Her needed trap



スポットライトの下、異なる色のボクシングトランクスを履いた男性が二人、金網に囲われたリングの中で向かい合っている。

両者の肉体は相応に鍛え抜かれており、双方共に個々の武を極めていることは容易に感じ取れた。



リング上空の液晶のオッズは両者の実力が拮抗していることを示し、荒々しい喧騒は始まりのゴングを今か今かと待ちわびる。



開始数十秒前。

双方滑らかに、そして緩やかに構えを取り始める。

それは何千、何万と繰り返された動き。心技体が最良のパフォーマンスを発揮する洗練されたファイティングポーズ。

赤のトランクスの彼は両の拳を前に出し、右半身を半身下げた型。

白のトランクスの彼は両手を縦に開いたまま腕を前へ、そして上半身をやや屈め重心を下げた型。


眼差しは自信に満ち溢れ、自らが最強であることを一つも疑わない。

向かい合う相手も同じことを思っている。目を見れば分かる、分かってしまう。それが分かったからには否定しなければならない。

自身が頂点であることを示すために相手を打ち負かす。

それが闘争に人生を捧げてきた自身の存在理由だからだ。




木槌がゴングを鳴らした。

ゴングは震え、空気を揺らす。




その音が会場に響き渡るよりも速く、全観客に興奮が波及するよりも速く、そして何より相手よりも速く、赤は動き出した。

一メートル近く開いていた間合いを一息に詰め、標的に目がけて右の拳打。

白はそれを左に避け、空いている両手で右腕を掴みにかかる。



だが間髪をいれず赤の左拳。

鋭い拳打は白の右前腕部にヒットする。その衝撃により赤は紙一重で掴みを逃れ、同時に間合いを取った。



目の前で繰り広げられた寸秒の攻防に遅れて歓声が上がる。

そして会場のボルテージに比例するかのように赤の攻めも苛烈さを増す。

赤は軽やかなステップで間合いを自在に変えながら殴打を繰り出すことより、『掴み』からの派生を主とする白を完封していた。



白にとって予想外だったのは、赤の攻めの絶妙さ。

攻める時には一気に接近して打ち込み、その後は即座に離脱、距離を保つ。

言ってしまえば単純なヒットアンドアウェイだが、赤のそれは徹底的で破壊的だった。



決して深追いはしない。

誘いには乗らないが、隙は見逃さない。

ただ黙々と冷淡に最適解を打ち続ける。

さらに賞賛すべきはその拳。

掴むには速く、受けるにはあまりにも重過ぎる。多少のダメージを覚悟して受け止めても完璧に掴みきれない。

中途半端に掴みに行けば、その腕を攻撃される。ゴングが鳴ってから仕掛けた掴みの全てが、その形で不発に終わっている。



このまま試合が進めば、赤に勝利が傾くのは必定。ならば、現状の打破が必要だ。



武闘家にはそれぞれ得意なスタイルはあるが、何もそれだけしか出来ない訳ではない。白の彼の場合は主目的である『掴み』に到達する為に、相手の体勢を崩す技をいくつか用意している。



