第八項-2

 見ると、この短時間で傷だらけになってよろめくメルサが何とか魔方陣でマルバスを抑えたところで。あとは呪文を紡げば封印が完了し、とりあえずこの戦いが終わる。

 だが、

「────」

 言葉が、メルサの口から出ない。

 何をしているのかと慌ててヘンリーが立ち上がって駆け寄ると、そのメルサの表情はひどく戸惑っているようなそれだった。

(まずい。こんな時に……呪文を、忘れた……!?)

 進行した病魔は、必要なものをどんどん奪っていく。戸惑い、悩み、必死に思い出そうとして、でも出来なくて。

 鈍った動きでなおも攻撃を仕掛けてくるマルバスの爪が自分に向いているのを、メルサはただ見つめた。

──ぐいっ

「ソロモンの名と血に於いて、契約締結の儀を行う。悪しき悪魔に封印の枷を。『ソロモンの鍵』の内に眠りたまえ!」

 力強い腕に身体を引き寄せられ、耳元に凛とした声が響く。意地だけでどうにか立っていただけのメルサは、引き寄せられるままに容易に倒れ、その腕の中で顔を上げた。

 魔方陣に悪魔が吸収される様を睨むヘンリーの、逞しい腕が痩せ細ったメルサの身体を支えている。

「ヘ……ン、リ……」

「何してんだ、メルサ! 陣をかけたらすぐに呪文を唱えねぇと……」

「ヘンリー……」

 ひどく冷たく、温度を無くしたメルサの手が、ヘンリーの腕を掴んだ。真っ白な手に、冷えて硬くなった紫色の指先。

 それを見てヘンリーは、先程から無意識に気付かないようにしていた彼の身体の軽さに改めて向き合わされ、続く筈だった言葉を紡げなくなる。

「何があっても、クラムを守れよ。その、為に……お前は、絶対に、死ぬなよ……」

「なっ……何だよその遺言みたいな言葉は! そんなことより早く傷の回復しねぇと! 誰か、回復魔法が使える奴は……!」

「ヘンリー」

「誰か居ないのか! 誰か、メルサを回復──」

「ヘンリー! 聞け!」

「っ……!」

 回復魔法で、助かる筈なんだ。彼が普通の状態で、怪我だけだったなら。

 想像するだけでも嫌なことが、今まさに目前に迫った現実だなんて思いたくない。だけど当のメルサが、それを許してはくれない。

「……俺は、ここまでだ。だから……お前に、託す。それがお前だからだ、ヘンリー」

「メルサ……嫌だ、まだ、一緒に……」

 背中から、身体中の傷から、溢れ出る血が止まらない。冷たい身体が、ただでさえ蒼い顔が、更に温度を、色を無くしていく。

「クラムを、守って……世界を救え」

「メルサ…………っ」

 蒼を通り越して真っ白になった顔で、たった一度、弱々しい笑みを浮かべて。ゆっくりと、メルサは目を閉じた。

「っ、メルサ! 何で、嫌だ! だって、まだ……! メルサ! 目ぇ開けろってば! なぁ、メルサ!!」

 すっかり脱力した手を握り、声を荒げる。だがメルサが目を覚ますことは、その後二度と無く。

 いつ振りになるのか、ヘンリーは声をあげて泣いた。




 これまでも、多くの仲間を失った、きっとこれからも、まだ、失っていくことになるのだろう。

 幼少の頃から一緒だった、家族のようにも思っていた、彼らさえ。

 何故、何も失わずに進むことが出来ないのだろう。あとほんの数体の悪魔を封印するだけで、それだけで終わる戦いなのに。

 それだけで、世界は救われる筈なのに。

 その代償は、あまりに大き過ぎるのではないだろうか。

 別にヘンリーは、世界を救おうなんて大きなことは思っていなかった。ただ大切な仲間たちを守るために、それが必要だったというだけだ。

 それなのにどうして、守りたかったものを失わなければいけないのか。




 落ちていた日記を拾い上げ、アーサーは窓の外に目を向けた。動かなくなったメルサを抱えて泣くヘンリーの姿が見える。

「……間に合わなかったか」

 己の中の死神の力が悪魔を感じ取り、すぐに来たのだが。

 死神との契約によって睡眠が不要となったことで生まれた時間も、アーサーは有効に使っていた。活動率の高い夜には悪魔との戦い。吸血鬼でありながら眠ることのない昼間は、メルサを蝕んでいた病についての研究。

 結局、有効な治療法は見付からず終いだった。

 ゆっくりと、日記のページを開いてみる。


『序列19番の悪魔・サレオスを封印した。少し熱はあったけど、高くはなかったから動けた。こんな身体でもまだ俺は戦えるようだ』

『今日は明け方に、リジーという吸血鬼の女性に会った。どうやら俺とも知り合いで、カムラの嫁らしい。

 いつから知っていたのだろう。多分、子供の時には……孤児たちの中には居なかったと思うんだ。大切な仲間の大切なヒトを、思い出せないなんて』

『クラムは俺たちと出会ったばかりの頃、言葉も名前も知らなかったらしい。ヘンリーは、右腕が無かったと言っていた。

 あの時のアーサーの魔法はすごかった。

 皆が言うことが……アーサーが与えてくれたものが、分からない。とても大切なものだったはずなのに。今度は俺は、何を忘れてしまうのだろう』


 不安の滲む内容。病の正体を知ってもいつだって笑っていた彼の、これが本音。

「治療法を……私はまだ、探し続けることにするよ、メルサ」

 静かに誓いを立てて、アーサーは日記をそっと閉じた。

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