032 - 愛娘

 町長が、最愛の娘と共に過ごした日々を、ゆっくり噛みしめるように語りだした。

「活発で、優しくて、甘えん坊で……。リサは、私にとって紛れもない天使なんだ」


 言葉の端々はかすれたままだが、その声色は慈愛に満ちていた。

 視線は宙を彷徨っている。

 かつての幸福を、思い出しているのだろう。


「妻が身籠ったとき、医師から言われたよ。このまま子を産む場合、妻の命は保証できないとね。元々丈夫な身体ではなかったんだ。結婚する前からその可能性は分かっていたが、いざその現実に直面すると、私は狼狽えてしまった。その時の私にとって、最愛は妻だったからね。だが、妻は私に言い切った。この子を必ず産むと。あれは、人間として一番強い意思なのかもしれないな……。今なら分かるよ。自分の子どもが、何にも代えがたい、自分の命よりも大切だと思う気持ちは」


 だから、妻はリサを産み、死んでしまった。

 そこまで話した町長は、言葉に詰まった。

 処理しきれない感情が、心の中に渦巻いていた。


「……それからは、私の最愛は娘となった。小さな頃からお転婆でね。手伝いを雇ってはいたが、苦労させられたものだ。今となっては、そんな日々が私の中で輝いている……。物心がつき、物事の分別を次第につけられるようになると、忙しい私をいつも気遣ってくれるようになったよ。たまの休みに、どこに遊びに行きたいか尋ねると、私にあまり負担が掛からない場所を選んでくれるんだ。母親譲りの、非常に優しい子だ。活発なところは、私譲りかもしれん。私も学生の頃は色々とやんちゃをしたものでね。甘えん坊なところは……どちらに似たのかな」


 零れた笑いが、実験装置のスピーカー越しに伝えられる。


「……毎日が幸せだった。仕事が忙しく、娘と一緒に過ごせる時間は決して多くなかったが、それでも幸せだった。……リサが、不慮の事故に遭うまでは」


 声色が、感情を読み取れない、無機質なものに変わる。


「私は絶望したよ。妻が、命を懸けて産んだ愛娘が、突然いなくなってしまった。身体は活動を続けているのに、リサの意識は、事故の日から失われてしまったんだ。私は躍起になって、治療方法を探した。どんな手を使ってでも、リサを助け出すつもりだった。その想いが途切れたことなどない。そして、唯一可能性がある治療方法が見つかった」


「ケイトさん達が言うところの、不正ブレスを用いた治療ですね」

 カリナが、僅かな補足を加えた。


「ああ……。その治療方法は、君から聞いたものだったな。当時、御上の根城にいた君から、娘を治せるかもしれないと聞いたときは、自分の耳を疑ったよ。必死に治療法を探しているときに、まさか御上の関係者から、その答えが提示されるとは思わなかったからね」


「懐かしいものです」


「ああ、そうだ。もはや懐かしく感じる程、前の話だ。私がこの町の町長となり、リネットを誘致し、リサを治療できる環境を整えるのに、これほどの時間が掛かった」


 声量が、少しずつ、感情を抑えきれないように大きくなる。


「だが、リサはまだ目覚めない。どれだけの犠牲を払っても、リサの意識は戻らなかった。私の任期ももうすぐ終わる。時間がない。ここまで、リサを助けられる準備が整ったというのに……。だから、リサを救うには、この治療方法しかないのだ! 私の命を犠牲にしようと、リサを助ける! かつてそうした、妻のように!」


