3ココネの家には女神がいる。


ココネは夜になった街を、ひとりで歩いていた。

夕方から始めたおとりだったが、ブキミウサギはまだ現れなかった。ケータイを見ると八時二十分。始めてから二時間は経過けいかしていた。

ココネはひとりで歩いている。図書館によったり、カフェによったり、とにかくいつもの生活をするように、ブラブラしている。

バス通りではひときわ目をひくレンタルショップを横目にすると、地味カワアイドル「カノリン」のライブ映像が流れていた。ココネも着メロにしている、最近流行りのアイドルだ。

カノリンはライブでも、かなり地味な格好をしていた。キャッチフレーズは、「アイドルだけど一般目線」。カノリンの熱烈なファンは「一般市民パンピー」と呼ばれていて、そのなかでも中層民はカノリンの改革をめざし、下層民はカノリンの保守派である。

ココネは分類すると下層民派で、カノリンにはずっと地味系でいてほしいと思っていた。「特別不要。派手さは不浄。わたしはわたしだ、普通でじょ~」

ココネはカノリンの歌詞をくちずさんだ。特別じゃなくてもいいから、普通に生きたいと、強く思っているからだ。

ココネは夜空を見あげた。上空には白亜はくあ【次元門エルシア】が浮いている。夜空に明かりがあるわけないのに、ハッキリと見えている。

そして、あれが見え始めたのがいつだったか、よく思いだせない。

なんか空に浮いているなと思ったのが最初だ。変わった雲にも見えた。でもその存在を強く意識したことはない。バイトも始めたし、テストは定期的にあって待ってはくれない。遊びだってしたい。だから、空をゆっくり見あげることはしなかった。

今回の事件がなければ、ずっとそうだったに違いない。大切な日常をあますことなく満喫まんきつし、そのために空を見るひまはない。

いまは逆に意識しなければならない。アレのせいにして、なんとか平静をたもつ。そうしなければわたしは、叫びながら逃げだすだろう。

特別を望んでいない自分である。普通がなによりも大事だという考えは、おそらく両親から教わったものだ。毎日毎日、あきることなく豆腐をつくり、それを売る。苦労だってある。でもいつも笑顔で、楽しんでいる。それは普通だからできるのであって、わけのわからないモノが見える異常のなかでは、きっと叶わない。

ココネはバス通りを歩きながら、そんなことを考えていた。できることなら普通に戻りたい。

動きやすいようにはきかえたジーンズのポケットから、一枚の紙をだす。小さなメモの切れはしには、ココネが移動する順路が書かれていた。

このまま直進し、スーパーをこえて右折。ウィーヴのあった裏道よりも、もっとさきの道だ。それはココネの通学路で、毎日のように使っている道だった。つまりブキミウサギの活動範囲で、ココネは生活していたことになる。

では、なぜ襲われたのがいまなのだろう? その疑問にソフラは、飢餓が関係していると答えた。

(ま、説明されてもいまいちだったけど、とにかくお腹が空きすぎて、なんでも食べたいって気持ちが強くなった、とかなんとか…それが体じゃなくて魂の性質に起こるから、アニミスも魔性化ましょうかして魔力に変わっちゃうとか、なんとか…なんでもかんでもって標的にニンゲンもふくまれるし、うばってでも欲しいっていう意識が、善までも悪にしちゃう…とかなんとか)

言葉は覚えているが、意味となると曖昧あいまいだった。なんにせよ、ブキミウサギは、いくとこまでいったということらしい。

いろんなことを考えながら歩いていると、スーパーをこえた。ココネの通学路まで、あと二百メートルくらい。

自然と緊張してくるが、どこかでソフラが見ていることを知っている。だからココネは勇気をもって進むことができた。

脳内にはカノリンの曲がいくつも流れた。とにかく普通の日常に帰りたい気持ちが強かった。

ついに、通学路にたどりつく。バス通りからそれると、街灯がいとうがポツリポツリと照らす、住宅街のようになっている。

歩いているのはココネひとりではない。出勤から帰宅するサラリーマンや、学生の姿も見える。

(ただ家に帰るだけ。そう思えば大丈夫…)