上半身を目がけて放たれた左拳を後ろに反りながら前腕で受けつつ、踏み込んできた相手の右脹脛へ右足甲を打ち込んだ。

カウンターの下段蹴りである。



赤の体勢が揺らいだ。

この機会を逃すまいと、白は浮いた左腕を強引に捉えに行く。だが、赤もただでは倒れない。右方へ倒れこみながら白の脇腹へ拳を打ち込んだ。

その衝撃により両者が倒れる軌道がやや後方にずれる。それは赤が白の掴みを逃れる助けとなり、白が赤を逃す原因になった。



二人がマットに倒れ込んだ瞬間、会場は今日一番の盛り上がりを見せた。

誰も彼もがより激しい闘争を、激突を、そして更なる血を求めて熱狂している。



そんな周りの状況とは対照的に、白は極めて冷静だった。



懸命に身体を起こした後、相手へ突進する。

これまでに蓄積したダメージ、それに加えて先ほど食らった脇腹への拳。もはや長期の戦闘は不可能であると理解しているからだ。



そして赤も分かっている。

この攻防を制すれば、自身が勝利を納めるということを。



決して掴み逃すことのないよう両手を広げ、相手の腰よりも低く姿勢を下げたまま白は疾走する。

今の彼は、例え銃弾を受けても止まらない。そう思わせるほどの速度と眼光であった。



今の体勢では避けきれない。

かと言って拳撃では止められない。

ならばどうするかーーーー銃撃で止まらないのならば砲弾を撃ち込めば良い。

向かってくる白に対し、赤は身を引かない。それどころか死地へと踏み込んだ。


上半身を右下に捻って力を溜める。

その溜めを利用して跳ね上げた右膝を、破滅的加速度で白の頭部にぶち込んだ。




鈍く、重い音。硬度を持つモノが壊れる音。

赤の膝が白の頭を砕いたのか。

白の頭が赤の膝を弾いたのか。

それはまだ分からない。

今言えるのは、白が足を捉えたということ。

そして赤の敗北が確定したということだ。




足を持ち上げ、赤の上体を倒す。

その途中で何気なく足の関節を壊し、そして伸ばしてきた腕を容易にへし折った。



もちろん赤も抗う。だが白はそれを全く意に介さず、淡々と破壊活動を続ける。

機械化された作業のような手早さと、毎朝行う日課のような手軽さで相手を着実に、そして段階的に死へと歩ませる。

最後には首を捻り上げて頸髄を壊した。



あまりにも性急で静かな試合の幕切れに観客は呆気に取られている。


司会の勝ち名乗りが始まったときになって、ようやく観客は我に返った。

賭けに勝った者は諸手を挙げて喜び、負けた者は闘いの敗者を罵倒する。

派手な試合を求めていた者は不満そうに野次を叫び、装飾を認めず無骨な闘争を求めていた者は満足そうに頷いていた。


喧喧囂囂とした会場の中、相手を打ち負かした白は誇らしげに観客へアピールをする。

勝ったのは俺だ、俺が最強なのだと。

しかし白は勝ってなどいない。

先ほど食らった膝蹴りは白の頭蓋骨を砕き、前頭葉の一部を破壊していた。この後一日も経たず彼は倒れるだろう。

運が良ければそのまま死ぬだろうし、運が悪ければ身体不全の状態で無様に生きながらえる。

どちらにせよ、彼は自分こそが武道家として頂点なのだということを証明できなくなる。それは自身より強い者の存在を肯定せざる得ないということ。

それは彼にとって耐え難い敗北なのだ。


会場がひとしきり盛り上がった後、ある程度の落ち着きを見せ始めた頃には次の試合の準備が着々と進んでいた。

液晶は次の試合の出場者情報を流し、ベットの受け付けを表示している。


次の試合が始まるまであと二十分。

今日はあと四試合を予定している。


昨日も今日も、恐らく明日も。

血に飢えた見物人達が闘争を求め、大挙して押し寄せる。



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狂騒の熱が残っていた拳闘会場から出ると、街はもう夜の顔へ様変わりしていた。夜闇の中で、人を快楽へ誘う妖しい明かりが至る所で明滅している。



ケアリナに来て約半年。俺はこの不夜城が如き都市をまだ味わい尽くせてない。



とりあえず、ケアリナ観光で名物のコロッセオへ連日足を向けている。

奴隷同士が素手、あるいは武具を用いて闘う様を見て楽しむ催しは奴隷への規制が厳しくなる前にリメリカで何度か見たことがある。

それと比べると、やはりケアリナの方が見てて盛り上がる。

出場者同士プライドを持って臨んでるみたいだし、自ら望んで闘っているから試合内容も真に迫っている。体術に関しても見たことのない技術が多くて面白い。



だが、それに慣れた自分がいるのも確かだ。

そろそろ別の娯楽に手を出してみるのも良いかもしれない。

この国へ来たことは別に本意ではないが、せっかく滞在しているのだから十二分に楽しまなければ損だ。



しかし、何をやろうか。

人肉は食べてみる気が微塵も起きないし、人狩りも無駄に疲れる。

実際に奴隷を買ってみるというのはどうだ?何をしても真に自由だし、きっとこちらの想像を超えるもてなしをしてくれるに違いない。

だが買って何をする?

