04 - 町、一変する
033 - 脱出
どれ程の時間が流れただろうか。
永遠に続くかと思われた咆哮の音に異変が現れ始めた。異物が混濁したような音に変わっていく。
(まるで、溺れているような声だ)
町長の口に付けられたマスクが、赤く染められている事に気付いた。
(口の中を切ったのか? それとも、喉か。……いや、もっと深刻な部位かもしれない)
血を撒き散らし不気味さを増していた咆哮は、次第に小さくなっていく。
「もうお終いですか? 残念です。この瞬間に立ち会うため、数年を要しましたのに」
高笑いを止めたカリナがさもつまらなそうに呟く。
鮮血が溜まったマスクの中で、町長はなお口を動かしていた。けれど、実験装置のスピーカーを通しても、その言葉が意味を為して届くことはない。
ケイトは呆然と、哀れな男を見つめていた。
自分と同じく第零次実験により人生を歪められた男。その末路を目の前にして、その惨状を他人事と捉えることは、どうしても出来なかった。
「カリナ、聞いてもよろしいですか?」
それまで沈黙に徹していたファーストが口を開いた。
「私はこの実験のために、わざわざ御上の根城から赴きました。生きた人間の一部ブレスは、私が必要だからです。実験目的は、そこの少女の――あなたの言葉を借りれば人形ですが――治療と伺っています。けれど、その少女は複合実験の失敗作で、元から治療など意味はない。では、何故このような実験を行ったのですか?」
ファーストの瞳は、カリナと同様に冷淡なものだ。
しかし、心なしか力がこもったようにその目が細くなる。
「返答によっては、御上へ報告する事になります。御上の側近をいたずらに動かした、それが冗談では済まないことは、重々承知ですよね?」
冷淡な二人の目線が交わる。
「そう怒らないでください。『フィオナ』は、もっと寛容な性格でしたよ?」
派生実験で造りだされた彼女は、何も言わない。静かに、事の真相を聞き出すつもりだ。
「これもFHIが成長するために必要な実験だったんです」
「……あなた方は、今までも数多くの生きた人間をブレスしてきたはずです。何故、今さら人体の一部のみブレスする必要があるのですか?」
「……」
返答は返ってこない。
ただ、表情に変化があった。口角が上がっている。
――ピュイン、ピュイン、ピュイン
突然、警告音が地下室に響き渡った。
部屋中から警告音が発せられているため、何が原因か分からない。
博士はとっさに町長とリサに目を向けた。
しかし、先ほどと何も変わった様子はない。町長がまだ、何やらブツブツと口を動かしているだけだ。
「カリナ!」
博士が名前だけを叫ぶ。何かやったとしたら、彼女しか考えられなかった。
カリナは口角を上げたまま、
「ヅィーに破壊され、誰だろうと完全には直せなかったブレスシステム。ヅィーの遺体から作成したFHIを育てることで、何とかその抜け穴を通る事が出来ましたが、それを実行できる場所はこの地下室だけ。当初のシステム要件からすれば、実に惨めな制限だと思いませんか? 本来のブレスシステムならば、どこでも、生死を問わず、リネットに送ることができるのに」
「今さら何を言ってるんだ、カリナ! この警告は、何だ!」
博士の叫びが聞こえていないかのように、カリナは語り続ける。
「私は考えました。どうすれば、完全なブレスを実現できるのかと。そして、閃きました。第零次実験では行っていない、いえ、行えなかった方法が、今なら試せると」
カリナがFHIに振り向く。自然と、その場にいる誰もがFHIを見つめた。
そして、皆が同時に気付く。
ケースの中で漂っているヅィーが、その目を薄く開いていた。
「第零次実験では、生きた人間の一部ブレスは全て失敗に終わりました。けれど、成熟したFHIを用いれば、その成功は十分に見込めます。一部ブレスされた人体物質は、FHIにより自由に還元出来ます。では、ブレス対象を町長にするとどうなるか。この町のトップであり、あらゆる権限を有する町長の人体物質を、FHIに添加する事が出来るのです」
町長に目を向ける。町長は、口を動かす事を止め、薄目を開いていた。
その表情は、ヅィーと同じものだった。
「町長は、今なお生きています。そして、町長の人体物質を添加されたFHIと同調を始めました。町長は、今まで以上に力を持ったFHIを、己の意思で利用することが出来ます。この町のあらゆる権限を持ちながら、絶対的な性能を誇る力をも手に入れたわけです。この地下室に限らず、游骸町の至るところでブレスが出来る、我々がかつて目指した完全なブレスを実現できるのです」
その場にいる誰もが返答できない。ただ、カリナの説明に耳を傾けることしかできなかった。
「さて、記憶が捏造されたものだと知り、妻も娘も記憶の中だけの幻だったと知った町長は、巨大な力を手にして何を望むのでしょうか?」
クスクスと笑いを零すカリナは、この先何が起こるか予想しているようだった。
「カリナ! 君は一体何を考えている! これから何が起きるん――」
博士の言葉は、巨大な力により途切れた。
地面が、大きく揺れている。
ケイト達は立っていることが出来ず、床に伏せる恰好となった。
「人形と知ってなお、町長が娘を諦められるとは思いません。……いえ、これだけの力を持つのです。人形に自我を与える気かもしれません。町長の記憶にだけ存在する、娘を作るために」
ただ一人、カリナだけがその場で直立していた。
カリナの足元はコードが何重にも巻き付いており、彼女を支えていた。
両手を広げ、コードで見えぬ天を仰ぐ。
「さあ、始まりましたよ。本来のブレスが。ああ、この瞬間を待ちわびていました! 私はとうとう、あの男を、ヅィーを超えたのです!」
その言葉を最後に、カリナの姿が消えた。
数多のコードが彼女の全身を包み、柱のようなフォルムになったかと思った矢先、その柱が床に消え失せた。
「ブレス……されたのか……?」
その事実に驚くが、それよりも優先することがある。
激しい揺れの中で、ケイトは現状を把握しようと努める。
カリナは言った。
――游骸町の至るところでブレスが出来る――
それは、かつて懸念した最悪の事態だった。
「くそっ! マズいな! 博士、フィオナ、大丈夫か⁉」
「怪我はないけど――揺れが激しくて、とても立てやしないよ!」
「お、同じくですー!」
立つこともできないまま、時間が過ぎていく。
揺れが収まる気配はない。
(このままじゃ、カリナと同じようにブレスされちまう!)
