番外編1 夢と今、過去と未来

 宮殿の地下奥深くにある、太く頑丈な鉄の格子で仕切られた薄汚い石造りの部屋。

 隙間なく塗り固められた壁に窓はなく、隅に置かれた燭台と、廊下へと通じる扉から漏れる光だけが、部屋を薄暗く照らしている。


 その冷たい石畳の上に、一人の少年が膝を抱えてうずくまっていた。細くくせのない黒髪に、日に焼けた顔。麻の衣から覗く手足は華奢で、背はまだ大人の半分ほどだ。

 本来ならまだ、屈託のない表情で生きているはずの年頃に見える。だがその黒い瞳は怯え、顔は青ざめていた。


 ガタンと、扉のかんぬきを外す音がする。その音に、少年はびくりと顔を上げた。


 扉が開き、暗闇に廊下の光が入り込む。そして、一人の男が姿を現した。


 甘く端正な顔に、酷薄な光を帯びた瞳。黒地に金色の龍の刺繍の入った豪奢な衣を着たこの青年こそが、宮殿の主で国王のディオグである。


「ちゃんとお行儀よく待っていたかな? リウン」


 ディオグは扉を閉めながら少年に尋ねた。

 廊下から入り込む光が消えるとまた再び暗闇が訪れるが、ディオグには少年の姿がはっきりと見えているようだった。こつこつと音をたてて、ディオグは少年に近づいた。


 リウンと呼ばれた少年は、震えながらディオグを見上げた。


「へ、陛下……」


 その目には、はっきりとした恐怖の色があった。


 リウンは国王のディオグに仕える奴婢であり、その命はディオグの手の内にあった。そのためリウンはディオグに服従していてもしていなくても、いつ何をされるのかわからないのだ。


「ずいぶん怖がっているね。そんなに僕が怖いなら、何で僕の命令通りあの罪人を殺せなかったの?」

 ディオグは微笑みながら格子越しにリウンに手を伸ばし、やつれた頬を撫ぜた。

「ひっ……」

 触れられた手の冷たさに、リウンは小さく悲鳴を上げて目をつむる。


 だがディオグは、さらにその細くなめらかな指でリウンの小さな顔の輪郭をなぞった。飼い犬に接するような、そんな調子であった。


「ねぇ、何で?」


 ディオグは笑みを崩さずに追求した。その声はひどく優しげに響いていた。


 奴婢であるリウンは、ディオグの兵士になるべく教育を受けていた。その一環として罪人に手を下すよう命じられたのであるが、リウンには殺すことができなかった。その罪を責められ、リウンはディオグに詰問されているのである。


