月下の出会い【1】

 


 アレンが自分の住む家に到着するまでにそう長い時間はかからなかった。鹿は血抜きを済ませて狩り場近くにある倉に置いてあるため身軽であり、かつ狩り場から自宅まではそれほど距離が無い。


 狩り場としていた地点から歩くこと数分。やがて目標の家屋がアレンを迎える。

 言わずもがな、アレンの家だ。木々の中に紛れるように建っている木造のそれは決して大きくはないが、長年住んでいるため相応の愛着が湧いている。


 しかし、そうして自分の家を目にしたにも拘わらず、その扉を目前にしてアレンは足を止めた。


「……おかしい」


 それは、ふとそこに目をやらなければ気付かないような、微かな疑問だった。


 扉を目前にしたアレンが目にしたのは、何処からか扉の前まで続いてきている、何かを引き摺ったような痕跡。それも、並みの大きさではない。まるでそり・・か何かを引き摺ったきたような、それ程に違和感のある痕跡だった。


 もしや、盗賊が入ったのだろうか。

 その痕跡を見たアレンが考えたのはそんな可能性。


 あり得ない話では無い。むしろ、ありふれた話だ。ここのような人里から離れた場所にある家はそういった賊の格好の的であり、アレンにもこれまでに数回そういった経験がある。


 何かを引き摺った痕跡も、金目の物を運ぶためのそり・・が残したものだと考えれば合点がいく。肝心のそり・・こそ見当たらないが、それほど大きい物でないなら家の中まで入れることも出来るだろう。


 また、動物が入っていった可能性も無いとは言い切れないが、それは考えにくい。そもそも動物は基本的には人間を避けて生活を営む。それを前提に考えれば、大した食糧がある訳でもないのに人の匂いのこびりついたアレンの家に入る理由が無い。


 しかし、ただそれだけでは推測として不十分であることにアレンはすぐに気が付いた。

 何故なら、それらの痕跡には――、


「……血、だ」


 明らかに何者かのものと断言出来る、血痕が残っていたのだから。


 それを見て、アレンは警戒を強める。

 血痕があるという事から、考えられる可能性は先程よりもより幅広く、より悲惨なものになる。それは則ち、この山で誰かの血が流れてしまうような出来事が起きてしまっていることを示しているのだから。


 加えてアレンが注目したのは、あくまで家に到着した時点で止まっている、その後何処にも行ったような様子が無い何かを引き摺った痕跡。通った道を寸分違わず辿って戻ったのならば話は別だが、どうやらその痕跡が重なっている様子は無い。

 ならば、その者が既に家から出ているとは考えにくい。故に、アレンはその結論に辿り着いた。


「……家に、誰かが居る」


 ほとんど確信に近い予感を覚え、アレンは唾を呑み込む。ゴクリ、と妙にハッキリとした音が頭に響いた。


 今ここでアレンが家に入ることに、リスクはあれどメリットは無い。アレンの家には金目の物は置いておらず、強いて挙げるにしてもアレンが趣味で集めている書物程度だ。

 仮に賊が居たとして、たかだか子供であるアレンに賊を追い払う術は無く、それこそ自分の身を危険に晒してしまうのがオチだ。


 しかし、アレンは考えうる最悪の可能性を予想し、扉の前に立った。


 そっと、アレンは扉の取っ手に手をかける。そして、中に居るであろう者を動揺させないように、ゆっくりと扉を開いた。

 扉が開けられたことによって、春のやや冷えた風がアレンの傍を通り抜ける。長く伸びたアレンの黒髪をふわりと揺らし、家の中に溜まっていた鬱々とした空気を浄化していく。


 その風に背を押されるように、アレンは極力音を立てないように玄関を通り抜ける。その間、緊張は崩さず警戒は怠らない。本来リラックス出来るはずの自分の家であるにも拘わらず、緊張しなければならないというのはおかしな話だ。


 アレンの住む家はそう広いものではない。

 玄関を通り抜けるとそこはもう居間であり、そこを中心に書斎や倉庫、その他の使っていない部屋が一つある程度である。坪数も数える程のものであるし、実際のところは一家族が生活を営むにはやや手狭だと言ってもいい。


 だが、アレンはそう物欲が強い訳ではなかったため、家にはそう多くの家具は無い。最も大きい物で書斎にある本棚程度のものである。もっとも、読書を趣味とするためにその本棚だけは相応の大きさがあるが。

