黒いスマートフォンの女 【ホラー】
携帯電話を拾った。
何の変哲もない、黒くて四角くて平べったいスマートフォンだ。
繁華街から外れた路地裏で、買い出しの帰りにたまたま見つけたものだ。草木の陰に隠れていて、夕暮れ時で辺りも薄暗くなっていたので、最初はそれとわからなかったのだが、自分でもよく見つけたものだと思う。
本来は警察に届けるべきだろう。もちろんその選択肢も頭によぎっていた。
ただ、それを拾い上げる時にうっかり電源ボタンに触れて、表示された画面に目を奪われてしまった。
美しい女性だった。
長い黒髪は光沢を帯びて流れるよう。白い肌はいっそう映えて、やや伏し目がちの物憂げな表情は、西洋の巨匠にでも描かれたかのような不思議な神秘性をまとっている。手のひらサイズの写真になっていてもその美しさは際立っていた。テレビ画面の中でさえ、これほどの美人を目したことはそうないかもしれない。
ついまじまじと画面を見つめてしまって、ふと気づいた。写真の背景に見覚えがあるのだ。
「近所なのか」
間違いない。映っている塀や建物の形……この近くで撮られたものだ。
思わず独り言が漏れるくらいに浮足立つ。
この女性の持ち物なのだろうか。そうじゃない可能性も高い。そもそも自分の写真をトップ画像にするものだろうか。しかし……一方でこの女性のものだという可能性も捨てきれるわけではない。これだけの美貌の持ち主だ。自分の写真を大事にしている、ということもあるかもしれない。
スマートフォンを失くしたとあればそう時間を置かずに自分の番号にかけてくるものだろう。となればこれを直接手渡す機会もあるに違いない。
ここから最寄りの交番だってそんなに近いわけではない。そうだ、これは自然なこと、自然なこと……そう自分に言い聞かせながら、その黒いスマートフォンを自宅のアパートまで持って帰った。
さすがに
自宅に戻って、またそのスマートフォンを取り出してみる。
ああ、やはり美しい。思わずため息がでた。
こんなボロアパートの散らかった部屋に持ち込んだことに罪悪感すら覚えるくらいだ。
戻ってからはしばらくこれの繰り返しだ。辺りもすっかり暗くなるくらいに時間が経ってしまったが、他のことに身が入らない。我ながらどうしようもない男だと思う。
そのとき、ふとした弾みで画面をスワイプしてしまい、なんと、あっさりと操作画面に入ってしまった。ロックを掛けていないのか、あまりにも不用心すぎる。
ごくり――
これからしようとすることに思わず喉が鳴る。相手はいったいどんな
少し見るだけだから……頭の中でそう正当化して連絡帳やアルバムの中身を覗いていく。しかし、これはどうしたことだろうか、何のデータもない。プロフィールすら一文字も書かれておらず、特徴的なアプリも何一つ入っていない。通話履歴もなく、なんというか、使われている形跡がないのだ。持ち主に繋がりそうなものがトップの写真しかない。
なんとなく、うすら寒いものを感じた。実は何かの小道具だったりするのだろうか。もしくはイタズラか……。周りを見回してみても特に変わった様子はない。これは明日にでも交番に持っていった方がいいだろうか、そう思い至った矢先だった。
プルルルルルルル――
古めかしい無機質な着信音が、しんと静まり返った部屋に響いた。びくりとして手元の画面を見ると、発信元は『非通知』とある。
少しばかり気味の悪いものを感じながらも、とりあえず通話ボタンを押して耳にあててみる。
「もしもし……」
『………………』
一秒、二秒……返答はない。無音が続いている。
「もしもし、この電話の持ち主ですか?」
もう少し強めに訊いてみた。それでも返答はない。
電話の奥の方で少しばかりざあざあと雑音が混ざっているのがわかった。通話が切れているわけではないようだが……どうしたものか、と、いったん耳から離してみると、スマートフォンの画面では写真の女性がギロリと目を開いてこちらを睨んでいた。
真っ赤だ。その両目は血の涙を流すかのように真っ赤に充血していた。
「うわ、わっ!!」
思わず声をあげてスマートフォンを放り投げた。
