4.
ぱかり、と目が開いた。全身が重い。昨日カーテンを閉め忘れた窓から、底抜けに明るい光が射しこんでいる。首を捩じって目覚まし時計を確認すると、一時半だった。身体に力が入らない。
一時間以上寝返りを打ってから、羽奈はようやく布団から這いずり出て、風呂場に向かった。顔も洗わずに寝たせいだろう、なんとなく気分が悪い。半透明の膜に閉じこめられているようだ。脳みそは全く動こうとしない。
吊していた洗濯物を、適当に籠につっこんでいく。半日以上干していたのだ、確かめるまでもなく乾いているだろう。畳むのは後回しだ。まずはシャワーを浴びたい。
部屋着を脱ぎすてた時の、ぱさり、という音がやけに軽く響いて、少しだけ不安になった。
――ちょっと、羽奈。
脱衣所の戸を開けると、中にいた日奈が慌てて叫んだ。高い声に驚いて首を竦めるが、当の日奈はまだブラウスを脱いだだけで、悲鳴を上げられるほどの事はしていないでしょうと思う。たぶん、急に開けたからびっくりしただけなのだろう。
――ごめんごめん、部屋にいると思ってた。……あれ、日奈、痩せたんじゃない。
――うーん、そうかも。
――ちょっと不健康だよ。
日奈は、目の下に隈を作りながら小さく笑んで、何も言わなかった。
これは、一週間前のこと。
頭から湯を被りながら、目を閉じる。ざああああ、と水音。おぼつかない肢体を、立体感のある透明な流れが滑りおちていく。
白く煙った浴室の中、羽奈は震える息をついた。もう三時だ。一切れのケーキ以外、昨日から何も食べていない。これはいったい、どうしたことだろう。たったの二日で、ここまで生活が狂ってしまったのが恐い。狂わせた、自分が恐い。必死で湯に恐怖を溶かす。
危うい足取りで風呂場を出て、ふかふかの乾いたタオルに
起きたあと何も飲まずに風呂に入ってしまったので、喉が干からびて痛い。台所に行き、戸棚からコップを取り出した。腕を上げるのにも苦労するのは、きっと空腹のせいだろう。冷たい水道水を
やかんでお湯を沸かしながら、新しく小皿とナイフを食卓に運んだ。肩にバスタオルを羽織ったまま、今度こそ、一人分の紅茶の準備をする。自分のマグカップは洗っていなかったので、日奈のものに湯を注ぎ、ティーバッグを入れた。頬に、濡れた髪がはらりと掛かる。
茶葉を引き上げ、牛乳を注ぐ。ふっと、いつもの香りが立ちのぼる。胃の中が空っぽなのは感じるのに、いまいち食欲が湧かない。ふわふわと、妙に身体が軽いのだ。
カップを持って食卓に着く。部屋の中は明るい温室みたいで、床の上に斜めに、四角い光が伸びている。全ての感覚が、茫洋として頼りない。
パウンドケーキのラップを剥がし、適当な位置に刃を入れた。ナイフに、重い手ごたえがある。五センチくらいの分厚い一切れを小皿に載せて、残りを再びラップで
湿ったような表面に、指の先で触れる。冷えている、と言うほどではないけれど、ひんやりした感触。どこか嘘くさい風景の中で、指とケーキの間にだけ、確かな実感が宿る。
羽奈は手掴みで、大きくケーキを齧った。しっとりとした生地が口の中でゆっくり溶ける。胡桃の風味が、弾けるようにさくんと広がる。
ケーキを頬張ったまま、ぎゅっと目を閉じた。
――ひとりじゃ、普通に、当たり前に生活することすらできないのか。
狭いはずのアパートが、昨日からがらんとしてだだっ広い。感覚も思考も、半分切り取られてしまったみたいだ。空いている左手で、肩のバスタオルを強くかき寄せる。
――わかってる、わかってるよ。積み木を一つずつ積みあげるように、毎日を、重ねなくちゃいけないんだ。たとえ日奈がいなくたって。
重い焼き菓子を呑みこんだ。
ケーキを食べおわってまず、羽奈は炊飯器に一合半の米と水を入れて、スイッチを押した。
顔を洗って歯を磨き、部屋着に着替えて髪を梳かす。肩に届かない短髪は、もうだいぶ乾いている。
それから、籠に入れたままだった服を畳んで仕舞い、昨日からの洗い物を済ませた。布団を上げて、家中に軽く掃除機をかける。その間に空は暮れなずみ、羽奈はカーテンを閉めた。
手を洗って台所に戻る。冷蔵庫を開けたが、大した物は入っていなかった。構わずに、四分の一のキャベツと、
キャベツ、きゅうり、なす、にんじんと、どれも口に入る程度のサイズに、ざくざく切っていく。煮立った出汁にじゃが芋とにんじんとなすを投入して、もう一度沸いたところで、キャベツと胡瓜を入れた。ずいぶん具だくさんになって、煮物みたいだ。
野菜に火が通ると、具の嵩が減ったうえに水分が増え、見た目は少しましになった。一度火を止めて味噌を溶かす。再度鍋を温めてから火を止め、乾燥わかめを加えて蓋をした。珍妙な味噌汁が出来た。
電子音が鳴って米が炊ける。羽奈は自分の茶碗に、ご飯を、笑ってしまいそうなほど山盛りにした。それでも、半合くらいは炊飯器に残る。汁椀に、味噌汁もこれまたたっぷり
箸と汁椀と茶碗を並べて、席に着いた。ここでようやく、一息つく。何も考えずに動いていたから、一時間経っても、泣いたあとの虚脱感がそっくり残っていた。羽奈はひとりで、いただきます、と手を合わせた。
熱い味噌汁を啜り、もつれあった具を口に突っ込む。もぐもぐ、ごくりと飲み下して、次にご飯を口に運ぶ。それを交互にくりかえす。一つひとつ、自分の動きを確かめるように。
味噌汁は具の味がばらばらで、正直、おいしいとは言えない。ご飯は炊飯器任せだから失敗しようもないはずが、ちょっと柔らかすぎだ。それでも羽奈は、ひたすら食べた。口に含み、咀嚼し、嚥下する。胃の中が温かくなる。味噌汁のだしと塩気や、野菜の歯ざわり、ご飯の仄かな甘みをかみしめる。
呑みこむたびに、少しずつ、無色だった感覚が息を吹きかえしていく。
身体中が、温かい暮らしの匂いに満たされる。ほわっと視界を滲ませたそれは、先程のような、自分を涸らしてしまう暴力的なものではなくて、白い湯気を集めたみたいだった。
――日奈ってお菓子焼くのは上手いのに、なんでおかずだと焦がすんだろうね。
――私だってわからないよ。いいじゃない、お菓子は私で、ご飯が羽奈ね。
二人暮らしを始めたばかりの頃、そんな遣り取りをした記憶がある。だが、実際はそんなきっちりした分担にはならなくて、日奈は普段の料理もするようになった。二人とも、とりたてて料理上手ではなかったけれど、簡単で安上がりなレシピは色々と覚えた。
ただ、羽奈がお菓子作りに手を出すことはなくて、その代わり、洗濯は彼女の仕事になった。日奈は朝ご飯代わりに、甘すぎないお菓子をよく焼いていた。羽奈はお菓子に関する限り、食べるほうの専門だった。
どうして私は、お菓子作りにだけは、手を出そうとしなかったんだろう。その答えを、見つけてしまった気がした。
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