月下の出会い【2】

 


 どうして、こうなったのか。


 どうして、こうならなければならなかったのか。


 ――痛い。


 ――熱い。


 ――重い。


 時折ヌルリとした熱い感覚が背中を襲い、それがまた少年に現実を突き付ける。一歩一歩を踏み込む度、生傷が剥き出しの足に石が食い込み、小さな悲鳴が零れる。


 思わず、堪えていた嗚咽が漏れそうになる。自分だけはこの現実から目を逸らしてはいけないと、ずっと堪えて溜め込んでいた不快感を吐き出しそうになる。


 けれど、それだけはしてはいけない。こんな状況を作り出してしまった自分だけには、それをすることは許されない。

 それをしてしまえば、それはこの背中の重みの一切を投げ捨ててしまうことと同義のように思えたから。

 身体を張って自分を守ってくれたこの者に、泥を塗ってしまう行為のように思えたから。


 故に、少年はそれでも地面を蹴る。

 たとえ無数のしがらみが自分の体に纏わりつこうと、少年はその背中の重みを抱えて、前へと進む。


 少年は、ただ願っただけだった。


 難しい事を、ではない。むしろ、極普通で、至極単純。

 少年が願ったのは、ただ生きる事。今自分が背中に背負っている者と毎日を過ごしていく事。共に同じ釜の飯を食べ、共に馬鹿らしいことで笑い合い、共に同じ毛布にくるまれて眠りにつく。

 そんな当たり前の幸福を、ただ願っただけだった。


 けれど、それは少年の小さな手からすり抜けてしまう。砂であれば一握りでも残ろう物が、その少年の手には一握の砂さえも残らない。

 全てすり抜けて、お前には不可能なのだ、極当たり前の幸せでさえも掴むことが出来ないのだ、と告げているかのように、少年に悲惨な現実だけを突き付ける。


 故に、少年は涙を流す他無かった。


 自分の大切な者を傷付けた者達を呪って、極当たり前の幸せでさえも掴むことが出来ない自分の境遇を呪って、そしてそんな自分の境遇を呪うことしか出来ない自分の無力さを呪って。


 少年は涙を流し続けて、前に進むしかなかった。

 誰か、自分達を救ってくれる者を求めて。




 ◇




 ――視界が狭い。


 それに、時折視界が傾く。

 気が付けばすぐにそれを修正するが、一定の間隔を置くとで再度傾いてしまう。それの繰り返しだ。


 ――煩わしい。

 そうは思うけれど、その一連の流れを止めてしまうのは何故か惜しくもある。この安らぎにもっと身を委ねていたいという気もする。それ程に、今の自分は疲れてしまっており、考えることも煩わしく思ってしまっている。


 けれど、そんな安らぎは予想だにせぬタイミングで終わりを迎える。その終わりを知らせる鐘の音を代弁してくれるのは、壁へと豪快に突撃する自分自身の頭部。


 ――ゴツン。

 そんな鈍い音がその空間に響いた。


「――――あだっ!?」


 その衝撃の余り、少年は思わず声を漏らす。

 意識が薄れていた状態での頭部への衝撃が影響を与えるものは決して空間だけに留まらず、自分自身への痛烈な一撃にも成り得た。

 しかし、それが全く良い効果をもたらさなかったかと言うと、実はそうでもない。その衝撃は確かに痛烈なものではあったが、その代償に少年の意識は完全な覚醒を迎えた。


 そう、要するに――、


「……俺、眠ってたのか」


 少年は疲れ果ててすっかり眠ってしまっていたのだった。今、自分が置かれている状況も何もかも忘れてしまって、その本能のままに眠りこけてしまっていたのだった。


 起き上がろうと腕を動かそうとして、少年は気が付く。

 自分が今見知らぬ部屋のベッドで眠っていた事。動かそうとした腕に当たった柔らかい感覚が、自分に掛けられている毛布のものである事。そして、眠ってしまう前とは異なり、窓の向こうの景色がすっかり闇に包まれてしまっている事。


 そして、同時に思い出す。

 自分は追っ手から逃げ切るために大怪我を負った父親を背負って山を登ってきた事。山を登った先で見つけた家に、誰も居ないことを確認して勝手に上がり込んだ事。そして、そこでとある者と出会った事。


「――っ!? 父さん!?」


 眠る前の記憶を取り戻したことでハッとして、少年は寝起きで気怠い身体を起こす。無我夢中の余り、掛けられていた毛布もその場に投げ捨てて、転げるようにベッドから滑り落ちた。


 激昂していたためにうろ覚えな部分はあるものの、この家の家主と名乗った者との会話は概ね覚えている。

 多少のごたごたはあったものの、最終的に少年はその者の言葉を信じることにして、生死を分ける状態であった父親の治療を任せた。


 その後は怪しい動きをしないか警戒して、その者をずっと見続けていた。けれど、睡魔に負けていつの間にか眠りに堕ちた。そして、気を遣った家主が少年をこの部屋に運んだ。

 恐らくはそんなところだろう。そう考えれば、今の状況も少年には納得出来た。


 少年はベッドから滑り落ち、立ち上がる間すら惜しんで転がったままの状態で四つん這いになりながら部屋を出る。

 少年にとっては幸いな事に、この家はそう広くない。加えて、部屋と部屋の境には壁はあるものの、基本的には開放的な造りであり、四つん這いになった状態の少年でも目的の人物を見つけるのにそう時間はかからなかった。