ホテルに備え付きの奴隷でも大抵のことは済ませられたし、交代も出来る。

買ったしまったら飽きたときに金が勿体ないな・・・しかし何事も経験だ、購入した奴隷で意外な発見ができるかもしれない。金のことは親父に言えばどうとでもなる。

明日試しに管理局にでも行ってカタログを見てみるか。



あれこれ考えながら歩いてるうちに、いつのまにか自分が滞在しているホテルに辿り着いていた。

煌びやかなシャンデリアの下、フロントの脇を抜けてエレベーターに乗り込んだ。



静かに夜を駆け昇るエレベーターからはケアリナ東部の中心街を一望できる。

忙しなく道を流れる高級車、夜闇を犯す極彩色のネオン。そしてサーチライトまでもが夜を盛り上げる一員になっている。



エレベーターが最上階で止まり、扉が開く。絨毯が敷かれた道を進み自分の部屋に入ると、ベッドの上に置かれた資料が目に付いた。



今日の品揃えだ。


顔、身長、体重、プロポーション、習得している技能、対応可能なプレイなど、今借りることが可能な奴隷の情報が余すところなく記載されている。



今日は新顔が一人、二人・・全部で四人か。

昨日はガンガンにやりまくったのからなぁ、正直そこまで女体に飢えてはいない。

喉奥に突っ込まれて、端正な顔立ちが醜く歪む様があそこまで愉快だとは思わなかった。三発も出してしまうとは完全に予定外だ。

しかし、あれだけやって嗚咽の一つもしなかったのは流石といったところか。

複数人でやるのも飽きたし、今日は何か芸が出来る奴でも・・・


何気なく資料をめくったとき、ある顔が目についた。それは昨日まで載っていなかった新顔で、先程数え損なっていた新顔の奴隷だった。

首まで伸びた絹のようなゴールデンブロンド、長い睫毛のもとで輝きを放つブルーの虹彩、首元にポツンとある吸い付きたくなるような黒子・・・


特に変わった点はない。

だが、この顔から目を離すことが不思議と出来ないのだ。

何となく見覚えがあるような、ないような。

歴代の女たちの中にこんな風貌の女がいたような、いないような・・・・・

まあ良い。

気になるということは気に入ったということだ。今夜はコイツにしよう。



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フロントにコールをして三分後、指定した奴隷が部屋にやって来た。



「この度はレンタルサービスをご利用いただきありがとうございます。

ご指名いただきました、アリサです」



今までに借りた奴らと変わらない口上と礼。所作には一切の淀みがなく、部屋に入るまでの一挙手一投足にさえ目が奪われる。



「フロントからは特に要望がなかったと聞いているのですが、今夜は如何いたしましょう?

