2.

 喉の渇きで目を覚ますと、陽射しはもう、床の上をだいぶ移動していた。怠い腕を伸ばして、枕許の時計を引き寄せる。二時半だった。

 しばらくぼうっとしたまま、布団の中にいた。右側に指を伸ばしていくと、日奈がいたはずの空白はもう冷たくなっていて、枕だけが、なんとなく彼女の頭の形に窪んでいた。

 出ていっちゃったんだなあ、と、胸の内でひとりごちる。お父さんやお母さんには、まあ、言わなくていいか。まだ自立したとは言えないけれど、もう家を出ているのだ、しばらくは気づかないだろうし。

 双子の妹である羽奈には、日奈が本当の覚悟を決めて出ていったこと、だから、少なくとも当分の間は帰ってこないだろうことが、はっきりとわかっていた。それなのに、慌てふためくこともなく平然と受け入れているのが、自分でも不思議だった。生まれたときから、いや、生まれる前からずっと、二十年以上も一緒にいたというのに。日奈が出ていった、という事実はすとんと羽奈の中に着地して、動く様子はなく、羽奈はそれを黙って眺めていた。

 日奈のいない、ひとりぼっちの静寂を舌の上で転がす。微かに眠気に縁どられた意識を宙に浮かせて、ぼんやりと天井を見上げていた。そしてふと、そろそろ三時だ、お茶の時間だ、と気づいて、ようやく上体を起こした。あまりにも長いこと横になっていたせいで、身体からだがぐったりと重かった。

 寝巻のまま、ふらふらと台所に向かう。途中、ダイニングテーブルの上に、ちらりと視線を投げかけた。は、今思えば、日奈の置き土産みたいなものだったんだろう。たぶん自分も、そのことをなんとなく察していた。だから、珍しく味見をせがんだりもせず、は一度もナイフを入れられないまま卓上にある。

 やかんに水道水を注いで、こんろに掛ける。洗面所で、顔を洗って髪を梳かした。鏡の向こうの彼女は、まだ眠っているような目でこちらを見ている。黒い瞳の奥が、ぽっかりと空洞になっていた。

 台所に戻り、ガラスのポットとティーバッグを取り出す。いつもどおり二つ用意しようとして、羽奈は自分の間違いに気づいた。お湯も、ティーバッグも、一人分でよかったのに。ポットに多すぎる湯を注ぐ。ふと、湯気のせいで視界が歪む。

 せっかく沸かしたのだから、と、ティーバッグを二つ放りこむ。ガラスごしに、とろとろと紅が溶け出す様がよく見える。綺麗だねえ、透明なポットって憧れだよねえと、二人で大はしゃぎしながら買った物だった。

 紅茶を淹れている間に、水切り籠から自分のマグカップだけを取り出して、ナイフと小皿と共にテーブルに運んだ。茶葉を引き上げたポットを、パックの牛乳と一緒に持っていく。があるから、砂糖はいらない。

 マグカップに七分目まで紅茶を注ぎ、九分目になるまで牛乳を足す。牛乳の勢いで混ざるからと、スプーンは使わない。牛乳パックを冷蔵庫に戻し、羽奈はテーブルに着いた。

 テーブルの上にあるのは、ラップにくるんだ、一台のパウンドケーキだった。昨日の午後、日奈が一人で焼いたものだ。胡桃を入れた甘いケーキ。

 ラップを剥がすと、焼き菓子の甘い香りが押し寄せてきた。ナイフを構え、刃を入れる場所を見定める。いつもの羽奈なら、分厚く五センチほど切り取っただろう。しかし、どうもそんな気分にはなれなくて、2センチ足らずのところにナイフを入れた。外側にさっくり刺さったナイフが、薄く生地を切り離す。それを小皿に載せて、残りは丁寧にラップでつつみなおした。

 人差し指と親指でケーキをつまみ、一口齧る。ぶわっと砂糖の味が広がる。ああ、甘い。それしかわからない。

 家の中は相変わらず静かで、仕方なく、食卓の上の時計と視線を交わしていた。


 ――ああー、どうしよう。間に合わないよう。

 ――もう。私は起こしてたのに、羽奈起きないんだもん。

 ――ねえ日奈、このマフィンおいしいよ。

 日奈は、知ってるわよ、とうそぶきながら、嬉しそうに口許を緩めて。

 ――いいから急ぎなよ、遅刻だよ。

 甘い甘い、バナナの香り。文字盤に花を散らした緑の時計が、バスの時間まであと十二分、と急きたてていた。銀色の針が、きらりと朝の光を反射する。

 ――日奈ー、いってきまーす。

 ――お昼はいつものとこでね? いってらっしゃい。

 日奈のほうが、家を出るのが遅い日だった。彼女に見送られて家を出る日が、週に一、二度あった気がする。

 これは、去年の春のこと。

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