平静をよそおうために、自分をだましながら進む。いつもの通学路だったはずだが、いつもなら気にならないのだが、暗闇のひとつひとつが、なんだか恐ろしく感じる。

…ブキミウサギはいつ襲ってくるだろう。昨夜の公園が見え始めると、ココネの手はかすかに震え始めていた。



ソフラ・イヴォンは、月光を背にウチカドココネを眼下がんかとらえていた。

白を基調きちょうとした姿と、銀光に映える髪は完全に同化し、彼女を見つけることは不可能に近い。

ソフラの表情は、いつものように穏和おんわなものではなかった。敵の存在を確実に察知さっちし、撃退げきたいするために、けわしくゆがんですらいる。決意と、決断を、これから実行することになる。

「殺すことになる…できるだけ回避かいひしたいのですが、日中のようすからすると…」

ココネを守るために、全力をだす必要がある。飢餓による魔力の暴走をとめるためには、存在ごと消すほかない。

迷いは敗北をまねく。持てる力をすべてだす必要がある。敗北はココネの死を意味する。それだけは許さない。

「これで最後になるかもしれませんね…ソヨギさま…」

ソヨギを想った瞬間、ソフラの表情はふだんの彼女に戻っていた。

しかしすぐに険しく歪む。覚悟の弛緩しかんは許されない。

「勝たなければならない。ですがそれは…」

神の禁忌きんきがあった。こちらの世界で殺すこと――それは、あちらの神にとって別離わかれを意味している。

「…わたしは、ひとを守る役目を果たします。ソヨギさま…!」

ソフラは、禍々まがまがしく放たれた魔力をとらえ、疾走はしる――



やはり、公園だった。

「逃げるなニゲルナ逃げルナァァァァ…!」

「に…逃げるわよ!」

公園に入りすぐ、背後から声がした。

振り返れば紳士風のウサギがいた。絶叫し、逃げた。

ココネは昨夜の自販機を、横目にしながら走った。背後を見れば、ブキミウサギはヨダレをたらしながら追ってきていた。

昨夜のように世界は暗くならなかった。ブキミウサギが正常な状態ならば、心奪系ハートレイト魔技まぎをしかけてくる。そうして視覚と感覚を捕縛ほばくし、安全な狩りをする――それがソフラの説明だった。

(してこないってことは一番アブナイ!)

ということも説明された。

ココネは公衆トイレを通りすぎ、すぐに曲がる。角に隠れるようにし、お尻のポケットからスプレーを取りだした。

ブキミウサギはすぐに追いついてきた。食欲に狂った歓喜かんきの表情に向けて、スプレーを噴霧ふんむする。

「はっ…ぐあっ! ナんだコレはぁぁぁぁっ!」

痴漢ちかん撃退げきたいのスプレー! やられっぱなしじゃないんだからっ!」

この攻撃はココネの考えだった。罪のないタートス親子を傷つけたやつに、一発かましてやりたかった。

だから、それですぐ逃げる。ブキミウサギは顔をきむしりながらののしってくるが、ザマーミロと言ってやる。目指したのは公園内のいちょう並木、その向こうにあるグラウンドである。

と、ドオンッ! という太鼓たいこをたたくような音がした。ココネの体は一瞬、緊張でかたまった――が、まえもってソフラに注意されていたため、ケガを覚悟で横にんだ。

ズザァッとヘッドスライディングのように砂地に転ぶ。そのすぐ近くを高速の物体が通りすぎ、いちょう並木の一本を、真んなかからぶち折った。

ココネはすぐにたとうとしたが、できなかった。なれないアクションで足をやったらしい。振り向くと、ブキミウサギがゆっくりと歩いてきていた。

「ニゲげ…逃げナイ…ニゲナイ、の…でスカ…タベマスよ? 食べ…て、かかか解放…」

「あんたなんか――!」

ココネは寝そべったまま、体の正面だけは向けて、叫んだ――負けない!

「あんたみたいなやつは、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえっての!」

「な…んのハナシでししししし…」

――ゴガァンッ!