私の呼び名や性格、言葉遣いなどは?」



「いや、そのままで良い。お前が風呂から上がったら直ぐに始める」



「かしこまりました。気が変わられましたら気軽に仰って下さい。

では、失礼いたします」



「・・・・いや、ちょっと待て」



「はい、何でしょうか?」



振り返る動きに合わせて、黄金色の絹が大仰に波打った。

この情景にも見覚えがある。



「俺たち、何処かで会ったことなかったっけ?」



一瞬きょとんとした顔をした後に、くすりと笑ってアリサは言った。



「いえ、ありませんよ。私は今日が初仕事ですので。

私のような者に対しても口説き文句を仰るなんて、ご主人様は変わったお方ですね。

それに、とても言い慣れていらっしゃるようで」



「いやあ、口説くつもりはなかったんだがね。でも言い慣れてるのは本当かな。

ケアリナに来る前は、君みたいな可愛い娘を何人も口説いていたよ」



「ええ、そうみたいですね。では」



こちらに深く一礼して浴室に向かうアリサ。

感情は読み取れないものの、機械の様な冷たさは決して無く、言葉の端々、動作の一片、時折り見せる表情からは血の通った暖かみを感じることができる。

これも今までの奴隷と一緒だ。


実際に会ってみれば既視感の正体が分かると思ったのだが、全くピンと来ない。

結構好みの顔だから、会っていれば絶対覚えてるハズなんだけど。


好みなのは顔だけではない。

やや幼さが残る表情、心をくすぐる蠱惑的な声、そして穢れひとつ無い透き通った肢体。

実物を見て分かった、あいつは今まで会った奴隷の中で一番そそる個体だ。


上がってきたら何をしてやろう。

まずは舐めさせるよな、次は喉奥に・・は昨日やったな。じゃあ尻穴でも掃除させるか。

その後は追々考えるとしよう・・・・・



ケヒッ



今まで聞いたことのない気味の悪い音がして辺りを見回すと、目元を卑しく細め、歪んだ口元を手で隠しきれてない醜悪な男が鏡の中でこちらを見ていた。



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街の明かりだけが射し込む薄暗い室内。

男女の荒い息遣いがベッドから微かに部屋へと漏れている。

女のそれには艶があり、男の動きに合わせて時折り嬌声へ変わる。


もうどれだけの間、肌を重ねているのだろうか。

二人の体は汗に塗れながらも絡み合い、酸欠に喘ぎながらも唇を貪り合う。

口内を余すことなく味わった後、男は語気荒げに女を攻め立てた。



「ここだろ?ココが好きなんだよなあ、お前はよ!」



男の問いかけに女は答えることが出来ない。

より一層息を切らし、漏れる声の調子が一つ上がるだけである。


その様子を見て男の興奮は最高潮に達した。



「そうか好きか。じゃあ出してやるから喜べよ!」



女は声にならない絶叫を上げ、ベッドに沈んだ。

息は絶え絶えで、数秒おきに全身を震わせる。


その状態に男はとても満足していた。


相手を屈服させる。

しかし力や恐怖に依ってではなく、自らがもたらす快楽で女性を屈服させること。

それこそが性交の醍醐味であると男は確信していたし、今まさにそれを実感していた。


男はしばらくの間、女の様子を誇らしげに見ていたが、ふらりと体を揺らした後いつの間にかベッドに身を委ねていた。

狭まっていく視界には、小さく寝息を立てる麗しき女性。それに呼応するように、男の脳裏には今まで忘れていたある情景が浮かんでいた。



ーーーーーーーーーーーーー



天井からカラフルな光が降り注ぎ、頭蓋に響くEDMと無秩序なアルコールが男も女も狂わせる。

誰も彼もが幸せそうに虚ろな笑いを浮かべ、今この瞬間の享楽に身を委ねている。


バーカウンターに突っ伏しながら、そんなダンスフロアの様子を俺はぼんやりと眺めていた。


そういえば、これで何度目だったか。

アルコールとドラッグに塗れた脳を働かせて考える。


月に二度の定期主催で一回。フラタニティのパーティへ誘われたので一回。そしてこのクラブで、確か三回目のパーティだ。


こんな状態で一週間分も記憶を思い返せた自分を讃えるため、手元にあったグラスを煽った。

グラス半杯分のアルコールは思考をさらに緩慢にさせ、元々下降気味だった気分を更に悪化させた。

あれ、何でこんなに気分が悪いんだっけか。


兄が立ち上げた事業で成功したこと。父がさらに勢力を広げたこと。大学の成績が悪化したこと。初めて女に振られたこと。最近好みの女とセックスできていないこと・・・・理由を挙げればキリがない。

