死を望まれる者達【2】

 


 目的の場所にはそう時間が経たずに辿り着いた。

 日の光が漏れる左右に木々が立ち並ぶ道が開け、完全にその姿を露にした太陽が二人を迎える。

 その眩しさの余り目を瞑り、まずはその温もりのみを身体で感じる

 心地の良い、眩しさだ。この温かさが新しい朝を身をもって実感させる。


「オーグ、目、開けてみなよ」


 ふと、アレンの声が聞こえた。

 その澄んだ声に促されて、オーグは腕で影を作りながら、ようやくその目を開く。そうすると、ほとんどが腕に遮られている視界の端に、アレンの微笑みが映った。


「腕、退けてみて」


 アレンの言葉に従い、容赦なく降り注ぐその光量に怯えることなく、オーグは自らの腕を払った。


 開ける視界、開かれる瞳孔。遮るものが無くなって、オーグは全身を陽光に包まれる。瞬間、視界が真っ白に染まった後、目前の光景を出迎えた。


 穏やかに、光を乱反射しながら波打つ池の水面。清らかに透き通る池に波を立てているのは、そこへ降り注ぐ滝の流水。その内のはぐれ者は宙を舞い、水面同様輝きを放ち絶えず大気を装飾する。


 調和。

 天も、地も、そこに住まう生物達も、全てが調和した光景がそこにはあった。


「――――」


 思わず、言葉を失った。

 目前に広がる壮大な自然の在り方に、そこに自身の存在を忘れて、瞬きさえ出来ずに立ちすくんだ。


「もう、目が覚めちゃった?」


 不意に、アレンの姿が視界に映る。澄んだ天色の瞳に見つめられ、オーグはようやくハッとして正気に戻った。


「あ、うん。目、パッチリだ」


 改めて、刮目して目前の光景を堪能する。

 まさに風光明媚。心が洗われる光景とは、この事を指すのだろう。


 瞬間、ふわりとほんのり熱を孕む風が一帯に吹いた。それにより、アレンの髪が靡く。オーグは自身の身に付けるフードが捲れないように気を付けながら、落ち着いた気持ちでその風を受けた。


 それに同調して、水辺で羽根を休めていた鳥たちが次々と飛び立っていく。それぞれが異なる鳴き声を上げ、それに伴い木々も声を上げて賑わいを見せた。


「……気持ちいい」


「……でしょ?」


 傍らで、まるで自分が褒められたかのようにアレンが嬉しそうな表情を浮かべた。


「……と言うか、びっくりだ」


 アレンの言葉を片耳で拾いながら、オーグはそんな事を口にする。

 当然、「何が?」と言わんばかりに不思議そうにオーグを見るアレン。その要望に答え、オーグは言葉を続けた。


「周りなんて全然見えてなかったから、昨日は。父さんを背負ってあの家に辿り着いた時も、あの家から飛び出したあの時も。だから、びっくりだ。この山がこんなに綺麗な場所だったなんて」


 昨日の一連の出来事において、正直な所オーグは文字通り周りが見えていなかった。父親の事で精一杯のあまり、自分自身の事も、周りの環境の事も。周りが全て敵意ある物に映り、警戒を怠る事が儘ならない。そのため、オーグの持つこの山のイメージは唯一、“恐怖”で埋め尽くされていた。


 だが、たった一度日を跨いだだけでそれは一転した。

 自分を責め立てるようだった木々のざわめきは穏やかな朝を告げる唄に、息を潜めて自分達を追い詰めているようだった木の影は身体を休める安らぎへと姿を変えていた。


 急激に変化した周囲の環境に置いていかれたような錯覚がオーグを襲い、オーグは静かに息を呑んだ。

 そんな時、唐突に背中に衝撃が走り、オーグは一気に自分の世界から引き戻される。


「周りの見え方が変わったって言うなら、それはきっと君の心の持ち様が変わったんだよ。ほら、早く顔を洗おう」


「う、うん!」


 アレンに背中を叩かれて我に返ったオーグは、一足先に池のほとりまで近付いていたアレンを追った。


 池の畔は美しい芝生に包まれていた。

 水面と畔には大した高低差は無い。うっかり滑って落ちないよう両手両膝を地面に付いて、オーグは慎重に水面を覗きこんだ。


 そうして水面に映し出される、自分の姿。フードを被っているために全容こそ分からないが、それでも表面的に現れている細かな傷や汚れは視認出来た。


 地面を這いつくばった際に付いた細やかな擦り傷。木の枝で引っかけて生まれた僅かな切り傷。そして、アレンに指摘されて初めて気が付いた、口元から頬一面に広がっている涎の痕。