…紫の雷撃が、ブキミウサギの脳天に直撃する。それはブキミウサギの全身を貫いて、消えた。ブスブスという煙をあげながら、ブキミウサギは白眼をいて硬直する。

スタッ――と、ココネとブキミウサギのあいだに、あわい光をまとうソフラがおりてきた。

「やったねソフラさん!」

「…いえ、まだです。軽い技ではとめられない状態にまで、魔力が高揚こうようしているようですね」

ソフラがくちにしたとおり、ブキミウサギは意識をとり戻したようだ。白かった眼には、禍々まがまがしい赤い光が浮かぶ。

ついで、ブキミウサギの体を包むように、なにか黒い湯気ゆげのようにも見えるものが、ゆらゆらと浮かび始めた。

その黒い湯気の正体は魔力である。体内にあるべき魔力が、外へと排出はいしゅつされる状態――ソフラがバーサークと呼んでいた現象げんしょうだと、ココネは事前の説明からも理解する。

「は…ハハッ!」

ブキミウサギは硬直からたちなおると、ひきつった笑みをソフラへ向ける。そしてゆっくりとした動作で、杖を真横にかまえた。

「ジャマ…だっ!」

ブキミウサギは走り、杖を引き抜いた。あらわれた刀身が、ソフラに向かって振りあげられる。

ココネは目をおおいかけたが、キィィィィン…という、金属がぶつかりあう音がひびいた。

ソフラはいつのまにか、一振ひとふりの剣を手にしていた。ぼんやりとした白で形成された剣が、ブキミウサギの攻撃を受けとめている。

「事前にそれを見せたのは失敗でしたね」

「ピョピョッ…タノシマセテくれるじゃないですかっ!」

と、ブキミウサギは一歩退しりぞき――ぴゅんっ! と高速の突きを放った。ソフラは瞬時しゅんじに剣による打ちあげでさばく。

そしてココネはそれからの攻防を、見ていることができなくなった。

のだ。ふたりが移動する範囲はんいは狭いが、なぜか見失う。ときおり剣の鍔迫つばぜりあいがあり、動きがとまったその瞬間に姿が見えるくらいで、あとはなにをしてるのかがまったくわからない。ココネが理解できるのは、砂が舞ってふたりの位置がなんとなくわかることと、剣が接触せっしょくする音で戦闘が続いているということだけだった――キンギャンカンギャンギャギャギャ――!!

ココネは危険をはだで感じて、痛みをガマンしながらたちあがった。できるだけ離れていたほうがいいだろう。ソフラの邪魔にはなりたくない。

ココネは近くのいちょうの木に隠れるようにして、その戦いを見守った。自分でもなにかできないかと思って痴漢撃退用スプレーなんて持ってきたが、どうやらそもそもが別世界の、違う次元の話なのだ。ただのニンゲンにできることはなにもなかった。

いつまで続くのだろうと思われたふたりの戦闘は、ブキミウサギの限界で終わろうとしていた。仕込み杖が、ソフラの一閃いっせんにより、折れる。

金属がひしゃげ、キィン! とひとつ、かん高い音がした。折れたが、サクリと砂地に刺さる。ふたりは同時に姿を見せてとまった。ふたりはおたがいに手が届くような距離にいる。

「剣での戦いをいどむのならば、武器の強度きょうど考慮こうりょすべきでしたね」

「ウルサ…イ!」

ソフラの挑発ちょうはつめいたセリフに、ブキミウサギは激高げっこうしたように表情を歪めた。そして、変わる――

「ピョオォォォォォォ!」

ブキミウサギの雄叫おたけびとともに、ゆらいでいた魔力が縦横無尽じゅうおうむじんにひろがった。水面みなもにゆっくりとけていく絵の具のように、空間にひろがっていった。