自分と違って有能な親族が出世することに対して、今さら劣等感なんて抱かないが・・・女日照りは耐えられない。


モデルだった母譲りの顔と代々市長を務めてきた一族の名前のお陰で、幼少から女に不自由などしたこと無かったのに。

欲しいものは何だって与えるし、ベッドでだって絶対に満足させる。

なのに何故だ?近頃は女と長続きしない。

別れ際の言葉も全部一緒で、『空っぽでつまらない』『飽きたから』・・・・貰えるものだけ貰ったら俺の前から消えやがる。



「何なんだよ、クソ・・・」



呻きながら顔を上げると、人の流れの中を揺れ惑うあるモノが目に入った。


それは薄暗いクラブでも分かるぐらいに、煌びやかな光沢を放っていた。


何故だか分からないが惹きつけられて、ふらつきながらも立ち上がって、人の波をかき分けていった。


それが女であるということ。

落ち着きなく辺りを見回しているということ。

こういう場所にあまり慣れていないだろうということ。

首元に黒子があるということ。

俺好みの容姿であること。

近づくにつれてソレに関する情報が分かってくる。


ぼやけていた思考がどんどん明瞭になっていく。

コイツだ。俺はこの女をモノにしたい。


人の流れが少し緩やかになっている場所で彼女に追いつき、そして声をかけた。



「あの、ちょっといいかな。

もしかしてだけど、人でも探してる?」



立ち止まり振り返る動きに従って、彼女の髪も虚空に広がった。

その光景が印象的で、振り向くまでの時間が永遠に思えた。



ーーーーーーーーーーーーーー



そこで目が覚めた。

再び目を閉じると振り向く彼女の残像が仄かに浮かんでは、すぐに消えた。

夢を見るなんて久々だ。しかもあの時の夢だなんて。



隣に目を向けると、アリサが居なくなっていた。

もう戻ったのだろうか。

確か、朝までいることになっている筈だったが・・・まあ良い、注文した内容なんてあまり覚えていない。



それにしても、どうして今になってあんな夢を見たのだろうか。お陰で、あの奴隷の既視感については解決したが。



気怠げな身を起こして辺りを見回すと、荒れたシーツが目に付き、嗅ぎ慣れた生々しい匂いが鼻についた。



結局彼女は誰を探してたんだっけ・・そうだ、一緒に来た友達を探してたんだった。

友達に、あの夜のパーティを主催してたサークルに入りたいから、それに付き添って欲しいと頼まれたとか何とか。

偶々リーダーとは知り合いだったから、そいつの名前を出したら言われるがまま付いてきたなあ・・・



冷蔵庫から酒を取り出し、一気に飲み干す。

味など特に気にしていなかったが、ホテルのグレードにしては安い酒のように思えた。



彼女に関する記憶はそこまでだ。それからのことは殆ど覚えていない。

次に気がついたときには、もうそんなことを考える余裕なんて無かったし。



何となく尿意を催したためトイレへ足を向ける。酒を飲んだこともあって足元がおぼつかない。



その後は親父が全て指揮を取ったため、事態の全容、顛末は知らない。

確か、あの夜の三日後にはもう国を出ていたはずだ。



壁に手をつきながら、トイレまでの数メートルを目指す。



でもやっぱり、覚えてないのは惜しいな。

あれだけの量なら、かなりの快楽だったはず。きっと彼女の反応も愉快なものだっだろう・・・



ドアノブを回し、扉を開ける。



この瞬間まで、彼はトイレに人がいることに気がつかなかった。



「は・・・・?」



ここまで来た目的も忘れ、開いたドアの前に立ち尽くす。それも当然だ。彼に眼前には、全くもって非常識な光景が広がっていたのだから。


トイレの中には、今晩床を共にしたアリサがいたのだ。そこまでは特段不思議なことでは無い。

問題は彼女の体勢である。


白く可憐なネグリジェからは肌の多くが露わになっており、しっとりと濡れている。

左手は乳房に添えられ、秘所には右手があてがわれ、熱っぽく潤んだ眼差しと上気した頬。


彼には、アリサが今の今まで自慰行為をしていた様にしか見えなかった。

実際それは事実で、彼が寝静まったあとにアリサはベッドを抜け出して行為に及んでいたのだ。


なぜ今この場所でこんなことをしてるのか、彼には全く理解できなかった。

そもそもどうしてこんなことをする必要があるのか?


・・・・・あぁなるほど。あんなに可愛がってやったというのに、まだ満足していないということか。

淫らな女は嫌いではない。

それならば、朝日を拝むまでには満足させてやろうじゃないか。


そんな帰結を経て、彼は彼女の方へと近づこうした。

主人に隠れて自らを慰める卑しい女を愛でようとしたのだ。



しかし、ある違和感によって阻まれた。



それは彼女の表情である。

自らの淫蕩さを恥じるでもなく、行為が露顕してしまったことを焦っている訳でもない。

いや、焦燥に駆られているのは確かではある。しかし度が過ぎているように思えるのだ。

顔の強張りからはただならぬ緊張が見られ、その瞳からはある種の恐怖すら伺える。



「どうした、そんな顔をするなよ。

安心しろ、またさっきみたいに善がらせてやるから・・・」



・・・さっきみたいに?



夢から覚めた際に時計で確認した限りでは、寝入ってから十数分しか経っていない。



激しく攻め立て、声を上げさせ、最後には気を失うほどの絶頂を味あわせた。



それから、ほんの十分そこらしか経っていないのだ。



「あの、ーーーー」



彼女が言葉を紡ぐよりを早く、彼は彼女の右頬を殴打していた。



「お前さあ・・・・・・演技してたんだろ?

なあ?・・・・・あんなイイ声で鳴かれたらさあ・・・騙されちまうよなあ!!」



左手で首を抑えて、右の拳を振り下ろす。

より強く、より固く握り締めた拳は何度も、何度でも彼女を襲う。

飛び散った血は金色の絹を赤く汚し、青の虹彩はその輝きを失いつつあった。



「お前なぁ・・俺を舐めてんのか?