 思い出話の締め括りは、激昂となった。

 娘が産まれてからというもの、自分の人生全てを捧げてきた男の雄叫びだ。


「……素晴らしい思い出話でした、町長。お聞かせいただき、ありがとうございます」

「なに、礼には及ばん。娘との日々を思い出し、久しぶりに幸福というものを感じられたよ」


 宙を彷徨っていた視線が、カリナに向けられた。

「では、カリナ。もう一度、治療実験を行ってくれ。私は命を懸けてでも、リサを助ける」


「それはできません」


 冷酷な否定を発するカリナの顔には、先ほどまでそこにあった微笑みが消え失せ、いつもの無味乾燥な表情に戻っていた。


「なんだと?」

「これ以上の実験は行いません」

「カリナ……私の話を聞いていただろう? リサを助けるためならば、私は死んでもいいのだ」

「実験は行いません」

「なぜだ!? 町長が突然いなくなることが不都合だからか? どうせ私の任期は残り少ない。君がいれば、その間の執務は問題なかろう」

「問題はそこではありません」

「じゃあ、何故なんだ⁉」


「リサさんへの治療は、無意味だからです」


 町長の双眸が見開かれる。損傷の激しい身体に、その驚愕が与えるダメージは深刻だった。ケースの中で咳き込む姿が痛々しい。


「カリナ……どういう事だ! FHIはまだ未成熟だったのか!」

「FHIの性能は最上です。第零次実験では不可能だったこの治療法も、今なら成功の見込みは十分あります」


 ただし、と勿体ぶった制約が加わる。

「治療対象と実験対象が――ここではリサさんと町長が該当しますが――血縁関係を持っていれば、です」


 町長のこめかみに盛り上がった血管が浮き出る。

 声量は抑えられているが、怒気を含む声色で、

「貴様……。リサが私の子ではないと言うのか?」

「はい」


 今度は、激昂を抑えられず、

「馬鹿を言うな! リサは正真正銘、私と、亡き妻の子どもだ!」

「どうして、そう信じられますか?」


「私の記憶が証明している!」

「その記憶が、誰かに捏造されたものだとしたら?」


 その言葉を聞き、血の気が失せていく。


「第零次実験では様々な実験が行われましたが、その実験体には数多くの死刑囚が使用されたことは、町長もご存知ですよね?」


 町長からの返答はない。


「私と初めて会った日を覚えていらっしゃいますか? 町長の記憶では、私がリネット誘致の話を持ち出した日ではないでしょうか? でも、それは違います。私はよく覚えております。私と町長は、第零次実験のとき、既にお会いしているのです」


 返答はない。


「町長は私の実験対象でした。死刑囚の一人だったのですよ、あなたは。そんな記憶はないでしょう。私が丁寧に調整しましたから。死刑囚となる前のあなたは、御上に反旗を翻す一人でした。己が正義を貫くため、数多くの人々を先導し、反乱組織を作り上げ、御上に歯向かったのです」


 無言。


「人々を導くあなたの演説能力は素晴らしいものでした。ただの使い捨てにするには勿体ないと思い、私の持ち駒とさせていただきました。そして、あなたの記憶を改竄したのです」


 …………。


「あなたに娘はいません。妻も、です。あなたの過去の記憶は、私が作り上げたものです」


 かすれた返答を返す。

「……リサは……リサはここに、いるじゃないか……。私の記憶にある、リサだ……」

「それはただの失敗作です。人の形をした、ただの人形ですよ」


 …………。


「第零次実験で行われた、複合人間を造り上げる実験、その失敗作です。あなたがリサと呼んでいる、それは。意識など初めから無く、ただ人間を模すように生命維持を続けているだけの人形。治療なんて、元から出来ないんです」


 なぜなら、最初から生きていないから。


「こちらの意図通りにあなたが行動するよう、事故に遭った哀れな娘としてあなたの記憶に加えました。ああ、奥さんは、ついでです。記憶にあった方が好都合かと思いまして。実験が終わった後、あなたはこちらの意図通り、この町の町長となり、リネットを誘致し、FHIの成長にも役立ってくれました。私が見込んだ通り、その演説能力を遺憾なく発揮して」


 素晴らしいですね、とカリナは目を細めて称賛する。

「子を想う親の意思というものは」


 そこから先、ケイト達に届く音は、獣の咆哮だった。

 命すら惜しくないと覚悟した男が、記憶の中にいる娘と妻を奪われ、哀れな悲鳴を痛ましく響き渡らせている。


 その獣に対峙する冷酷な技術者は、身を仰け反らせ、肩を激しく揺らしていた。

 自分の上司に仕立て上げた男が心身共に崩れ去る様子を見て、滅多に崩れることのない表情が、歪んでいる。

 悪魔のような高笑いに、その身を揺らしていた。

 笑い声は咆哮に掻き消され、その場にいる誰の耳にも届くことはなかった。

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