ココネはその魔力に――なまじ見えるものだから、はだでもその恐怖を感じてしまっていた。激しい緊張きんちょうと寒気を覚えてカタカタと震えた。

ソフラはどこか悲しそうに、その光景を見ていた。ソフラの眼差まなざしにはハッキリとしたうれいが見てとれる。

「…そうなってしまったのは、わたしの責任です。わたしがもっと、優秀な女神であるならば、あなたの破滅はめつへの傾倒けいとうを、とめることができたはず…」

ソフラの言葉の意味は理解できなかったが、彼女はやはりどこか、悲しそうだった。

「わたしができることはただひとつ…」

ソフラは剣を深くかまえた。腰を落とし、やや腕を後方にさげる。そして剣のぼんやりとした光は、闇を切り裂くような発光へと変わる。

「あなたの魔力を完全につことだけです」

「ピョアイオアガアァァァァァァ!ッ」

ブキミウサギは無茶苦茶な絶叫を発しながら、飛びかかる姿勢になる。跳躍ちょうやくの瞬間、脚部きゃくぶが何倍にも膨張ぼうちょうした。

ココネが戦闘機のエンジンに似た爆音から耳を守るのと、ブキミウサギの超高速の突進――視認しにん不可能の攻撃に、ソフラはこうから剣を振りあげた。まるでそれは、なにもない場所を斬りあげたようにしか見えなかった。

ゴガァンッ! と、それこそ落雷でもあったような轟音に、ココネのふさいだはずの耳がしびれ、その音の衝撃しょうげきに体が吹き飛ばされるような感覚がした。近くのいちょうの木が台風にさらされたように、バサバサと枝を踊らせている。

見ると、ブキミウサギは完全に停止していた。ソフラの剣が、空中にいるブキミウサギを受けとめて、そこで一時停止ボタンを押したような光景である。

進む力と退しりぞく力が拮抗きっこうしたつなひきの中間の布を思いだしているうちに、ソフラがくるりと回転する。

そしてそのあいだに、ソフラの剣は変化した。ただの長剣が大剣ほどの大きさになり、したからブキミウサギを――ゴッ… ――音よりも早くブキミウサギが上空へ消え――…ガアァァァンッ! ソフラはそれを追いかけるように、上空に向けて超高速で飛翔した。

ココネは頭がついていかずに、遅まきながら夜空を見あげた。

月ののなかに黒い点が浮いている。その黒い点はふたりなのだろうが、遠すぎてなにが起きているのかはわからない。

――と、カッ! という閃光が走り、黒い点と黒い点が衝突しょうとつした。自由落下以上の速度でそれが降ってくる。それはまるで彗星すいせいのように降ってきて、公園のグラウンドへと落下していった。

たとえようのない轟音ごうおんがした。体が宙に浮きそうなほどの暴風が、公園内を駆けめぐる。まるでそのようすは、近くに隕石いんせきが落下したようだった。

爆風により、きりのように公園にただよう砂。視界が悪く、ふたりがどうなったのかは見えない。

ただ落下の最中にちらりと見えたのは、強烈な力になすすべがないブキミウサギの姿と、どこか見なれた白い立体長方形の姿だった。それはまあ、気のせいだったかもしれない。

ココネは暴風がやむと、痛む足を押さえながらグラウンドにむかった。

砂の霧がゆったりと流れていく。ココネは緑色の防護ネットのカーテンをあけて、グラウンドに入った。

あれだけの爆発があったにもかかわらず、被害ひがいはたいしたものではなかった。グラウンドのほぼまん中の二塁にるいあたりに、掘削くっさくしたような大穴が空いていて、クレーターのようになっている。深さは二メートルくらいだろうか? その大穴は傾斜けいしゃになっていて、ホームベースから穴の中心地まで、ゆるやかな傾斜になっていた。

「ソフラさん!」

ココネは穴のふちから名前を呼んだ。砂の霧のせいで、ふたりの姿は見えなかった。

これだけの威力いりょくである。ふたりでバラバラになっているということも考えられた。

「ココネさん」

穴の中心地からソフラの声がした。ココネは痛む足のせいで転びそうになりながらも、クレーターの傾斜をおりていく。

ソフラのところに着くまでには、砂の霧もだいぶ晴れていた。とりあえずソフラの姿が見えたので、ココネは自然と笑顔になっていた。

「ソフラさん、よかっ――」

――た。砂の霧が晴れ、ソフラの足もとに転がるブキミウサギを見たとき、ココネは足をとめていた。自然と笑顔がかたまった。けしてよかったとは言いきれない光景が、ココネのまえにあった。

ブキミウサギは手足を投げだし、完全に力つきていた。表情は白眼をいて、舌がだらりとでていた。まるで剥製はくせいのように、まるっきり動かなかった。

ソフラがゆっくりと歩いてきた。ココネはしかし、こと切れたブキミウサギから視線をはずせない。ソフラはただ、優しく話した。

「バーサークは、魔力高揚の限界の、直前にあります。無意識にあふれた魔力は純粋じゅんすいであり、その性質には生半可なまはんかなアニミスは通用しません。アニミスとは反対に位置する力により、まるでよろいのような効果を発揮はっきするのです」