・・・・たかが奴隷の分際でよお!!」



自らの祖国で、訪れたいくつかの国で、そしてケアリナで彼は女性と何度も肌を重ねてきた。

そして、その全ての行為で彼は女性を満足させてきた。少なくとも彼はそのつもりだった。

数多の言葉で弛緩させ、鍛えた技術で耕し、最後には自慢の剛直で陥落させる。

それが彼にとっての性行為の全てだったのだ。

その自信を女に、しかも奴隷という存在に傷つけられたのは彼にとって耐え難い屈辱だった。



もしかしたら、あの夜もこんな場面があったのかもしれないな。



激情に沸き立つ脳の奥の奥の、僅かに冷えた領域で彼はそんなことを考えていた。

もはや彼を止めることは彼自身にも不可能である。両の手は、終に彼女の首に添えられていた。



「あっ、ーーーーかっ、ぅ」



命を懸けて絞り出した声が、喉の震えから手のひらへと伝わってくる。

指をくい込ませる度に骨の軋み、血管の断裂、細胞一つ一つが潰れていく感触が伝わってくる。

端正に整っていた顔は血に濡れ、腫れた目は涙を溜めながら、まだ生きていたいという意思を懸命に訴えてくる。



なんとなく、この光景に見覚えがある気がした。



突然、糸が切れたように彼女の身体から力が失われた。

もはや手のひらへ鼓動は伝わってこない。



ああ、またやってしまったのか。

金髪に青眼の女性を見下ろした、この光景があの夜を思い出させる。



まあ、きっとまた、何とかなる。

前とは違って今回はただの奴隷だし、金さえ積めば文句は言われないはずだ。親父に連絡しないとな。



とりあえずフロントに電話して部屋に来てもらうことにした。

ふと喉が渇いて、冷蔵庫にある酒をまた開けた。不思議なことに、全く酔いが回らない。

ベッドに座ってただボンヤリと部屋を俯瞰していると、あの日のことをまた思い出した。



珍しく律儀にゴムを付けてたこと。

彼女が探していた友人らしき女がサークルのリーダーと『よろしくやっていた』こと。



まあ、今となってはどうでも良いことなのだが。



窓の外を見ると、いつもと変わらない毒々しくて眩い電飾が夜を彩っていた。

もしかしたら、今までのことは全て夢なのかもしれないと思い死体の方へ顔を向けると、血色を失った細く長い足がトイレから部屋へ放り出されたままだった。



顔を見に行って生死を確かめる気にはなれない。




ーーーーーーーーーーーーーーーー





今朝、●●通りの裏路地で女性の遺体が発見された。

アクセサリーや財布を所持していなかったことから、物盗りの犯行の可能性が高いという。

行方不明の届けが出ておらず、現場付近への聞き込みも結果も芳しくない。

警察は情報提供を呼びかけている。





先日発見された女性の遺体について、情報提供の結果により身元が判明した。

情報提供をしたのは地元の◎◎大学の学生であり、被害者とはルームメイトの関係だという。

彼女の証言によると、当日の夜は遺体が発見された通りよりも三ブロック離れたクラブのパーティへ被害者と共に参加しており、途中で別れた後の行方は知らない、とのこと。


検視の報告によると被害者の体からは痣が見つかり、首辺りの痣が最も濃いという。

体内から第三者の体液は見つからなかったものの顔付近には唾液が付着していた。また、被害者の血液からはドラッグが検出されたとのことだ。


また、聞き込みの過程で現場付近のホームレスが被害者の貴重品を所持しているのを発見。

そして事情を聞いた限りでは、倒れていた被害者から盗んだものとされる。

そのため警察は物盗りの犯行ではなく、強姦致死の線が強いと見て捜査を継続している。





先日変死体で発見された女子大生について、新たな情報が明らかになった。

首の痣や第三者の体液が体表から検出されたこともあり、被害者は強姦の後に絞殺されたと見られていたが、直接の死因は絞殺ではなく薬物の過剰摂取によるものと見られる。


被害者が最後に目撃されたクラブ、そして被害者の遺体が発見された場所は違法薬物の取引場所としてよく利用されており、また暮らしていた大学の寮からは大量のドラッグが発見された。