 顔を見ただけでもみっともない。これならアレンに笑われても仕方がない。

 内心そんな事を考えながら、オーグは池の中に指先を差し込む。


「――冷たっ」


 予想以上の冷たさに、オーグはさっと手を引っ込めた。


「まだ春先だからね、ちょっと冷たいよ。でも、慣れれば平気。寧ろ、目を覚ますには丁度良いよ」


「うん、だね」


 今度こそ本当に、両手を器にして水を掬って顔を洗った。冷ややかな水が傷に染みる。が、それ以上にハッキリと目が覚まされる感覚は心地よかった。

 それを何度か行い、自身の意識の完全な覚醒を促す。三度を越えた時点で涎の痕が消えたのを確認して、オーグは一つ大きく伸びをした。


 ふぅ、と溜め息を一つ。ずっと張り詰めていた緊張が、たった今ようやく緩んだ気がした。

 隣に目を向ければ、既に顔を洗い終えたアレンが麻紐で髪を結んでいた。その横顔を見て、オーグは思う。

 アレンには、改めて感謝しなければならない、と。


 今更ではあるが、昨日オーグがアレンと出会っていなければ父と自分は共に騎士達に殺されていた、それは明らかである。


 だが、現実は違う。

 オーグはアレンと出会い、アレンの知恵によって父諸とも救われた。それがどれだけ運の良かった事か、分からないオーグではない。そして、それを容易く行えるアレンがどれだけ尊い存在なのかも。

 昨日こそアレンに向けた感情は嫉妬だったが、今は単純に尊敬の念がオーグの胸中で溢れていた。


 だが、同時に不安もあった。

 今のオーグには、アレンから受けた救いに応えるだけの何か・・が無いのだ。


 もしも、アレンから何かを求められた際、それが何であれ応えようという意志はある。だが、今のオーグには、金も、役に立つ物も、何一つ渡せる物は無い。オーグがアレンへの報酬として用意出来るものはこの身一つだけだった。


 恩に報いたい。けれど、報いるだけの力が無い。

 その事実が、どうしようもなくには歯痒かった。


 ――と、そんな事を考えていた時。


 パシャッ、と傍らで音がしたと思えば、次の瞬間オーグに勢い良く冷水が飛びかかる。それもピンポイントに、顔を目掛けて。


「――! うわっ!?」


 反射的にその場から後退し尻餅をつくオーグ。一歩引いた視点で周りを見れば、それが誰の仕業なのかがいとも簡単に分かった。


「急に何するんだよ、アレン」


「まだぼうっとしてたみたいだったから、目を覚ましてあげようと思って」


 茶目っ気の孕む笑みを浮かべるアレン。

 その可憐さに毒気を抜かれて、オーグは呆れて破顔した。


「だからってもうちょっとやり方があるだ……ろっ!」


 意趣返しとして、オーグは同様に水を掬い取りアレンへ投げる。冷水は狂い無くアレンの顔面に直撃し、その黒い髪まで濡らした。

 余りの衝撃に、目を丸くするアレン。だが、すぐに気を取り直し、再度オーグへと攻撃する。


「……やったね?」


「避けられない方が悪いんだよ」


 そんな事を言い合いながら、水をかけ合う二人。無論、そこに恨み憎みと言った負の感情は無い。如何にも子供らしく、二人は何度か水遊びを興じた。


 しかし、それは意外にも早く終わりが訪れる。興が乗って立ち上がったオーグが水辺のぬかるみに足を取られ、その場で大きく転んだからだ。


「――あれっ?」


 瞬間、奇妙な浮遊感に包まれるオーグ。不安定な片足の状態から宙に放り出され、体勢を整えることは不可能だと悟る。

 もっとも、身体が投げ出された先は池だ。何か大きな怪我に発展することはないだろう。そう察して、オーグも無駄な足掻きはしなかった。


 けれど、そんな中、オーグの視界は捉えていた。オーグを救わんがために、一切の躊躇も無く自ら飛び込んで来た、アレンの姿を。


「オーグ! 危ない!」


 すんでのところで、オーグは差し出されたアレンの手を掴むことが叶う。だが、二人の身体は互いに空中にある。アレンは握った手を引き上げることが叶わない。

 そのまま重力に従い水面へと落下し、二人は池の中に吸い込まれていった。

 バシャン、と透き通った水面に大きな波が立った。


 不幸中の幸い、池はそう深くはない。滝が注がれる位置はともかく、二人が落ちた畔の辺りは膝元程度の深さだ。それ故に水底で腹を打ったが、大怪我は勿論、二人には僅かな怪我も無かった。