ソフラはどこかいいわけしているように感じた。いや、じっさい、そのつもりなのかもしれなかった。

いくらモンスターが相手とはいえ、死をあたえてしまう行為を、優しいソフラは罪悪ざいあくと感じるだろう。なにせ彼女は女神なのだ。

「そのために、こうするしかありませんでした。魔力の防御をうわまわる威力で、倒すしかなかったのです。ですがこれは、ココネさんのせいではありません。これは、わたしたちの世界では、当然とうぜんにある結果なのです」

「でも…でもソフラさんが…」

ココネはなんだか悲しくなって、涙を流していた。

思うのはひとつ。なんでわたしは無力なんだろうか。なぜ自分のために、ソフラが傷つかなければならないのだろう。わたしが恐怖ときちんとむきあえるニンゲンだったなら、ブキミウサギだってこうならなくてよかったんじゃないか? 昨夜ソフラをひきとめなければ、終わっていたかもしれない。誰も傷つかずに、終わっていたかもしれない。

「ご…ごめんなさい…! ごめんなさい!」

「ココネさんが謝る必要はないのです。わたしがただ、非力ひりきなだけなのですから。わたしがもっと、女神として優秀であったなら――」

と、それは起きる。ちょうどソフラがココネを抱きしめようとした瞬間である。

ドオンッ! となにかがぜる音がした。ソフラがココネの名を叫び、強く抱いた。そして衝撃が走った。そして、ココネはソフラに抱かれたまま、十数メートルほど地面を跳ねてころがった。

ズザァ…と、停止する。そこはグラウンドのはじ。防護ネットの支柱に近い場所だった。

抱かれたまま見ると、ソフラが苦痛に顔を歪めていた。

「ぐ…! あぁ…!」

「ソフラさん! ソフラさん!」

「あ…くっ! 知らぬまに…手加減てかげんを…?」

ソフラはこの状況のなかで、状況把握じょうきょうはあくにつとめようとしていた。

ココネはしかし、ソフラの目を見て愕然がくぜんとした。しっかり開いてはいるが光がない。ソフラの状態がどういったものなのか、すぐにわかった。

心奪ハートレイトにかかっている。ココネも体感したあの闇の世界に、ソフラはいる。

「ソフラさんしっかりして!」

「なぜ…? わかっています…わたしはただ、恐れていたのです…」

「ソフラさん!!」

いくら呼びかけても、ソフラは焦点しょうてんのあわない目で、ぶつぶつとなにかをささやいていた。まるでそれは一心不乱いっしんふらん懺悔ざんげをくりかえしているように思えた。

砂を踏む音が聞こえた。ざっざざっ…と、不規則ふきそくな足どりであることがわかる。

ブキミウサギがクレーターを歩いてきていた。焦点のあわない目がふらふらとし、なにを見ているのかもわからない。開きっぱなしのくちからはヨダレをたらし、まえに進もうとして踏みだした足がナナメの位置を踏む。体がゆらゆらと揺れている――まるでクスリでおかしくなった中毒者ジャンキーのようだった。

ココネの心を恐怖が支配して、ソフラを強くゆする。だがソフラは呆然と懺悔を続けた。

「ソフラさん! ソフラさん!」

「女神が恐れを抱くなど…あってはならないのです…わたしは…わたしは…」

そんな状態のソフラとブキミウサギを交互に見て、ココネはいますぐにでものどけるほどに絶叫したかったし、頭をメチャクチャにかきむしって、意味なく地面を殴りつけたかった。どうすればいいのかわからない。

そしてココネはハッとした。この状況は昨夜、初めてブキミウサギに襲われたときと似ている。

だが、昨夜とは確実に違っている。昨夜は意味不明でパニックになりかけた。だが今日だけで、ずいぶんと異世界の知識も増えたのだ。

襲ってきているのはではないのだ。魔力が欠乏けつぼうし、狂気におちいるほどの飢餓にある、ラビリオン属のモンスターである。

やつはなにを追っているか? それは自分と酷似こくじした魂の波長を持つ――わたしだ。

やつはいま自我じがすらうしないかけているのに、なぜこちらに迷いなく向かってくるのか? それは魂の波長が追えるからだ。そして波長は飢餓にあるモンスターには甘美かんびであり、やつはどうしてもわたしを食べたい。

ならまだ、できることはある!