クラブでの目撃証言によると被害者は若い白人男性と共に薬物を摂取、そして性行為に及んでいたという。

警察はその男性が事情を知っていると見て捜査を続けている。





件の女子大生殺害事件について、彼女を知る人物に取材をした結果を以下にまとめる。


まず、被害者の人となりについてだ。

彼女は隣の州から◎◎大学へ通うため、去年の四月に大学寮へ居を移した。周囲の人物によると性格は聡明で快活、人当たりも良く友人も多かったようだ。

勉学には真面目に取り組んでおり、将来は男手ひとつで育ててくれた父親へ恩返しがしたいとよく話していたという。


取材に応じてくれた全員が彼女のことを好意的に話しており、否定的な言葉は一つも聞かれなかった。

ただそれだけに、今回の事件は意外だったと誰もが口を揃える。

あのクラブに行くことも意外だったが、何よりも彼女が違法ドラッグを服用していたことが考えられないという。

しかし、彼女のルームメイトからは違う証言が得られた。


「あいつは部屋で隠れてよくトリップしていたよ。このことは黙っていて欲しいと言われたね。あの夜も、あいつから誘われてクラブへ行ったんだ」


父親は、

「幼い頃からルールをしっかりと守る子で、そんなことをしていたとは信じられない。何かの間違いだ」


と話している。

しかし部屋からは当該のドラッグが発見され、事情を知っているとされる若い白人男性も未だに見つかっていない。

捜査が進み、真相が明らかになることを祈るばかりである。





某新聞社の記事より抜粋





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ここはケアリナ東海岸沿いの北通り。

現在の時間ならば、もう少しで西側へ沈む日に照らされた海が望める。

夕日の赤々とした輝きに満ちた海を見たいのならば、この場所はやや不適である。

しかし、夕焼けと夜の間。海がその色彩を失い、黒く染まっていく様を眺めるのならば、この場所と時間は最適だ。



そんな海の景観を脇目に、海岸線を北へ上る黒塗りのクーペが一つあった。

そのクーペはそのまま暫く海沿いの道を走った後、左へ曲がったところにあるジャズバーの前に停車した。

助手席にいた若い男性に声を掛けると、運転席の女性は扉を開けてバーに向かっていった。



扉を開けると、飄々としたサックスと貞淑なピアノの音色が彼女を出迎えた。

店内の照明は薄暗く、客もまた静かにグラスを傾けている。街を支配する狂騒はここには存在しない。



奥のテーブル席でスコッチを嗜む中年の男性を見つけると、彼女は足早に歩み寄って声をかけた。



「お待たせして申し訳ありません」



彼はその青い目で彼女を一瞥した後、グラスを置いてぶっきらぼうに応答した。



「いや、気にするな。早く座れ」



男性は白いシャツに濃いグレーのジャケットを羽織っていた。左腕にはシルバーの時計を着けている。

精悍な顔立ちではあるが目つきの鋭さと散在する無精髭のせいで、どこか危うい印象を与える。



「それで?」



「それで・・・と仰いますと?」



「焦らすなよ。

俺がアンタ達から聞きたいことなんて一つだけだ、アンタも分かってるだろう」



「ああ、彼に関しての近況報告ですね。

これは失礼。到着の遅れに対しての弁明を求めていらっしゃるのかと思いまして」



わざとらしく眼鏡の位置を直した後、彼女はバッグの中から資料を取り出して男性に開いて見せた。



「彼には今、留置所に入ってもらっています。

その間に私たち管理局が奴隷の損失分を埋めるに足る、彼の財産を探します。

彼自身の財産は無いに等しかったため、現在は彼の父親と交渉しているところですね」



「交渉?

まさか、大金の代わりに奴を引き渡すこともあり得るのか?」



「まあ本来なら、それで円満解決ですからね。

でも安心して下さい。どんな金額を提示してきたとしても引き渡すことはしません。

今回は彼を奴隷にして、あなたに売ることが目的ですからね。

交渉といっても、莫大な金額を提示して相手の意欲を削ぐためのものです。

暗に『バラすぞ』と脅せば幾らでも吊り上げられるでしょう。

それでも助けるか、または諦めるか・・今はまだ何とも言えません」



「わざわざリスクを払ってまで助けはしないだろう。奴は野心の塊だからな。

数年に渡って地固めをして、やっと上院議員になれそうって時なんだ。選挙前に目立つ動きするのは避けたいはず。

ただでさえ世論は逆風なんだ」



その言葉を聞いて彼女は少し意外そうな顔をした。



「もしかして、本国でも既に根回しを?」



「ああ。息子が捕まった後に、権力や金を使った変な動きをし辛くなるようにな。

この二年間で集めた奴の癒着、収賄といった黒い噂の証拠をメディアに送っておいた。

決定的な証拠では無くとも、奴の地盤を揺るがすには充分だ」



男性はグラスを手に取り、残っていたスコッチを全て流し込む。



「なるほど、それは良かった。

彼をあなたに引き渡す可能性が上がりますし、もし彼を引き渡すことが出来なくなっても、あなたは彼の父親を断罪できる」



男性は彼女の言葉に応答しなかった。

そして氷だけが残ったグラスを暫く眺めた後、呟く様に口を開く。



「権力と名声に溺れたあの男を罰する・・・それも俺の予定に入っている」



そして彼女を鋭く睨んだ。



「だが目標は留置場にいるあの屑野郎だ。

奴を奴隷にまで貶めて、俺の手で殺してやることが最優先だ。他はその後で良い。

何よりも、誰よりもあの男を優先しろ」



それは途方も無い怒りと、綻び一つない決意に満ちていた。

言葉の端々が静かに震え、一言一言が重く響く。



「・・畏まりました。管理局としてもそのように善処いたします」



女性は男性の顔から目を逸らさず、事務的な微笑みで応答した。それはこれまでと変わらない声色と落ち着きであった。



「他に何か奴に関しての報告はあるのか?