あ、と思ったときにはもう遅い。天井付近まで跳び上がったそれはゆっくりと放物線を描き、そのままゴッという鈍い音を立てて硬い床に激突した。
慌てて拾い上げるも、液晶は無残にもバキバキに割れてしまっていた。
「やってしまった……」
罪悪感は先ほどの比ではない。それに、さっき見えた女性の顔……。
なんだか無性に怖くなり、割れたスマートフォンを掴むと玄関のドアから飛び出して、すぐ近くのごみ集積所へ投げ込んだ。そのまま周囲を見渡し、誰にも見られていないことを確認してから一目散に自宅に戻る。何も拾ってない、何も見ていない、何も知らない……ぶつぶつと呟きながら急いで玄関のドアを閉めた。たった数十メートルかそこらの往復で心臓が馬鹿みたいに暴れている。
やっぱり道でものを拾うのは良くないな……そう思ってようやく一息ついたそのとき――
プルルルルルルル――
先ほどと同じ無機質な着信音が鳴り響いた。思わず身体が硬くなり、心臓が握り潰されるかのような感覚がした。
まさか、そんなことがあるはずがない。そう思いながら音の発信源へ一歩一歩近づいていく。
同じスマートフォンだった。部屋の真ん中のテーブルの上に、あたかも最初からそこにあったかのように置かれ、着信を知らせていた。発信元はやはり『非通知』。
もう耳にあてるような真似はしない。恐る恐る右手の人差し指で通話ボタンに触れる。
すると、画面が切り替わり、
「ひぃいいっ!!」
情けない叫び声をあげて、思わず後ずさりをする。
『痛イ……痛イヨォ……血ガ止マラナイヨォ……』
そんな恨み声が聞こえてきて、もう駄目だった。
「ああああああああっ!!」
自分の中で恐怖が爆発して、突き動かされるようにそのスマートフォンを右手で掴むと、そのまま液晶画面をテーブルの角に叩き付けた。何度も、何度も。
ガン、ガン、と繰り返し衝撃を受けたそれは、最初のうちは『ガッ』とか『ギィッ』とかいう声をあげていたが、途中から音はぱたりとしなくなった。液晶画面も粉々に砕け散ってしまったのを見て、急いでその破片を集めてコンビニのビニール袋の中に入れると、再び玄関のドアを飛び出した。ありったけの力で自転車をこいで近くを流れる川へと向かう。
川に架かる橋の中央に着くと、欄干からそのビニール袋を勢いよく放り投げた。ビニール袋はしばらく
そこからどこをどう帰ったのかはよく覚えていない。とにかく無我夢中だった。
途中、顔中血だらけの女に遭遇するんじゃないかと考えただけで、頭がおかしくなりそうなくらいの恐怖を感じた。
見慣れたボロアパートに戻ってきたときは本当に涙がでそうになって、一秒でも早く、とドアを開けて玄関の中に転がり込んだ。バタンと閉じたドアに背中を預けて、ぜいぜいと息を整える。
プルルルルルルル――
プルルルルルルル――
「ひいっ――」
また、この音だ。今度はもう足元……硬い玄関の床の上に無造作に置かれていた。黒くて四角くて平べったいスマートフォンが。
画面では『非通知』の三文字が躍っている。
「嫌だ!! 誰か!! 頼む!! 助けてくれ!!」
叫び声をあげるが応えてくれるものはない。足元のスマートフォン以外には。
プルルルルルルル――
プルルルルルルル――
そこで、音が二つ重なって聞こえていることに気付いた。一つは足元だ。もう一つは……どこだ!? どこから聞こえてくる!?
プルルルルルルル――
プルルルルルルル――
思わずはっとなった。叫び声すら引っ込んでしまうほど、身体が硬直して動かない。
真後ろだ。もたれている玄関のドアを挟んですぐ向こうから聞こえてくる……!!
プッ――
応答を待ちかねたかのように、スマートフォンの画面が勝手に切り替わる。
『痛イ……冷タイ……寒イ……寒イヨォオオ……』
「痛イ……冷タイ……寒イ……寒イヨォオオ……」
映し出されたのはザクロのように砕けた顔面だった。目の位置や口の形が奇妙に歪んで、血と汚水にまみれている。
そして背景にあるのは、つい先ほど三十秒くらい前に自分が見ていた景色だった。
画面の中の
「しまっ、鍵――」
ガチャリと音がして、ドアノブが動いた。
――終わり
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