死を望まれる者達【4】

 


 この世界には、二つの人語を理解する種族が生を受けていた。


 獣としての本能を捨て去ったとされる、人族。

 獣の神の恩恵を色濃く受け継いでいる、獣族。


 一般的に前者は『人間』と、後者は『獣人』と称され、その身体構造こそ大きく変わらぬものの、全く別の生き物として太古より分類されてきた。


 だが、別の生き物であるとされるその二つの種族が一切の共存が出来なかったわけでは決して無かった。それもそのはず、両者に多少の相違はあるものの、その生き方や物事に対する考え方はほとんど変わらなかったのだから。

 獣を脱し知識を手に入れた人間、野生を知り強靭な肉体を持ち続ける獣人。

 本質の変わらぬ両者に大きな隔たりは無かった。


 命を絶やさず、子孫を作り、種族を繁栄させる。


 それを互いの成すべき事だと理解し合って、各々おのおのの長所を生かして生活を営み、助け合って命を紡いできた。


 そんな中で、時には争いに発展することもあった。

 知識はあるが肉体は獣人のそれに劣る人間は獣人の肉体を羨み、肉体はあるが知識は人間のそれに劣る獣人は人間の知識を羨んだ。

 互いの羨むものを手に入れようとして争いになり、集団を作り始めた両者に伴いその争いの規模も膨れ上がっていった。


 しかし、だからと言って両者の仲が引き裂かれるなんて事は無かった。

 確かに別の生き物として分類こそされていたが、当の両者はさして大きな差違を感じてはいなかった。故に、種族間の大きな分断は無く、時に仲違いし、時に縁を結び、この世界において繁栄してきた。


 そんなある日の事だった。

 普段となんら変わらない毎日。朝には床で日を迎え、昼は外に出て自然を歩き、夜にはまた床で一日の終わりを待つ。そんな当たり前の一日が――その日は訪れなかった。


 太陽の代わりに空に浮かんだのは、世界を覆う紫紺の月。

 それは決して世界を照らすことはなく、その一切を闇で包み込んだ。

 その期間、おおよそ三日。約七十二時間にも渡って、世界には紫紺の月によって暗雲が立ち込めた。


 人々は大いに戸惑った。

 平和の象徴である太陽が謎の現象によって隠され、腐敗していく世界。大地は割れ、樹木は枯れ、川や湖から水が姿を消した。瞬く間に世界は滅びに向かい、紫紺の月は全ての生き物を混乱に陥れた。


 そんな混乱の中で、人間は必死で生き残る術を探した。

 地面が割れれば比較的安全な地域に移動し、作物が枯れれば新たな食料を探しだし、川や湖が干ばつすれば海を目指して歩いた。

 そうして、人間はその死の三日間をどうにかして乗り切ろうとした。


 しかし、世界を襲った異変はそれだけに留まらなかった。むしろ、各地で発生した自然への侵食はその予兆に過ぎなかった。何故なら、最も多くの人々の命を奪った原因は自然災害でも食糧難でもなく、他ならぬ人の手だったのだから。



 曰く、紫紺の月は生命に魔を魅せる。

 曰く、紫紺の月は生命のその本質を露にする。

 曰く、紫紺の月は生命に対する怒りの体現である。


 曰く、紫紺の月はかつて獣であった者達・・・・・・・・・・を獣へと還した。



 紫紺の月に最も影響を与えられたのは自然でも人間でもなく、獣人だった。

 紫紺の月は獣人の本能に宿る野生を覚醒させ、獣人をただの獣へと変貌させた。紫紺の光を浴びた獣人達は見境無しにありとあらゆる他の生物を襲い、その地を紅に染め上げたのだった。


 徐々に失われていく獣以外の命。自然は失われ、命も失われ、そして人々の心から温もりも失われ、その三日の間天空に座し続けた紫紺の月は世界に死を与えた。


 ただ、たったの三日で滅んでしまうほど、世界は脆くは無かった。死の三日間を切り抜けた後、世界は緩やかな運びであったものの修復に向かっていった。


 雲によって水が運ばれ、雨によって土の乾きが癒され、恵みの土壌によって新たな命が生まれる。人々は再び子孫を作り、種族は繁栄を迎えた。

 けれど、再びその本来の形を取り戻していく世界には、決して以前のように戻ることの無い、明らかな亀裂が走っていた。


 それは獣人への恐怖と怒り。

 別の生き物として分類されていても、生活を共にしていたかつての仲間が自分達の同胞の命を次々に奪った。そんな事実から生まれたのは、その本能に染み込んだ恐怖と堪えようの無い怒りだった。


 それにより、人々は獣を怖れ、獣人を怖れた。

 かつてのように獣人と共に生活を営むなんてことは出来ず、獣人を避けるようになった。それまでにも数度はあった争いの種火が再度焚き付けられ、今度こそ大きな戦争へと発展した。


