5.
ずっとずっと奥のほうで、ひっきりなしに音が鳴っている。明るいほうへ、ぐんぐんと意識が浮上する。
布団から出て、カーテンを開ける。瑞々しい朝の光が、さあっと部屋の中を照らし出す。羽奈はベランダに続くガラス戸を、大きく開け放った。一人で占領していた二人用の布団を抱え、外に出る。清冽な五月の空気が、羽奈の周りを取り巻いて流れる。涼しいが、肌寒いと言うほどではない。羽奈は布団を干して、網戸だけを閉めた。
やかんを火に掛けてから、洗面所で顔を洗う。鏡の中を覗きこむと、彼女はまだ少しだけ、硬いものを飲み込んだような顔をしていた。それを眺めながら、ブラシで髪を梳かした。
Tシャツと半ズボンに着替える。すうっと、足の間を風が抜けていく。脱いだ寝巻を脱衣籠に放りこんで、紅茶の支度をした。ただし、今日は牛乳もなしだ。
羽奈は、よし、と呟いて、平皿とフォーク、マグカップを食卓に並べた。そして、ラップを剥がした十センチほどのパウンドケーキの残りを、丸ごと、皿に載せた。
「いただきます」
神妙な顔で小さく呟く。もう、迷わなかった。まっすぐフォークを突き刺した。
大きな塊を口に含む。まろやかなバターと胡桃の風味が、鼻に抜ける。生地は昨日よりも、さらにずっしりと重い。それを、噛んで、溶かして、呑みこんでいく。日奈の味。他の誰にも作れない、羽奈がいちばん好きな味。
羽奈は、一口ひとくち、もくもくと噛みしめて食べた。
――日奈あ、今日は何作ってるの。
――パウンドケーキだよ。
――胡桃が入ってるやつ?
――そう。
――やった。……そういえば、パウンドケーキの『パウンド』って何?
――一ポンドのこと。砂糖も卵もバターも小麦粉も、一ポンドずつ使うから。
――じゃあ、パウンドケーキには、どれも同じくらい大事なんだね。
――パウンドケーキに限らず、お菓子の材料ってぜんぶ欠かせず大事だと思うけど……同じくらい、そうね、そうなのかも。
――なんか、きっちり等分なの、私たちみたいだねえ。
――うん、そうだね。
日奈は、我が意を得たり、とばかりに笑った。残ったもう半分の材料を、彼女は先に、見つけていた。
これは、三日前のこと。
ああ、おいしいなあ。お腹の底はかなしいのに、羽奈はひとりでに笑みを零す。
パウンドケーキは、出来立てよりも、二、三日置いたほうがおいしくなるタイプのケーキだ。それは知っていたけれど、目の前にお菓子があればどうしたって食べてしまう。だから、三日もとっておいたこのケーキは、今まで食べた中でいちばんおいしいパウンドケーキになった。
どんどん、日奈がいた証が、私の中にしまわれていく。
いつか私は、きっとお菓子も焼けるようになるだろう。そうしたら、いつか帰ってきた日奈に、おいしいケーキを焼いてあげよう。ひとりでぜんぶ、焼いてあげよう。
それから羽奈は、紅茶を飲みほした。いつもより少し渋くて、透きとおった味がした。
歯を磨いて、白いブラウスと青いジーンズを着て、買い物に出かける。お昼ご飯は、私の好きなミートソース・スパゲティにしようか。自転車のサドルに跨った羽奈の上に、もうすぐ夏になる陽射しが降る。
彼女が浅葱色の封筒を郵便受けに見つけるのは、あと一時間先のこと。
立つ鳥のあとに 音崎 琳 @otosakilin
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