 オーグは脇腹を下にした状態から身体を捻り、一度仰向けになって身体を起こした。

 前を向けば、うつ伏せの状態から四つん這いになる形で起き上がるアレンの姿があった。


「あいたた。オーグ、大丈夫?」


「うん。俺は大丈夫。ちょっとだけ、傷に染みるけど」


「そう、なら良かった」


 自分の身を案じてくれるアレンに、オーグは笑って大丈夫だと答えた。

 実際のところ、オーグが受けたダメージはほんの僅かなものだ。多少衝撃を大きく感じたが、それはあくまで池に落ちたのが不意なものだったからだ。言葉通り、オーグは昨日の傷が染みる程度の痛みしか感じていなかった。


「アレンは? 大丈夫だった?」


 流石に怪我は無いとは思うが念のために、とオーグもアレンの身を案じる。


「勿論。少しお腹を打っちゃったけど、大したことないよ」


 そんな風に朗らかと答えるアレン。へっちゃらだ、と言わんばかりにその身体を起こし、


「――――っ!?」


 ――その時になってようやく、オーグはアレンの身に起きた異変に気が付いた。

 池に落ちたことによってアレンの衣服が身体に張り付き、その肢体の一部がちらほらと露になってしまっていることに。


 いや、その事自体何ら問題は無いのだ。アレンは“男”であり、オーグと同性である。故に、服が透けていたとしても大した問題にはならない。

 本当に問題なのは、オーグだった。オーグが、未だにアレンを“女の子”だと思っていることが、問題だった。


「ア、アレン。そ、それ」


「何? オーグ?」


 あくまでそれ・・を直視しないように目を逸らし、オーグは指を指して指摘する。が、対するアレンはいまいちピンときていないようで、途端におかしくなったオーグに不思議そうな表情を向けている。


 当然だ、アレン自身そういう目で見られているとは露ほども思っていないのだから。実のところ、昨日の内に訂正しておかなかったアレンにも非があったりするのだが、現時点でのアレンには知る由もない。ただ純粋に、アレンはオーグの心配をしていた。


 何とか誤解を受けないように説明しなければ。

 最悪の誤解を受けた場合の事を想像して肝を冷やし、オーグは必死で遠回しにそれ・・を伝えようと試みる。


「そ、その。ほら、池に落ちたからさ。服が……ね?」


「ん? ……ああ、そうだね。服、濡れちゃったね。家に戻って着替えを用意しないと。僕の服、オーグでも着れるかな?」


「そ、そうじゃなくてさ! ほら、服が濡れたら! その、…………透ける、だろ?」


 初めの言葉が勢い良く吐き出された反動で、後半につれて徐々に声量が小さくなるオーグ。それでも、言い辛いことを伝えるために相応の覚悟をした上での、その声量だ。誰もオーグを責められまい。

 しかし、不幸なことにそれは自分の首を締める事となる。


「ごめん、オーグ。最後の方が聞こえなかったんだけど、なんて言ったの?」


 アレンはオーグの声を聞き取るために、四つん這いになってオーグの傍に這い寄る。その際、際どく見え隠れするアレンの肢体。それにまたも目を逸らすオーグを尻目に、気が付けばアレンはオーグと身体が重なるほど近くまで近付いていた。


「あわ、あわわわわ」


 まさに目と鼻の先。

 オーグの声に耳を澄ませ、アレンはオーグの額に触れるまで拳一つ分という位置まで顔を近付けてきた。


 尻餅をつくオーグと、それに覆い被さるように四つん這いになるアレン。互いに男であるとはいえ、アレンはともかくオーグはアレンを女の子だと勘違いしている。少なくとも、その距離まで接近されたオーグの内心は健全ではなかった。


 しかし、オーグは下手に動けなかった。

 もしもやましさを感じてその場から逃げ出せば、次に会った時にアレンにどんな目で見られるか分かったものではない。

 だからと言って、このまま身動きの取れない状態が得策かと言われればそうでは無いのは明らかだが、今のオーグにはその判断すら儘ならない。


 虎を目前にした兎とはまさに今のオーグのことだろう。成す術無く、自身の命が刈り取られるのを待つしかなかった。


「あれ? オーグ、なんだか顔赤いよ? 風邪でも引いちゃった?」


 身動ぎ一つ出来ない状況の中、不意にオーグの額にアレンの額が触れる。おそらくは全く他意の無い、ただの熱を測るためだけの行為。だが、これもオーグの目にはまた別の見方で映っていた。