 その戦争の中で、獣人達は持ち前の肉体を遺憾無く発揮した。人間は知識こそあったが戦に勝つための技術は無く、肉体的に優れている獣人達に一時は敗れかけた。


 だが、最終的に戦争に勝利したのは人族側の者達だった。


 その戦争の中で、人間達が新たな技術を手に入れて奇跡的に局面を塗り替えた――わけではない。人間は大きな進化などしなかったし、そもそも短期間で出来るはずもなかった。

 その戦争で人間が勝利を掴むことが出来た要因には、獣人の胸中にあったとある感情が大きく働いていた。


 それは、ぶつける宛の無い怒りから生まれる無力感と罪悪感。

 紫紺の月の光を浴びた獣人達は、確かにその肉体をもって多くの人間を屠った。だが、死の三日間が終わった後に人間達が獣人を糾弾した際に、獣人の誰もが同じ言葉を口にした。


『私達は、何をしてしまったんだ?』


 大量虐殺を行った三日間の記憶を、獣人は誰一人持っていなかった。

 覚えているのは紫紺の月を臨んだ瞬間までの記憶。次に目を覚ました時には、恐怖と怒りの入り混じった冷ややかな眼差しが獣人達を囲んでいた。

 後に自分達の行った残虐な行為を知り、その罪悪感から自ら獣人たちは敗北を選んだのだった。


 その後、獣人達は環境の険しい南の地に追いやられ、人間達は豊かな地を求めて北の地に『国』を作った。

 以来、北の地に生まれた人族の国家はアルバーン帝国、南の地に生まれた獣族の国家はクレイジオ王国と呼ばれ、一度も手を結ぶことの無いまま数多の年月を経て繁栄してきた。


 獣は人を避け、人は獣を恨んだまま。




 ◇




 地面を蹴り、砂塵を舞わせ、脇目も振らずにオーグはアレンの前から駆け出した。


 理由は単純明快。人間であるアレンに、自分が獣人である何よりの証拠を見られてしまった。たったそれだけの理由であるが、オーグが自分の死を予感する材料としては十分過ぎた。


 後に『ベスティア神の怒りベル・ル・ハッラ』と呼称される死の三日間以来、人間は獣人を嫌悪して獣人に対して閉鎖的な国家――アルバーン帝国を建国した。


 それは人族を中心とした国家であるがために、その地を訪れる獣人に人としての権利は与えられない。帝国領内で獣人であることが発覚し次第帝国兵に捕らえられ、保釈金と引き換えにクレイジオ王国に送還されるというのが獣人間での常識であった。


 それだけならば、良かったのかもしれない。命を奪われないだけ、まだ良かったのかもしれない。だが、帝国の獣人に対する罰はとある事件を経て更に険しいものに変わった。


 ――ついに帝国は、その命にまで手をかけるようになったのだった。


 オーグはまだ幼く、賢くはない。が、そんなオーグでも確かに分かることはある。

 この帝国内で獣人であることが発覚することは、死に直結するのだと。

 たとえ秘密を知ってしまったのが、見ず知らずの父親の命を救ってくれた親切な少年であったとしても。


「逃げなきゃ、逃げなきゃ。……そうじゃないと――」


 後に続く言葉は口に出さず、無理矢理胸の奥に押し込んだ。

 口に出したくはなかった。出してはいけないと思った。それを言葉にすることで、それが現実になってしまうような気がしたから。

 オーグは嫌な想像を振り払うように首を振り払い、一心不乱に自分が護るべき存在の元へ駆け寄った。


 辿り着いた家の扉を無造作に開け放ち、迷い無く突き進んだのは父の眠る書斎の前。どのような手段で父を連れ出すか、なんてことは考える暇も打つ手も無い。最悪、昨日のように自分が引き摺ってでも連れ出す決意で、オーグは書斎の扉に手をかけた。


 あわよくば、安らかに眠っていてくれ。

 そんな願いを込めて開かれた扉の先には、


「――父、さん?」


 寝台の上に身体を起こし、目蓋を開いて、明らかにオーグに向けて視線を向けている、愛しい父親の姿があった。


「オーグ、か?」


 つい先日まで聞いていた声と寸分違わぬ、重く胸の奥に響き渡る、けれど何よりも心を落ち着かせてくれる、オーグの大好きな父の声。


 思わず、オーグの瞳から雫が溢れた。昨晩も、今朝も、ずっと聞きたいと思っていた声が聞けて、枷が外れた。アレンに自分の正体を晒してしまった動揺も相まって、くしゃりと相好が歪む。