「こっちよラビリオン!」

ココネは痛む足をひきずるようにして、できるだけソフラから離れるように走った。

ソフラは戦えなくなった。ならせめて、自分はおとりをまっとうする。

走りながらうしろを見ると、ブキミウサギは人形のような不自然な動きで、こちらに向いていた。どうやらうまく誘導ゆうどうができそうだった。

(なにか、倒せる方法があるはずなんだ!)

ヒントはタートス属のメィカーだった。彼はブキミウサギを寸胴鍋ずんどうなべで殴りつけた。ブキミウサギはメィカーを、剣で斬りつけた。

そのどちらもが示すのは、ということだ。ソフラのような魔法じみた攻撃は必要ない。あったほうがいいかもしれないが、ココネは普通のニンゲンだ。だから、やつを倒せる物理的な威力が必要なのだ。

だが具体的な案は浮かばない。突き落とすがけのようなものはない。

ココネは逃げることにてっした。自分のせいで誰かが傷つくのはイヤだったからだ。だからなにもできないが、なにかしなくてはならない。自分のためではなく、自分のせいで誰かが傷つかないように。

ココネの足は早くなかった。振り返ると、ブキミウサギの歩調と、自分の走力に違いはあまりなかった。つかず離れず…しかしグラウンドからはまだ抜けられない。

(でもこれで、ソフラさんは助かる。最悪わたしが食べられても、ソフラさんは助かって、回復して、きっと倒す)

そんなことを考えていたからか、ココネの足はもつれた。派手に転び、だがすぐにたちあがる。食べられてしまうにしても、まだ早すぎる。もっと距離を稼いで、時間を稼いで、ソフラが確実に助かるようにしなくてはならない。

そうやって逃げていき、ついにはソフラのいる位置から反対側にまでたどり着いた。グラウンドに出入りするためのネットの切れ目は、二ヶ所にかしょしかないようだった。

ココネは防護ネットを開き、外にでようとした。目のまえに見えているのは、公園からでられる階段である。はばせまい、木がいくつか生えた道路のようになっていて、すぐそこに階段がある。暗いために、ふだんからあまり使わないようにしている場所だった。

防護ネットからでると、すぐ横に自販機とベンチがあった。自販機は明るいが頼りない。と――

ガコン…という、ジュースが落ちた音がした――誰かが自販機で、飲み物を買っている。

ココネはそちらに気をとられ、そして思わず声をあげた。

「ソヨギさん!」

「…こんばんは」

そこにいたのは上下黒ジャージの、ソヨギだった。



「ソヨギさんどうして…」

「まあ…見てのとおりのジョガーです」

ジョガー? つまりジョギングをするひとである。

だがソヨギの姿はまるで、夜更かししてる中学生のようにしか見えなかった。しかもなぜか、お腹がぽっこりふくらんでいる。そうなると万引きしてきた中学生にしか見えなかった。

ココネはそこで背後を振りかえった。ブキミウサギが五メートルくらいの位置にいる。

「ソヨギさん! いま――ソフラさんが大変で…!」

あせりからか、うまく言葉がでてこない。

ソヨギはわかったようなわからないような感じで、頭をポリポリとかいた。

「メガ美さんはいつも大変です…いろんな意味で。とくに内面が」

「そんな冗談いってる場合じゃないんです!」

ココネはブキミウサギを指さしてわめいた。ソヨギはつまらなそうにそっちを見て、ネットごしにブキミウサギに気づいたようだ。

「…ウサギコスプレイヤーが楽しそうですね。なによりです」

「と…とにかく! 助けてください! わたしじゃ、わたしじゃ…なんにもできなくて…!」

ココネの目から、うっすらと涙があふれた。なにもできないことが悔しくて、でもそんな場合じゃないとゴシゴシとこする。

ソヨギはなんだかあきれたように、また頭をかいた。どうやらそれはソヨギのクセみたいだったが、なにか感情を読みとれるものでもない。

「…とりあえず、メガ美さんどこです?」

「あっち! あっちです!」

ココネは指でソフラをしめしながら、できるだけ早く進んだ。ソヨギはジョガー中らしく、ほっほっとか言いながら小走りでついてきた。

ブキミウサギはふらふらと、ゾンビのように追いかけてくる。ソヨギとのやりとりのあいだにだいぶ距離が――!

