七百五十円
A県N市S駅にその店はある。
H線の改札を出てまっすぐ進み、階段を上がる。大きな交差点をまっすぐ渡り、次いで右へとまっすぐ進む。ビルを二つ、三つほど越して左に曲がればすぐに行列が目に入ることだろう。
その日は平日の夜だった。明日から休みの花の金曜日でないことはたしかだったが、気合を入れる週始めの月曜日というわけでもなかったと思う。だから、火曜日から木曜日のどれかだった。土日に働いた分の代休を消化するために、平日に二日分の休みをもらえたのだ。
そんな週の真ん中の平日にも関わらず、行列に並ぶ人は既に両手の指で数えられないほどだった。行列の人の顔をなんとなしに眺めて店の入り口にある食券機へと向かう。この手の店はたいてい、並ぶ前に食券を買う。
私が買ったのは七百五十円の普通のラーメンだった。行列の最後尾に加わり、スマホを開いてSNSを眺めながらのんびりと待つ。当たり前と言えば当たり前だが、明日も平日なのでみんな仕事だった。SNSではみんな「眠い」「帰りたい」といった愚痴を漏らしている。それを眺めて自分が明日休みであることに少しの優越感を覚えつつも特に呟くことも思い浮かばなかったので、可愛いイラストをリツイートするに留めた。
程なくして店員が食券を半分回収していき、麺の量を聞く。私は大盛りにした。同じ値段で多くなるならそっちの方が良い。
電子書籍で買った漫画を読んでいる内に一人、二人、と列が短くなっていき、私の前にも残すところあと三人となった。そして幸運なことに、前の三人は同僚(あるいは友人)だったようで、一人で来ていた私が先に店に入れることになった。
引き戸を開けて店に入る。店の中は十人足らずのカウンター席と、奥にテーブル席が一つ。二つだったかもしれないが、奥にいったことがないので記憶が定かでない。
セルフサービスで持っていくおしぼりとコップ、はしとれんげを手に取って案内されたカウンター席へ座る。カウンターには五、六年前に流行った白い生き物と契約する魔法少女のフィギュアが置いてあった。いつか見ようと思いつつ結局見れていない。店主が好きなのだろうか。
店内に流れるBGMは日本のとあるロックバンドのものだった。父親が好きだったので歌詞に聞き覚えがあったのだ。
私がぼんやりと店内を眺めていると店主ににんにくの有無を聞かれた。私はそこでにんにくを入れることを選択し、さらにアブラを増すことを選択した。その選択に後悔するのはもう少しあとのことだ。
それはラーメンではなかった。どんぶりから溢れんばかりに盛り付けられたもやしの山、雪化粧がごとく盛られこぼれ落ちていく茶褐色のアブラ、山のふもとでくすんだ白さと激しい匂いを主張するにんにく、その隣に山小屋と言うには大きすぎる、
そして、そこで終わりではなかった。銀色の小皿に盛られて追加で出されたのは、もやしの山の上で激しく自己主張をしているアブラと同じものだった。別皿でアブラを増すのだ、ここの二郎系ラーメンは。
まず始めに山小屋から打ち崩す。この肉塊を打ち倒せるのは最初しかない。麺が腹に入った状態で相手取れるほど、簡単な相手ではないのだ。一口、二口、三口。歯の間に肉の筋が挟まり不快感を訴える口内を無視する。熱さで火傷を訴えてもいるがそれも無視だ。
無事に山小屋を胃袋の中へと接収せしめた私は、アブラとスープに沈む麺を強引に掬い出し、もやしの山と入れ替えた。天地返し成功だ。
そうして殺戮的炭水化物量の極太麺を食べる、食べる、食べる。そこに思考は介在しない、させない。思考の無駄を排除して食べるという行為それ一点に集中する。脇目を振る余裕があるほど優しい相手ではない。
半分まで食べ進んだところで私は思ったよりお腹が満たされているという事実に焦る。まだ麺は半分残っている。その下にはもやしも残されているのだ。
理由は分かっている。茶褐色のアブラが内蔵を引っ掻き回してずたずたにしたのだ。明日はトイレでさぞかし苦しむことになるだろう。このお腹が満たされているという状態を乗り越える手段を私は知っていたし、持っていた。
私は別皿に盛られていたアブラを麺の上に降り注がせる。内蔵のずたずたをさらにずたずたで上書きするのだ。体が訴える不調を全て無視してゴリ押しするのが正攻法だ。食べる、食べる、食べる。舌も痺れてきたところで麺がなくなった。もやしはほとんど無傷で残っていた。
もやしたちをれんげで掬う、掬う、掬う。アブラで汚されたもやしに口内を癒す水っぽさはなく、一口ごとに内臓を痛める劇物だった。最も、極太麺の攻略で内臓のHPはゼロだ。今さら傷つくことはない。食べる、食べる、食べる。
やがてれんげはアブラを掬い上げるだけになった。流石にスープは飲まず、店を後にした。寿命を縮めるほどの勇気は、まだ私になかった。
――――――――――
「久しぶりに行ってみるか」
取り立てて言うこともない、代休消化の平日休み。私はラーメン屋に行こうと思い立ち、電車に乗った。改札を通り、階段を上がり、交差点を渡ってビルを越したところで気付く。
行列がなかった。まさかと思いつつ近付くと、店はシャッターが閉じていた。胸中に渦巻くこれは行きつけの店がまた一つなくなったことを嘆く慟哭などではなく、痛んだ内臓が店跡にでさえ拒否反応を示しているだけだと思いたい。
その日は結局、チェーンのハンバーガー屋に行った。久しぶりに食べたポテトは心なしかしょっぱかった。
――後日、店舗が移転していただけのことを知った私は早速新店舗へと足を運び、以前と変わらない
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