「申し訳、ありません……。どうしても、できませんでした……」


 泣き出しそうな声で、リウンはうつむいた。

 幼く弱弱しいリウンの姿に、ディオグは愛おしげに笑みを浮かべる。


「リウンは賢い子だから、僕に従わないと駄目だってちゃんと知ってる。でもできなかった」


 そう言ってディオグはそっとリウンのあごを掴み、自分の方へと引き寄せた。

 それは力任せのものではなかったが、リウンはまったく抵抗できなかった。されるがままに、檻の格子に押し付けられた。

 ディオグはにっこりと微笑み、リウンの耳元でささやいた。


「だったらできるようになるまで、罰でしつけるしかないよね」


 そしてディオグは、空いてる方の手で袂から小さな薬瓶を取り出した。


 薬瓶を見せられたリウンの目に、絶望が宿る。その薬瓶は、リウンにとって死よりも恐ろしい地獄を意味していた。

 暗い檻の中で逃げ場のないリウンは、両手を合わせてディオグに懇願した。


「いやです……。た、助けてください……」


 だがディオグはリウンの言葉を無視して、片手で瓶の蓋を外しながら笑った。


「薬効は一週間くらいかな。死ぬわけじゃないから安心してよ。ちょっといろいろと苦しくなるだけの薬だから、ほら」


 そうして、ディオグはリウンのあごを掴んでいた手で口をむりやりこじ開けると、そのまま薬を飲ませた。


「――つっ……」


 のどに直接流し込まれ、リウンは否応無しにその液体を摂取させられた。


 ディオグはリウンが薬を飲み込むの直に確認するかのように、首に触れた。

 いっそこのまま絞め殺してほしいとリウンは願った。だが残念なことに、ディオグは決してリウンの命を奪うことはない。


 薬自体は、無味無臭であった。だが、異変はすぐに訪れた。


「あ、ぐっ!」


 のどを焼かれたような感覚がして、次いで強い吐き気がリウンを襲った。だが胃には吐くものが何もなかったので、余計に苦しかった。

 胃液と混ざり合った薬が内臓の中で渦巻いて、脊髄の芯まで揺らすような鋭い痛みを発生させる。今まで与えられてきた薬の中でも、特に強烈な効果だった。


「う……あっ……!」

 リウンは思わず叫びそうになるのを堪え、小さな舌を突き出して喘いだ。

「うん。問題ないね」

 薬がリウンの体内を犯していくのを見届けたディオグは、リウンから手を離した。


 ディオグの手の支えを失ったリウンの体は、石畳の上に倒れ込んだ。

 気付けば手足はガクガクと震え、力が入らなくなっていた。まるで内側からに炎で焼かれているかのように、体が熱い。


「陛下……」


 冷たい石の上に横たわり、リウンは熱と痛みで涙を浮かべた瞳でディオグを見つめた。

 無駄だとわかっていても、許しを求めた。


 ディオグは満足げにリウンを見下ろした。

 そして格子の隙間から手を伸ばし、リウンのさらさらした前髪をかき上げた。


「良い声で僕を呼んでくれるんだね。でも君はもうすぐあんまり息ができなくなるんだから、そろそろ黙った方がいいと思うよ」

「そ、んなっ……」


 さらに追い打ちをかけるかのようなディオグの言葉に、リウンは声を失った。

 リウンに忠告を残し、ディオグはゆっくりと立ち上がる。


「本当はずっと君を見ていたんだけど、ごめん。今日は他国から使者が来たり、返書書いたりでいろいろと忙しいんだ。また明日来るから、その時まで頑張ってね」


 ディオグは心から残念そうな顔で言った。そしてディオグはリウンに背を向け、黒い衣を翻して地下牢を出た。

 部屋は静まりかえり、聞こえるのはリウンの荒い息遣いだけとなった。

 こうして少なくとも一週間、暗闇の中で一人残されたリウンは、この地下牢で動けないまま罰を受け続ける。


 それは奴婢のリウンにとって特別なことではなく、ありふれた日常であった。


 一方的に痛めつけられる日々から抜け出すには、ディオグの望むままに人を殺すしかないのだ。


 ◆


「それは夢だよ。もう大丈夫」


 耳元で、聞きなれた穏やかな声がした。

 ふと気づくとリウンは今現在、そしてこれからも唯一絶対であるであろう少女――七瀬の腕の中にいた。


「――っ、ナ……ナセ……?」


 リウンはすがるように、七瀬の名前を呼んだ。


 横たわっている場所も冷たい石の上ではなく平穏な布団の中で、自分も痛めつけられた幼い少年ではない。

 地下牢でディオグに折檻されたのは、遠い昔のことだった。


 ほっとしたリウンの頬を、夢の中とは違う涙が流れた。

 その涙を、七瀬はそっと手で拭った。


「ここではディオグも誰も、あなたを傷付けられない。私がいるから」


 七瀬は真っ直ぐにリウンを見つめて、背中を撫でてくれていた。

 その手の温もりに身を委ね、リウンは七瀬の髪に顔を埋めた。


「……ごめん、なさい」

「悪いのは、リウンじゃないよ」


 そうささやいて、七瀬はリウンを抱きしめた。寝間着越しに感じられる互いの体温に、心地の良い切なさが胸に広がる。


 リウンはどうしようもなく安心した気持ちになって、指を絡ませて七瀬の手を握った。

 その手を握り返して、七瀬はさらにリウンを強く抱きしめる。


 リウンは七瀬の耳元に、片言の異国の言葉で言った。


「ナナセ、好き」

「うん」

「ずっと、好き」

「うん。私も……」


 七瀬が何か言いかけたとき、リウンは七瀬の頬に口づけをした。


 それはほんのささやかなものであったが、七瀬は顔を赤くして黙り込んだ。


 狂王の統べる国は遠く、今は七瀬だけが側にいる。その幸せがつらい時もあるが、きっと救われるというのはこういうことを言うべきなのだとリウンは思った。

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