「ソヨギさんあぶない!」

「…え?」

ソヨギがぽかんとする。ブキミウサギがソヨギのまうしろにいた。ブキミウサギは拳を、ソヨギに向かって振りあげた。そのままソヨギに振りおろす。

ココネはその一瞬のあいだに、さまざまな光景を思い浮かべた。ソフラとブキミウサギの戦い。あのニンゲン以上の力。ソヨギがブキミウサギの手で、あっけなく倒れる姿――が、

「へ?」

ブキミウサギの拳はソヨギを大きくはずれ、土の地面を打ちつけていた。ごん! と、打たれた地面がへこむ。ブキミウサギはその姿勢のままとまった。

ソヨギは、ふつうに小走りである。じゃっかん横に移動したようにも見えるが、さきほどとどういうふうに違っているのかは、まったくわからない。

(よけた?)

ココネが唖然あぜんとしていると、正面で足踏みを続けるソヨギが、不思議そうに話しかけてくる。

「どうしました?」

「あ…いえ、いま…どうなったんですか?」

「なんのことだか…ところで足、ケガってます?」

「あ、はい。転んじゃって」

「じゃ、ちょいと失礼…遅いんで」

「へ?」

ココネはひょいと抱えられて、目を丸くした。

お姫さまだっこである。あのなんとなくあこがれであったお姫さまだっこだ。

ソヨギはなんのてらいもなく、そのままほっほっと走りだした。

ココネのほうは、なかなか大変だった。べつに好きでもないし、むしろ嫌いなソヨギに対してドキドキする。クラスの男子のなかで、こんなふうに男らしく振る舞えるコがいるだろうか? そういえばソヨギは二十歳すぎくらいだったか。これがあれか、俗にいう大人の魅力なのか。うむ、なかなか悪くない。しかしなかなかガッシリした腕だな…む、ヤバいヤバい。男の魅力ってやつはヒジョーに心をみだす。わたしはまだいたいけなJKなのだ。てゆーかそんな場合じゃないし。ブキミウサギをどうにかしないといけないんだから…でもすごいな。わたしけっこう重いと思うんだけど、ひょいってしたよ、ひょいって。なるほど。たくましい男ってやつかこれが。ドキドキするなぁ――と、

「いったあぁぁぁぁい!」

「あ、ケガしてるほうでしたか…」

痛いほうの足からおろされ、ココネは叫んだ。痛すぎて、さっきとは違う涙を流す。いままでのドキドキとか返してほしいが、ソヨギはかがみ、ソフラを心配そうに覗きこんだ。それを見て、どうでもよくなる。

「メガ美さん…なんてヒドイ…」

ソヨギがソフラをそっと抱き起こした。ソフラはいまだに虚ろな目をして、ぶつぶつと誰かに許しを求めている。

「ブキミウサギにうしろからやられちゃって…でもわたしじゃなにも――」

「…目を開けたまま寝るんすね。しかも寝言がやたらネガティブ…いろいろヒドイ。これ、女性としては致命的ですよね…」

「違いますよ! ハートレイトにかかってるんです! ソフラさんに限ってそんな寝相はないです!」

「…え?」

「え? じゃなくて! なんでいちいちわかってるくせにわからない感じなんですか! ブキミウサギとか見ればだいたいわかりますよね、状況!」

ブキミウサギを見る。五十メートルほど離れているし、やつの歩みは遅い。ふらふらとしてるせいか、たまに転んだりもしていた。ただそんな状態でも近づいたりしたら、なにをされるかわかったものではない。

「はーとれいと?ああなるほど。あの真っ暗なやつか…じゃ、これで」

どれで? と、ココネがなるまえに、ソヨギはさきほど買ったのだろう、ペットボトルを手にした。開ける。

「それ、なんですか?」

「これはあれです…聖域である南アルプスから探してきた神水しんすい…つまり天然の水」

「…ミネラルウォーターでいいです」

「そっすか。じゃあそれで…はい、メガ美さん。お水ですよー」

ソヨギは静かにペットボトルのくちを、ソフラがぶつぶつと動かす唇に近づけた。

――で、一気にガッとかたむける!