 ともかく、家が広い訳ではないが物自体がそもそも少ないために、アレンが独りで住む分には広さは申し分無かった。


 故に、家の中に入ってしまえば、それを見つけるのにそう時間はかからなかった。

 玄関を通り抜け、居間へ足を踏み入れる。そうしてアレンの目に入ってきた光景。


 ――それは、血を流して倒れている一人の大男とそのそばで涙を流している少年の姿だった。


「―――――」


 そこに広がっていたむごたらしい光景に、アレンは思わず言葉を失う。


 怪我を負っているのか、男の脇腹辺りは赤黒く血が滲み、その血は床までしたたり落ちて広がっている。呼吸も覚束無いようで息が荒く、その苦痛のあまり、意識があるのかどうかも分からない。

 一見しただけであるが、確実にその容態が芳しくないことはアレンにも分かった。


 その傍らで涙を流している少年も、恐らく無事ではない。

 フードで頭を隠しているためにハッキリとその顔を見ることは出来ない。だが、その頬を伝う雫だけはアレンの目にも映っている。

 その大男を引き摺ってきたと思われるその少年の足には至るところに土の汚れか血の滲みか区別も出来ない汚れがあり、その苦労の程をぼろぼろになってしまっている少年の裸足が語っている。


 瞬間、張り詰めていた緊張と今までアレンの胸中を占めていた不安が霧散する。そして、家の中に居た者が賊ではなかった事への安心と、そうでなかったが故の焦燥が新たに生まれる。


 自分が奥へ進んでいくことを躊躇っていたが故に、この二人は苦しんでいたのかもしれない。自分が扉の立ち止まっていたほんの数秒の間にも、男からは赤く冷たい血が流れ、少年からは透明で熱い涙が流れていたはずだ。

 そんな情景が瞼の裏に浮かび、焦りが胸の奥から沸き上がる。


 その二人の関係性は分からない。どうしてこんな山中に居るのかも分からない。けれど、アレンにも幾つか分かることがあった。


 少年の流す涙がその男を想っての涙で、今少年は誰かに救いを求めている事。少年からこの男を奪ってしまってはいけない事。そして、自分は今この少年の力になってあげられるかもしれない事。


 ならば、理屈など必要無い。そこに自分の短い手が届くものがあるならば、その手を伸ばさない理由は無い。誰かを助けることに大仰な理由なんていらない、そこに躊躇いが生じることは無い。

 それを理解すれば、その後の行動に迷いは無かった。


「君、大丈夫? その人、怪我してるの?」


 少年を激昂させないよう自身の仕草に最大限の警戒を払い、アレンは少年に歩み寄る。あくまで敵意は無いのだ、という証明のために、背負っていた矢筒と短弓はその場に置いておく。


 その声に反応したのか、ようやく少年はアレンの方へ顔を向ける。男の危機に周りが見えていなかったのか、その様子はやや過敏。驚いたように身体を向き直り、少年は咄嗟に男の姿をその小さな身体で隠した。


 恐らく、それは少年がその男を想っている何よりの証拠。自分の身を挺してでも男を守ってみせるという意志の表れ。

 そんな少年の姿に、アレンはより一層男を救うことへの責務を感じた。


「誰だ!? お前!! 近づくな!!」


 柔らかな言葉で声をかけたアレンとは対照的に、少年は発した言葉は荒い。アレンへの敵意をまるで隠すことをしない、警戒心を全面に露にした威嚇を孕んだ言葉。その言葉からは少年の余裕の無さがひしひしと伝わってきた。


 同時に、アレンと少年は初めて目を合わせる。

 ずっとフードの影に隠れていた部分が光にあてられて露になる。闇が晴らされて明瞭になる少年の表情、その銀色の双眸がまるで視線だけで殺してみせると言わんばかりにアレンに突き刺さる。


 その瞳に、輝きはまるで無い。本来、光を受けて輝くはずの銀色は闇を纏い、希望を見失い、くすみ、その輝きを失ってしまっている。その眼差しが、何よりも痛く、苦しく、アレンの胸を締め付ける。


 けれど、感傷に浸っている暇など無い。

 実際に間近で確認しない限り断言は出来ないが、今すぐにでも手当てをしなければ男の容態が悪くなることは目に見えている。多少強引な態度を取ってでも、男を治療する必要がある。

