千五百円

 その店がどこにあるか、記憶は定かではない。ただ、美味しかったことだけは覚えている。



 その店は、私が二郎系を食べるために向かい、偶然出会った店だった。初めて向かう店だったのでスマホで地図を見ながら駅から歩く。

人とぶつからないように注意しつつと思いながらもそれほど人とすれ違わずに街を歩く私を出迎えたのは二郎系の店ではなく、牛カツ屋だった。

 余りにも予想と違う結果に私は混乱しつつ、スマホの地図がずれている可能性を考えて周囲を歩き回って飲食店の中に目当ての二の店どころか、二郎系の店すら見つからないことに落胆した。

 目当ての店はすでにつぶれてなくなったのだ。そしてその場所に牛カツ屋が入ったのだろう。

 目当ての店がつぶれていた落胆や怒りや悲しみと、歩き回った疲れで私の思考は鈍かった。

 いかにも高そうなその牛カツ屋に入ったのはそのせいだ。決して店先の写真に写っていた牛カツに心を惹かれたわけではない。



 店の中の記憶はおぼろ気だが、カウンター席とテーブル席がいくつかある、普通の食事処だったと思う。

 メニューを見た私は値段を見て財布の中身を検討し、一番安い定食なら頼めることに安心した。千円を超える食事は久しぶりだ。


 店員さんを呼ぶのにはいつも躊躇いがある。気恥ずかしさからくるものなのか、私が極度に人見知りなせいなのかは分からない。たぶん両方だろう。

 水を持ってきてくれた店員さんにメニュー表を指差しながら注文する。私が口で言うだけでも普通に対応してくれる気はするのだが、分かりやすいと思ってメニュー表があるときはいつもそうしている。多分、店員さんはそんなに気にしてないと思う。見せられてもよく見えない気がするし。



 小説をスマホで書くのはやり辛いなと思いつつもどこでも書けるのはやっぱり便利だなと雑文を書き散らしながら待つこと十分。牛カツが運ばれてきた。

 一口大に切られた牛カツの衣はまだ湯気を立たせていて、白い艶のある米は湯気が立っていて、赤味噌の味噌汁は湯気が立っていた。掛けていた眼鏡が曇った。

 牛カツはソースがかかっているのではなく、お店オリジナルのソースをつけて食べるようになっていた。それもソース以外の色々な味を楽しめるように、ソース皿は三つの小さなエリアに区切られていた。

 私は牛カツの真ん中を箸でとる。端の方は小さく、脂身が多い気がするからだ。豚カツがそうなので、牛カツもそうだと考えた私は脂身が少なく、肉の旨味を味わうことができる(はず)の真ん中を一口目に選んだ。

 その断面がレア気味であることに若干の驚きを覚えつつも口に入れる。


 良い肉は舌の上で溶けるというが、まさしくそれだった。一口目は溶けて消えた。店のオリジナルソースが複雑な味わいを舌に残す。

 二口、三口と重ねるうちに少なからず、口の中が油、あるいは脂で粘りつく。それを白米をかき込むことでかき消す。喉が渇くので味噌汁も飲む。塩気でさらに喉が渇く。水を飲む。水を飲んで口の中をリセットする。

 そうして私の前に残された牛カツはまだ半分以上残っていた。そこで気付く。


 牛カツは二郎系ではない。だがこれもまた戦い食事なのだ。違うのは戦場テーブルの彩りが多いこと。

 四口目の牛カツをわさび醤油でいただく。良い肉はわさび醤油でさっぱりいただくのが通の食べ方、とは言うが私は通でもないし通ぶりたいわけでもない。オリジナルソースに続く選択肢としてわさび醤油がそこにあった。ただそれだけだ。

 ソースに比べてさっぱりした醤油の味わいとわさびのつんと鼻にくる辛さが脂のくどさを和らげてくれた。なるほど、たしかに良い肉はわさび醤油で食べるものなのかもしれない。

 五口、六口。数を重ねていくうちに茶碗は空になり、味噌汁も底をついた。しかし終わりも見えた。牛カツは最後の一切れを残すのみとなったのだ。


 最後の一切れを私は塩胡椒につける。小難しい作りのソースも、さっぱり食べたいなんていう通ぶったわさび醤油も必要ない。肉は塩胡椒なのだ。豚カツにはつけてみそ派の私だが、レア気味の牛カツはカツというよりもステーキに近く、ステーキであるならそれは塩胡椒以外あり得ないのだ。








 食べ終えた私は当初の予定よりも軽くなった財布に頭を抱えつつも街を歩く。予定とは違う店ではあったものの、腹は満たされていた。

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