「ごぶごばごべごぼお――」

「ちょちょちょちょソヨギさんっ!?」

「いい飲みっぷりです」

「飲めてないよだいたい出てるよぉぉぉ!」

「がぼがべご――ぶばはぁっ!」

ソヨギのアブナイ行為をとめようとしたそのとき、ソフラがだいたいの水を吐きだす――というか、くちにいれたぜんぶを吐きだした。

「げほっ! ごぼっ! おほっ…あ…あれ? ソヨギさま…?」

「…メガ美さん。アブナイところでした。いやマジで」

「アブナイのはソヨギさんでしょおっ! ソフラさんになにかあったらどーするんですかあっ!」

「まあ…とりあえず気づいたみたいなんで…」

ココネはソヨギをひっぺがすと、ソフラの両目をまじまじと見る。

「光が戻ってる。よかったソフラさん」

「あの、わたし、そうか…ハートレイトにかかっていたのですね? ソヨギさま、ありがとうございます。けほっ!」

「いえ…じゃ、そういうことで」

「ちょっと! どこいくんですか!」

ソヨギはうんしょとたちあがり、どこかにいこうとする。

それを追いかけようとする――しかし、ソフラの体がグラリと傾いた。すかさずそれを支える。

ソフラは回復したように見えるが、どこかまだ、調子が悪いようだった。

「ソフラさん大丈夫? たてない?」

「おそらく、ハメハちゃんが受けたハートレイトでしょう。体がしびれたような感覚です。まるで弛緩毒しかんどくのような…これでハメハちゃんは体が正常に機能しなかったのではないかと思います。アニミスが乱されるようで…動けるようになるまでは、まだ時間がかかりそうです。すみません…」

「そっか。でもソヨギさんが抱えれば大丈夫だよね? ソヨギさ――!」

「ココネさん。あとはソヨギさまにまかせて…大丈夫ですから」

ココネはわからず、ニッコリとほほえむソフラを見つめた。

大丈夫――?

なにに対しての大丈夫、なのか。

ソフラは時間はかかるが回復する。そうすれば逃げられる。ソヨギは最初から問題なく逃げられる。ココネも逃げられる…ん? べつにソフラの回復を待たなくても、ソヨギが手伝ってくれさえすれば逃げられる。

ああ…だから大丈夫なのか…? いや、待て、ソヨギはどこにいったのだろう。

ココネはグラウンドの外のほうに、ソヨギの姿を探した。砂まみれのいちょう並木、その近くにある自販機、トイレ――どこにもいない。

まさかと思ってグラウンドを見る。しかし、ソヨギはいない。そのかわりにふらふらしたブキミウサギが、クレーターにおりていく姿が見えた。

イヤな予感がした。ブキミウサギの方向転換ほうこうてんかんに、どんな意味があるのか。

それは、考えたくもなかった。

「ココネさん。もうしわけないのですが、たたせていただいても?」

「いいですけど…大丈夫って? まさか、ソヨギさんは…!?」

ソフラに手を貸してやりながら、ココネは自分もたちあがる。ソフラはただ静かに、微笑んでいた。

「ああ、やっぱり。たちあがればよく見えますね」

「まさかソヨギさん!?」

ソフラの視線を追っていくと、クレーターのなかにソヨギがいた。なんかストレッチ的な動きをしている。しかし、なぜかめんどくさそうである。

そのソヨギへと、ブキミウサギが歩いていた。クレーターの傾斜をふらふらと…そしてつまずき、砂煙をあげながらゴロゴロと転がった。

「だめ、とめないと! 相手はモンスターなんですよ。ニンゲンじゃ敵わないじゃないですか!」

「そうですね。でも大丈夫です」

「大丈夫じゃないです!」

「いいえ。大丈夫なのです。ソヨギさまは――」

ソフラはどこか、うっとりとした声音で言った。

「普通のニンゲンですが、普通ではないのです」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る