番外編2 星空の下で

 碧の国に七瀬がやって来て、一週間が経とうとしていた頃のある夜。


 七瀬はディオグと二人っきりの夕食に呼ばれ、遣いの少年に案内されてその食事場所がある楼閣の階段を上っていた。


 リウンは他の用事を頼まれているらしく、姿はない。


 今夜は制服ではなく碧の国の衣裳を着て来てほしいとディオグに言われていたので、七瀬の装いは可愛らしい文様で縁取られた水色の衣と、濃紺の生地に細かな花の刺繍が入った裳を合わせて女官の人に着せてもらった華やかなものだ。


 普通に着れば絶対に似合うはずがない綺麗な服も、女官の人に化粧をしてもらうと普通に似合うのだから不思議だった。

 髪も真珠みたいな飾りがたくさんついた豪華な簪でまとめられて、重くて堅苦しい分見栄えが良い。


(正直に言うとあんまりあの人と二人で食事はしたくないんだけど、でもせっかく用意してもらったものを無駄にはできないしな……)


 客人としての立場とディオグに対する嫌悪感の間で迷っても、結局はもてなされることを選ぶしかない状況に七瀬はため息をついた。


 もうすっかり日が沈んだ時刻であるので、楼閣の階段は暗い。


 一定の間隔で吊り灯籠が設置されているためある程度の明るさは確保されているのだが、現代の電灯のほど見やすく照らしてくれるわけではないので注意が必要だった。


 しかし楼閣自体はそれほど高さがあるものではなかったので、階段は案外すぐに終わりが来た。


「こちらで陛下がお待ちです」


 七瀬よりも若いであろう中学生くらいの年齢の官服を着た少年が、階段を上りきった場所で振り返って進むべき方向を指し示す。


「はい。こっちで」


 丁寧に接されることになかなか慣れず、七瀬は畏まって指示に従い定められた方向に移動した。


(あ、でも景色は綺麗だ)


 階段を上りきるとそこは凝った擬宝珠で装飾された欄干で四方を囲まれた屋根のない屋上で、七瀬の頭上には一面の深い藍色の星空が現れた。あまり乗り気ではなかった七瀬だったが、その雄大な眺めに気持ちは高揚する。


 どうやらこの楼閣はもともと地形が高めの場所に建っているらしく、暗い森と湖の上で輝く星空、そして地上に人工的な光を灯す宮殿が一望できる眺めは素晴らしいものだった。


 だが七瀬は、その景色をじっくりと堪能することはできない。


 客人をもてなす主人であるディオグが、円卓に置かれた料理とともにそこで七瀬を待っているからだ。


 ◆


「ナナセ、よく来てくれたね。先日のあちらの世界の装いも可愛かったけど、その衣もよく似合ってるよ」

「まあ、馬子にも衣装って言うからね」


 人当たりよく社交的に振る舞って七瀬の服装を褒めるディオグに、七瀬は意味が通じるかどうかはわからないが日本のことわざで対応した。


 そう言うディオグこそ深緑色に染められた上質な絹の衣をゆったりと自然体で着こなしていて、その甘く微笑んだ顔は七瀬よりもずっと綺麗で人を魅了させるものがあった。


「今夜は、七瀬と僕のためだけの特別な食事を用意させたよ。処刑も毒殺も見せない予定だから、安心して楽しんでね」


 ディオグは洒落にならない冗談を挟みつつ、七瀬に着席を促した。


 遣いの少年はいつの間にか退出していて、七瀬はディオグと本当に二人っきりになってた。


 ディオグと七瀬の間にある円卓の上には、つややかに炊かれたご飯の入ったお椀に味が濃そうな赤い味噌の載った小皿、干した肉や煮た筍などお酒に合いそうな品々が載ったお盆、そして真っ赤に茹でられた蟹が何杯も載った器が置かれている。

 それらの食器はどれもぴかぴかに磨かれた青銅製で、灯籠に照らされた金色の輝きが食材の色味を引き立ていた。


(蟹だ。蟹がたくさんある)