 思考が止まった。息が止まった。心臓が止まった。

 触れ合う額。そこから伝播するアレンの温もり。少しでも動けば、互いの鼻先が擦れた。

 ゼロコンマ数秒、瞬きをする間にオーグは混乱し、困惑し、当惑し、声を出さずに狼狽する。


 そばで荒々しく滝が注がれる音がした。止まっていた時間が返ってくる。それをきっかけに意識を取り戻し、蜘蛛顔負けの足使いでその場を後退した。


「ア、ア、アレン! い、いい加減にしらろよ!?」


 驚愕と怒り、二つの感情が入り交じり、オーグは自分でもよく分からずに怒鳴っていた。焦りのせいか、その舌は上手く回っていない。


「本当にどうしちゃったの、オーグ? 池に落ちてから変だよ。頭でも打った?」


 対するアレンはというと、やはり依然として状況が掴めずに小首を傾げている。

 それが、どこか自分をからかっているようで、オーグはとうとう業を煮やしてその言葉を口にした。


「変なのはアレンの方だろ! 服が濡れちゃって、そ、その……透けちゃってるのに、隠そうともせずにさ! もうちょっと恥じらいを持ちなよ! 女の子・・・なんだから!!」


 言った、ハッキリと、アレンの目を見て。

 何と言い返されるかは分からない。少なくとも、ビンタの一撃や二撃は覚悟しなければならないだろう。

 胸中で言ってやったという達成感と言ってしまったという後悔が織り交ざりながら、オーグは目を瞑り、アレンの怒号を待った。


「……………………?」


 だが、その時はいつになってもやってこなかった。

 周囲から耳に届く音は、変わらず滝の音と生き物の鳴き声だけ。怒号はおろか、囁く声すらも聞こえない。


 ――おかしい。

 そう感じて、腹を括って目を開けたオーグの視線の先には、


「――ふふっ、ふはっ。 あは、あはははははっ!」


 既に緩みかけている頬を必死で抑えて忍び笑いをして、やがて堪えられなくなったのか、遂に声を上げて笑いだしたアレンの姿があった。


 当然、オーグは混乱する。どうしてアレンが笑っているのかまるで見当もつかず、その動揺から声を荒らげた。


「な!? な、何がおかしいんだよ!?」


「何がって、オーグがに決まってるでしょ?」


「だから! おかしいのはアレンの方だって!」


「ふふ、そうだね。今回は、僕の方に非があるかな」


「……非? 一体何のこ――」


 その言葉を言い終わる前に、オーグは口を閉ざした。突然、アレンがその場で立ち上がったからだ。

 今までは四つん這いであったからこそ辛うじて見えていただけのアレンの肌が、立ち上がったことで完全に露になる。


 全体的に線の細いアレンであるが、だからと言って決して不健康なほど痩せているわけでも無い。水の滴り落ちる白い肌は眩しい日の光がより一層映え、胸元から覗く鎖骨は妙な艶やかさがある。

 人目もはばからず肌を露出させるその姿は、たとえアレンが男と分かっていたとしても見とれてしまうような魅力があった。


 思わず見入ってしまったことを反省し、頬に朱を注ぎながらもすぐに明後日の方向を向くオーグ。

 そんなオーグの姿に相好を崩し、アレンは何気無くそれを口にするのだった。


「僕、こう見えて男なんだよね」


「――――は?」


 受け入れ難くも聞き逃せないアレンの言葉に、オーグは思わず間抜けな声を漏らした。

 そのままの状態で、数秒間沈黙が続く。空いた口が塞がらないオーグに対して、アレンは先の爆弾発言を何事も無かったかのように振る舞っている。


 一時的に、オーグの思考が停止する。硬直したかと思えば口をパクパクさせ、異常に多いまばたきと共に指を一本立てて復唱を要求する。

 アレンは照れるように頭を掻き、


「僕、こう見えて男なんだよね」


 先程と一言一句違わず、二度目の爆弾を落としてみせるのだった。


「はああああああああああああ!!?」


 ようやく事態の理解が追いつき、山の全域に届くほどの絶叫をオーグは響かせた。


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