状況を打開する術がないまま、床のコードを握り締めるケイトの視界に、空中を横切る影が映った。その影は、フィオナの傍に着地し、彼女を抱き起こそうとしている。
「ファ、ファースト! お前、空を飛べるのか⁉」
フィオナの身体に何か装着させているファーストは、口での返答の代わりに自身の背中を見せた。背中には、短い棒を中心に、薄い羽が左右に展開されていた。
「飛行ユニット……」
博士が呟く。
何故そんなものを持っているかと疑問に思うと同時、自分の思考がその解を導き出していた。
(町長に施した実験は成功例がない。失敗した際に自分までブレスされる可能性を考えると当然の用意か)
フィオナにユニットを装着させたファーストは、次に博士の傍まで飛んだ。
しかし、
「だ、だめだ、ファースト。ぼく、それ使えないんだよ!」
その言葉を聞き、ファーストは手を止める。
数刻黙り込み、ケイトに振り向いた。
「あなたは?」
飛行ユニットの使用可否についての問い。ケイトは首を横に振った。
ファーストはまた、黙り込む。そして、
「仕方がありません。セカンド、この二人は置いて、わたし達だけ逃げます」
「そ、そんなのダメです! 二人を抱きかかえて飛びましょう!」
「この飛行ユニットは携帯に特化した分、パワーが出ません。急いでこの場を離れるには、彼らを見捨てるしかありません」
「じゃ、じゃあ! 二人にも飛行ユニットを付けて、わたし達が補助しながら飛べば――」
「それは意味がありません。この飛行ユニットは、装着した者が正しく使えなければ、ただの重りです」
フィオナが二人に目を向ける。その瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。
ファーストに手を引かれても、その場を離れようとはしない。
ケイトは博士に顔を向けた。その瞳は覚悟を宿したものだ。それを見た博士が、力強く頷く。
「フィオナ。おれ達の事は気にするな。お前ら二人だけでも逃げるんだ」
「そうだよ、フィオナ。時間がない。早く逃げて」
二人の言葉を聞いても、フィオナは首を横に振り続けるだけだ。その瞳からは既に大粒の涙が零れ始めていた。
「そんなの……そんなの、出来ません! 二人を見捨てるなんて、ダメです!」
ファーストの制止を振り切って、フィオナは飛ぶ。博士と、ケイトの傍に。その華奢な両腕で男二人を持ち上げようとするが、徒労に終わる。
それを見ていたファーストもケイト達の傍に降り立ち、飛行ユニットを外した。何やらユニットを調べている。
「セカンド。わたしから提示する、最大限の譲歩です。わたしとあなた、二人で抱きかかえれば、何とか脱出できる程度の飛行速度は出るでしょう。ただし、抱きかかえられるのは、どちらか一人です」
博士とケイトを見比べる。
「スカラの方が軽いようですね」
そう言葉にしてフィオナを見つめる瞳は、冷淡なままだった。
フィオナと博士、どちらかが口を開く前に、言わなければならない。ケイトの判断は、二人よりも迅速だった。
「ファーストの言う通りだ。迷っている時間なんてない。博士の方が軽い。それに、おれは元々人間じゃない。ただの実験動物だ! 分かったら、早く脱出しろ! 四人とも、ここでリネット送りになるぞ!」
「ケイト……」「ケイトさん……」
沈黙が訪れる。しかし、それは一瞬のこと。
「行こう、フィオナ、ファースト。ぼくを抱えて飛んでくれ」
「スカラさん!」
「いいから!」
それ以上、フィオナの口から言葉は出てこない。ただ、感情だけが涙として溢れ出す。
「飛びますよ」
ファーストのその一言で、三人は飛翔する。
博士が地下室を見渡す。既に半分近くがブレスされていた。
博士はケイトを見つめ、何か言おうとして、口を閉じた。
ただ、力強く頷いて見せる。ケイトも頷き返す。
三人がケイトから離れ、地下室から脱出を試みる。
「ケイトさん!」
フィオナが涙ながらに叫んだ。
「ケイトさんは人間です! 自分で、実験動物だなんて言わないでください!」
ケイトは、視界が歪み始めたことに気付いた。
「ケイトさんと過ごした日々、楽しかったです! 忘れません!」
ケイトの目に涙が浮かぶ。三人が無事に地下室を出ていく瞬間が、歪んだ視界に映った。
(葬儀屋の仕事として、何人もの遺体をブレスしてきたが、とうとうおれ自身がブレスされるんだな)
轟音が響き渡る。既に地下室は、ブレスされていない箇所の方が少ない。
(実験で造られ、振り回されるばかりの人生だったが……最期に人間として死ねるのは、不幸中の幸いか……)
別れる間際の二人を思い出す。
博士の覚悟を宿した瞳。
フィオナの人間と認めてくれた言葉。
(……さよならだ……博士、フィオナ……)
ケイトの視界が暗闇に染められた。
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