「良かった。目を覚ましたらお前が居なくて、不安に――」


 オーグの父親が全ての言葉を言い終える前に、オーグは父親の胸元に飛びついていた。溢れ出る涙を、感情を抑えることが出来ず、気が付けば父親を抱き締めていた。


「……心配、した。ほんとに、心配したんだぞ、馬鹿」


「……親に馬鹿は無いだろう? まったく、親の顔が見てみたい」


「父さんが、俺にとって唯一無二の父さんなんだよ。だから、もう二度と心配させないで」


 涙と嗚咽でたどたどしく言葉を紡ぎ、父親の胸を涙で濡らす。脇腹から滲んだ血が乾いて赤黒く染まっている包帯代わりの白い布に、涙がまた潤いを与えた。頭部に生えている獣人の証である獣の耳を撫でられ、それは一層勢いを増した。


 涙を流れるのは、辛い時だけだと思っていた。痛み、悲しみ、苦しみ、嘆き。それらの感情と共に溢れるものだと思っていた。事実、昨日の涙はそれに相違無かった。


 だが、違っていた。少なくとも、たった今頬を伝っている涙はそれとは違うものだった。


 十秒ほどの間、オーグは何も言わずにただ温かい父の身体を抱き締めた。オーグの父親も、その間絶えずにオーグの頭を撫でていた。


 沸き上がる涙と感情によって混濁してしまっているオーグの思考回路では、その涙が一体何故溢れ出ているのかさえ分からなかった。だが、良かった。良かったと思えた。何故ならその涙は、オーグの胸中を幸せで満たしていたのだから。


 ひとときの間、オーグは自分の置かれている状況さえも忘れて、父の胸で泣いた。


「……失礼します」


 一頻り涙を流し、ある程度オーグの心が落ち着いた頃、開け放っていたままの書斎への入り口から、聞き覚えのある声がかかった。

 その少女のような声に、ようやくオーグは思い出す。自分達親子が、命の危機に瀕していることを。


「……アレン」


 オーグの姿は既に父親の胸元には無い。涙を流し切った後、照れを隠すようにすぐに父親から離れたためだ。

 父の眠る寝台の傍に膝をついて座っていたオーグは、諦め混じりのような気の落とした声を漏らした。


 アレンは一度オーグの父親に目をやり、その後事実を再確認するようにオーグの頭部に生える耳に視線を向けた。

 その視線があまりに痛くて、オーグはアレンから目を逸らしてしまう。まるで、昨日自分達親子に嫌悪の感情を示した、あの騎士達の眼差しとそれが同一のものであるように思えて。


「頼むよ! アレン! 別に騙そうだなんて考えてたわけじゃないんだ! 俺はただっ、ほんとに父さんを助けたい一心で!」


「…………」


 気が付けば、声を荒らげていた。手負いの父親と子供の自分だけでは決して逃げられない。そんな事実を受け入れて、必死でオーグは懇願していた。


 けれど、アレンは答えなかった。ただ静かに、自身に縋り付くオーグを見つめていた。


「アレンに迷惑をかける気は無いんだ! 傷が治ればすぐにでも出ていく! だから、だからっ――」


「……オーグは、獣人……だったんだね」


 オーグの叫びを遮り、アレンの口から漏れ出たのはそんな言葉だった。

 それはどんな言葉よりも、オーグの耳には残酷な響きとして届いた。まるで、今まで騙していたのか、と言わんばかりのそれは、オーグに自らの罪を自覚させるようで。


 オーグは依然としてアレンの双眸から目を逸らしたまま、小さく頷き、肯定する。そして、続く言葉を待った。


 それは驚愕か恐怖か、それとも怒りか、はたまた憎しみか。その言葉が孕んでいる感情はどれであっても容易に想像出来た。何故なら、それらは全て、ここに辿り着くまでの道中でオーグが浴びせられた感情達であったから。


 あわよくば、怒りか憎しみがいい。もしも驚愕か恐怖であれば、オーグは真にアレンに対して憎しみを感じることが出来ないから。相手に一方的な罪悪感を持つよりも双方とも憎しみ合える方が、自分を正当化出来ているようで楽だから。


 ――しかし、そんな事を考えて待ち続けたアレンの言葉は、それらの感情のどれも孕んでいなかった。


「本当に、辛い思いをしたんだね」


 アレンは、手を握っていた。縋り付くオーグの手を、両手で温めるように握っていた。


「僕が何を言っても、償いになるとは思わない。でも、言わせてほしい」


 アレンは、己の罪を吐露するように言葉を続ける。

 その時、オーグは顔を上げて、改めてアレンの目を見た。ずっと目を逸らしていたその瞳には、軽蔑の色など見当たらなかった。ただ、今も世界を覆っている青空のような天色だけが、そこにはあった。


 オーグの手を握るアレンの手に、更に力が籠められる。その手の温もりは、何故か今までに感じたどんな温もりよりも温かく、


「――僕は、君の味方だ」


 どんな温もりよりも、優しい気がした。


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