 そう考えたアレンは少年の警告を無視して、けれど無駄な警戒を与えぬように、ゆっくりとまた一歩近付く。


「僕は怪しい者じゃないよ、この家の家主なんだ。その男の人、怪我してるんでしょ? ……出来れば、容態を見せて欲しいんだけど――」


「来るなって言ってるだろ!!」


 対する少年の態度は依然変わらない。

 まるで話など通じず、そもそも聞く耳など持たないといった態度でアレンを親の仇の如く睨み付けている。


 まずはこの警戒を解かなければ、文字通り話にならない。

 そう察知したアレンは少年と一定の距離を保ったまま壁沿いに部屋を移動する。移動した先にあったのは棚、アレンが以前購入しておいた薬を保存している薬棚だ。

 その中から一つの塗り薬の入っている小壺を取り出し、少年に見せる。


「ここに薬がある。効くかどうかはまだ分からないけど、大抵の怪我には効いてくれるはずだよ。薬ならまだ他にもある。だから、僕にその男の人を治療させて欲しい。……きっとその男の人も、君も、助けてみせるから」


「……………………」


 あくまでも退くつもりは無いというアレンの態度に、少年は初めて激昂する以外の態度を見せた。その目付きは依然変わらないが、アレンの言葉の真偽を考えているのか、叫ぶことはしなかった。


 これは好機だ。

 そう理解したアレンはすかさず言葉を重ねる。


「なんなら、君に治療して貰ってもいい。僕は指示を出すだけで、君が手当てしてくれればいい」


「……その薬に、毒があるかもしれないだろ」


「僕が君を傷付ける理由が無いよ。この薬に毒なんて入ってない」


「……信じられない」


「どうか、僕を信じて欲しい。僕は、ただ君達を助けたい。……だから、僕を信じて――」


「……信、じる?」


 しかし、良かれと思って続けたアレンの言葉は、より一層少年の怒りを焚き付けてしまう。


「信じられるわけっ、無いだろうが!! お前らがっ! お前がっ! 傷付けたんだろうが!! 俺達はっ、何にもしてないのに!! お前がっ! 傷付けたんだろうがっ!! それをっ、どうやって信じればいいんだ!!!」


 アレンの言葉が鍵となり、解き離れていく少年の激情。

 その言葉の一つ一つは悲しく、辛く、重く、そして苦しい。今も少年の目から溢れ出る雫が、その想いの丈を表している。

 アレンの鼓膜を揺らす一音一音が、その苦悩の程を確かに伝える。それは、既に締め付けられているアレンの胸を、尚も一層締め付けるのだった。


 この少年はそれほどの苦悩を背負ってきたのだ。誰も信じられなくなってしまう程、追い詰められ、苦しめられ、そして大切な者を傷付けられた。だから、今こうして孤独ながらに大切な者を守っている。決して他の誰にも触れさせはしないと、身体を張って守り抜いている。


 その姿がアレンの目にどのように映ったのか、それはもう言葉にする必要など無いだろう。


 故に、アレンは決心した。

 自分自身も、この少年と同じように身体を張って二人を守らなければならないのだ、と。


「お前がっ! 傷付けたんだろうがっ!! ……だから、父さんは倒れたんだろうがっ――」


 それは、余りに突拍子も無いことだった。余りにも脈絡の無いことだった。

 故に、少年はその叫びを止めた。その叫びを止めて、一心にその姿を見つめた。


 少年が叫ぶことを止めて、目を見開いて、そうして見た視界にあったのは――、


「あはは。やっぱり……痛いね」


 自らの腕をナイフで一筋切り目を入れる、アレン・ハーヴィの姿だった。


「……な、何、してるんだ? 自分の腕を傷付けて、何、笑ってるんだ?」


 少年の目に、戸惑いが浮かぶ。

 目前で起きた信じられない光景に驚き、そして困惑し、今まで張り詰めていた緊張の何もかもを放り出し、その現実にただただ恐怖する。

 そんな少年の姿を見て、やはりアレンは笑った。


「大丈夫だよ、大した怪我じゃない。そして、大した痛みじゃない。ずっと、苦しかった、君に比べれば」


「――――」


「僕の痛みなんて、どうせすぐに楽になる。……でも、君やその男の人は違う。ずっと苦しくって、もしかしたら死んでしまうかもしれない。……だから、僕に治療をさせて欲しい」


 そう言って、自ら傷を付けた傷口にアレンは先程の薬を塗り込む。それはすなわち、その薬に毒が含まれていればアレンが死に至ることを暗に示している。


 それを理解している上でのアレンのその行動。要するに、身をもって薬が安全である証明をして見せたのだ。自分の身体を傷付けることなどほんの僅かも厭わずに。


「ほら、どうかこれで、信じて欲しい。もう一度頼むよ、僕に君達を助けてさせてくれないかな?」


「……どうして、どうして、そんな風にするんだ。アンタは、俺達とは関係無いじゃないか」


 動揺と混乱が隠せずに顔を歪ませる少年。

 そんな少年の問いに、アレンはまた微笑んで答えるのだった。


「――僕が君を助けたいと思ったから。それだけだよ」


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