぬくと起き上がった。

 暗号が解けたように、体が動き出す。


「……もしかしえ泣いえるのか?」

「えっ?」


 健二は泣いている怜奈に驚きながらも、右手で怜奈の頬をさすった。


「ハハハ、おもしれぇなお前。

 俺のこと泣いてくれたのか?」

「生きてるの?」

「バーカ、俺が死ぬわけないだろ。

 こういう心霊現象はよくあるんだから。

 日常茶飯事よ日常茶飯事」


 昼間にしか見られない満面の笑みで、健二は続けてこうからかった。


「お前、演劇部にでも入ったらどうだ?」


 しかし怜奈からの応答は一切ない。

 ポニテで結んだ髪をバサリと音を立てて下ろし、仏頂面へ。


「お兄ちゃん、バカにしないでよね?……」


 リビングを駆け巡った冷たい空気よりもさらに冷ややかな視線は、霊現象を超える女の恐怖を健二に植え付けることとなった。


 怒ったとも言えない、かといって悲しそうな目でもない。

 無、すべての感情を捨て失望しきった表情。


 何気ない一言は、こうして乙女の心を深く刺し、反動で生まれる冷え切った視線をもってして男性の心に深く刺さるものだ。

 女性が巻き起こす、負のスパイラルに健二は飲まれに行ってしまったのだった。


 怜奈は髪留めゴムをテーブルに置き、自室へと帰っていった。

 散々な目に両者あってしまうという惨劇。

 ブラコンであることを認知した上での軽率な行動は、見事裏目に出てしまった。


「あぁ、やりすぎたのかなぁ。そこまでやってない気がするんだけどなぁ。

 だいたい、こんなのに引っ掛かるかっての普通」


 やり場のないこの空気を、健二は愚痴をこぼしながらさらっと流そうとする。

 朝からテンションの波がおかしい妹よりも、気持ちの切り替えを優先させたい。


 それに、登校時間があっという間に迫ってくるのだから。


「支度、すっかな」


 落ちた歯ブラシを再び咥え、床に落とした白いシャツを拾い上げると制服一式を何一つつっかえず着こなしていく。

 着替え終わると同時に、カバンの奥底に眠っている通称『保護者用のお手紙』を捕まえ救出する。


 案の定手紙は、将来本当に役立つか疑問な情報を載せた分厚い冊子の下敷きになっていて、見るも無残なほどぐじゃぐじゃになっている。


「こぉれ、親見たら泣くな……」

「誰がそれを見たら泣くですって?」

「うわっ!?」


 噂をすれば本人のご登場。

 美人母、明美のジト目。


 しかし眼差しはそれ以上に、母親らしい威厳で割合を占めている。


「これ、どういうことなの!」


 人差し指で、健二のでこをつつきまくる。

 力でも立場でも逆らえない健二は、明美の思惑どおりに壁へ壁へと追いやられた。


「えぇっと、それは」

「んんっ?!」


 壁際まで追いつめた明美は健二を睨みつけると、ボロボロな紙束を手からひったくった。


「まったくもう、こういうのはダメなんだからね?

 めっ!!」


 明美の目に映る健二は、まだ幼稚園生レベルでしかないのだろうか。

 制服を持ってくるにせよ、とどめの「めっ!!」にせよ。


「ごめんなさい」


 発掘のために出した教科書類を一冊一冊丁寧にカバンへしまい続けた。


 ピーンポーン


 とここで、インターホンが鳴った。

 朝からどん底に落とされた気合いが持ちなおされる、唯一無二の存在。

 この状況を打破してくれる、助け舟が来てくれたのだ。


「はぁい、今すぐ行かせます」


 相手はわかっている。


「健、勝っちゃんかっちゃん来てくれたよ。ってあれ? もういない」


 教科書を入れていた丁寧な手つきは一変。

 たこ焼き職人並みの速さと、横着者特有の作業効率を兼ね備え、散らかっていた冊子のすべてが雑にカバンへ押し込まれた。


「それじゃ、行ってくる!!」


 健二は雷鳴のごとく玄関を飛び出した。

 寝癖を直さなかったのはもちろん、

 歯ブラシすらも口にくわえたまま。

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