 七瀬は円卓と同じ漆塗りの檜の椅子に座り、めいっぱいに盛られた蟹に目を輝かせた。

 ディオグの計算通りに喜ぶのはしゃくだったが、味覚が貧乏な七瀬はわかりやすく贅沢な蟹という食材にどうしても心がときめいてしまう。


「その反応を見るに、どうやら蟹は君の世界でもご馳走みたいだね。たくさん用意したから、思う存分食べていいよ」


 ディオグは今にもよだれをたらしかねない表情をしている七瀬の顔を見て笑って、蟹を手に取り食べ始めた。


「じゃあ、もらうよ。いただくからね」


 心を許したわけではないという体裁を取り繕うこともほぼあきらめて、七瀬はまるごと一杯の蟹にひとつ手を伸ばした。


 剥き方はよくわからないので、ディオグの手元を見ながら見よう見まねでがっちりと固い殻の脚を取って甲羅を外す。


 するとまず、甲羅についた蟹味噌が姿を現した。七瀬はそのくすんだ灰色を口に含むと、口の中に広がるまろやかなコクに思わず目をつむった。


(缶詰のやつとはとは全然、違う……。後でごはんと一緒に食べよ)


 七瀬は白米が用意してあることの意味を理解しつつも、ひとまずはえらをとって蟹の先に進むことにした。


 肩肉を割ると、中には白い蟹肉がみっちりと詰まっている。七瀬は期待感でいっぱいになりながら、その身にかぶりついた。


「……!」


 そして言うべき言葉も見つからないほどの美味しさを、七瀬はじっくりと味わった。


 二人が食べている蟹は小振りな種類のものではあったが、その分、身はしまっていて繊細で、ねっとりと吸いつくような濃厚な風味を楽しむことができる。


 見るとディオグの方は、甲羅に熱燗を注いで甲羅酒にして楽しんでいた。


 温まった酒と蟹味噌の混ざり合った良い香りに、七瀬は自分は飲んでいないのに酔っぱらったような気分になる。


 蟹は美味しいし、星空も綺麗。もしも一緒に食べている相手がディオグではなかったのだとしたら、それは最高なひとときだっただろう。


 黙々と蟹を解体し手をべたつかせて食べ続ける七瀬の様子を見ながら、ディオグは言った。


「これは隣の璃国の蟹の名産地から取り寄せた蟹で、昔々の大金持ちが死ぬ前に食べたいって言って取り寄せたっていう逸話があるくらい有名なものなんだよ。ナナセは死ぬ前に食べたいものとか、理想の死に方とか、ある?」


 食材の美味しさを強調する話をしていても、ディオグの言葉はなぜか物騒な方向に転がり出す。


「今のところ、あんまりそういうことを考えたことはないかな」


 下手なこと言って実行されたら困ると、七瀬は露骨に答えをはぐらかしかた。七瀬は一応神聖な客人らしいが、何かがあってディオグに殺されないとも限らない。


 しかしディオグは特に七瀬の答えを気にすることもなく、自分のことを語った。


「そっか。でも、僕にはあるよ。理想の死に方」


 ディオグは月の無い満天の星空を見上げて、そして夢見るように願いを言う。


「僕は、僕が閉じ込めた者のいる檻の鍵を握って死んでみたいんだよね。僕を死ぬまで待っている人がいるのに、僕は死んでる、それってちょっと、わくわくしない?」


 さらりと言われると普通に聞き流してしまいそうになるが、よくよく考えるとそれはとても残酷な望みだった。


「……少なくとも私は、しないかな」


 ただの女子高生である七瀬は、王であるディオグの残忍さを責めることもできず、ただ共感できないことを伝えた。


「そう? 死んでも待っててもらえるのって、どきどきすると思うんだけどな」


 とぼけた調子で笑って、ディオグは甲羅酒を飲む。


 ディオグが言っていることは冗談ではなく、彼に閉じ込められて命を終える人間が未来にいることが七瀬にはわかる。

 だがわかったところで、七瀬にその未来を変えるすべはない。


(だって私は、あと一週間で帰る客人だから。私はこの悪意には立ち向かえない)


 そうして七瀬は蟹を食べることに戻る。


 普通の食事なら無理だったかもしれないが、蟹のおいしさは七瀬にディオグの願いの胸糞の悪さを忘れさせた。

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