この資料に載っていることで全部なら、もうホテルに戻るが」



「今、檻の中にいる暴れん坊な道楽息子についての話はもう終わりです。

ですが、もう少しだけお時間を取らせて下さい」



「・・何だ?」



彼は少し怠そうに頭を揺らす。

バーの中に流れていた音楽は、いつのまにかピアノのソロになっていた。跳ねるような演奏が心地よく、それでいて落ち着きのある雰囲気を形成する。



「まあ聞いてくださいよ。私が今日遅れた理由なんですけどね。

経営課の者とミーティングをしていたからなんです。

そもそも私は経営課の代理でしてね。人手が足りなくて、先刻急に代理になったんです」



彼の怪訝な顔も気にせず、彼女は尚も話し続ける。



「まあ誰が来ようが、あなたにとって問題ではないのでしょうけれど。

結局、時間いっぱいまで引き継ぎの作業に追われてしまいまして。

それで遅れてしまったんです」



「アンタ何を・・」



「特に念押しされたんですよ。

我々とあなたの契約内容について」



少しだけ辺りの空気が重く、そして冷たくなった。

彼は眉間に皺を寄せる。



「半年前にケアリナへ入国してきた、ご息女を殺害したと思しき男性を管理局が確保してあなたに引き渡す。

その代わりに、あなたはケアリナ発展のための研究に生涯従事していだたく・・この認識に相違はないですね?」



「ああ、何処でだって喜んで働いてやる。

アンタらがあの屑を俺に殺させてくれるならな。その後なら、もう何をしたって構わない」



その声はやや気色ばんでいて、表情にも苛立ちが見えた。

彼にとっては生涯を懸けた目的に関わることである。その目的の遂行が根底から覆されるようなことがあってはならない。



「ええ、その言葉が聞けて何よりです。

ですが、我々は恐れているのですよ。事が上手く運んで、彼をあなたに引き渡した後のことを」



「恐れる?何を。一体何が問題なんだ」



男性の苛立ちは加速し、荒い口調で彼女を圧迫する。

それに対して、彼女は冷静であった。落ち着き払った表情と声色で、確認作業を進めていく。



「逃げる可能性があるということです。

自分の悲願が成就したら、あなたはケアリナから姿を晦ますかもしない」



その言葉に彼は答えなかった。

彼女は更に話を進める。



「こちらはもう既に箱入り奴隷を一人失っている。

表向きには中途奴隷、ということになってはいますけどね。仮に中途だとしても、主人との性交渉の後に隠れて自慰をする奴隷がいる、なんて噂が広まったら売り上げにも影響しかねません。

分かっていただきたいのは管理局としても、それなりのリスクを背負って話を進めているということです。

それでもこの話を引き受けたのは、あなたがケアリナにとって貴重な人材だから。

これはお願いです。

あなたには脅迫も人質も成立しませんからね。

どうか、契約を遵守して下さるよう・・・」



淀みなく紡がれていた言葉を途切れさせたのは、対面にいる男性の様子が急変したからである。


急に笑いだしたのだ。

それは堪えていたものが噴き出した様子で、少し安心したような表情も見て取れた。乾いた声で苦しそうに笑っていた。



「・・・いや、悪い。

何か、何か重大な問題でもあったのかと思って、拍子抜けしてしまったんだ。


これが終わった後の事なんて、正直深く考えていなかったんだ。

アンタ達との条件だって、昔の仕事をまた始めるとしか考えていなかったよ。

そうだよな・・・そりゃあ、そっちだって不安にもなるか。

でも安心して欲しい。元々、胚性幹細胞の応用研究は結構進んでいたし、それなりに情熱を持ってやっていたんだ。

また始めるのも悪くない。

アンタらが契約通りにしてくれるなら、俺も従うよ」



この瞬間だけ、彼が纏っていた険しさや刺々しさは消えて、元来備わっていたであろう穏やかさや落ち着きが顕れていた。

それは無骨な父親が時おり家族に覗かせる無防備な表情。いつもは見栄と威厳に邪魔されて見ることのできない、彼自身の本質。

彼が二年前に亡くしたものだ。



「・・そうですか。

あなたにそう仰っていただけるなら、我々としても安心して事を進めることができるというもの。

身を粉にして努めますので、是非ともご期待下さい。

また進展があったら連絡いたします。

今日渡した書類は、どうぞお持ち帰り下さい」



やや早口に締めの挨拶をすると、彼女は荷物を纏めて席を立った。



「それでは」



別れの言葉を口にして彼女は男性の元から去っていく。男性はそれをしばらく目で追った後、もう一度スコッチを注文した。

彼女が何も注文しなかったことに気付き、男性は彼女の方へ再び顔を向けたが、もう姿は無かった。


いつの間にかピアノのソロは終わり、バーのステージには再びサックスの奏者が登壇していた。

軽妙なリズムの中に、どこか物寂しさを感じさせる低音が特徴的だった。

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