 部屋を出ると広がっていたのは居間。その一部に敷かれている毛布の上で、その者は眠っていた。

 生死の境を彷徨っていたはずの少年の父親が、安らかな寝息を立てて眠っていた。


「――――父さん!!」


 瞬間、胸に膨大な安堵感が溢れてくる。焦燥からふらついていた脚もしっかりと持ち直し、時間をかけてその場に立ち上がった。


 そのまま、ゆっくりと少年は父親の元に歩み寄る。

 下に敷いてある毛布の一部が赤黒く染まっていることに気が付き、一瞬あの凄惨な光景を想起するが、目前で眠る父親に苦しんでいるような様子は無い。それどころか、抉られたような傷口があったはずの脇腹には包帯が巻かれており、その他の傷口にも適切な処置が行われていた。


 無事かどうかなど、言うまでもない。

 無事以上に、完璧に、少年の父親は手当てを受けていた。少年の父親の安らかな寝息が何よりの証拠である。


「あ、目を覚ましたんだ」


 不意に背後から声がした。

 驚きの余り多少大袈裟に後ろに振り向いてみれば、そこにはこの家の家主がいた。他ならぬ、無関係の自分達を助けてくれた者がいた。


 そこで、初めて少年はその家主の姿を見た。

 いや、正しくは“初めて”でも無いのだが、眠る前に話した時は少年は興奮の余り顔など見えていなかったのである。故に、少年には初めての対面となる。

 そして、その家主を見て思わず口にした一言は――、


「……女の、子?」


 家主の容姿を見た少年の正直な感想は、可愛い女の子だ、だった。

 首元を通り越すまで伸びた、艶のある美しい黒髪。

 その温和な性格を表しているように、柔らかく少し垂れた眉と目元。

 そして、何よりも美しく澄み渡るような可憐さを宿す天色の瞳。

 それらの全てが調和して生み出されるそのおもては、可憐と評する他無かった。


 拍子抜けした余り、少年は開いた口が塞がらない。

 そもそも、興奮していたとはいえシルエットは見えていた訳で、少年にもこの家の家主が子供であることは分かっていた。加えて、こんな山奥に独りで生活していることから、てっきりある程度がたいの良い少年だと思い込んでいた。


 だが、蓋を開けてみればどうだろう。

 背丈こそ少年よりは大きいが、全体的に線は細く、華奢と表現することがしっくりくるような少女。少年の想像していた人物像とはまるでかけ離れていたのである。


「あー、その事に関しては一言言いたいんだけど……でも、今は少し時間が惜しいから後にしようか。それよりも、君の方は怪我は大丈夫?」


 家主が生物学上本当は男に属する者だと知らないがための失礼な少年の言葉を受けて、家主はそんなことを言う。


 その言葉に、少年は初めて気が付いた。傷だらけでズタズタだった自分の足にも、父親のように適切な処置が行われ包帯が巻かれている事に。


 刹那、少年は自分の胸中に安堵以外の何かが沸き上がってくるのを感じた。この山に登ってくる時にも感じた、決して白くはない感情が。


 チラリと、横目で父親を見た。目の前の家主のお蔭で、何とか生き長らえた、そんな父親の姿を見た。


 そして、視線を自分の足に移した。自分の苦難の証が、いとも容易く治療されている、そんな自分の足を見た。


 最後に、目前の家主の姿を見た。自分とそう歳は変わらないはずなのに、確かに父親を救ってくれた、そんな家主の姿を見た。


「あ、あぁ、うぇ、あ゛ぁぁ」


 予期せず、胸の奥から込み上げるものを感じて少年は嗚咽を漏らす。それと共に込み上がってくる感情を何とか抑えつけて、少年はまた家主を見た。


「大丈夫? まだ、気分が悪い?」


 家主は少年を気にかけていた。不安そうな、心配そうな、憐れみとも取れる表情を浮かべて。


 その表情に、少年は絶句した。


「――さ、触るなっ!?」


 気が付けば、差し出された手を払い除けていた。

 気が付けば、家主に対して敵意を孕んだ視線を向けていた。

 気が付けば、自分が今何をしているのか分からなくなってしまっていた。


「……ひっ」


 そんな怯えたような声を上げたのは、家主――では無かった。

 抑えきれない自分自身の負の感情に怯え、目前の優しさに恐怖して、あまつさえ自分自身を怖れるような声を上げたのは、他ならぬ少年自身。


 その後はもう正気ではいられなかった。

 溢れだしそうな狂気を抑えつけて、勝手に自分を演じる偽物の自分に恐怖して、異常に加速する動悸に胸を殴り付けて、途端に荒くなる呼吸を整えようとして、やり場の無い怒りを自分自身にぶつけて、狂いそうな程の嫉妬を隠して、


 ――少年はその家を飛び出した。


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