おキツネ様のお気に入り

@shubenliehu

禁煙できないおっさんと腹ペコおキツネ様

 妻に先立たれてから、煙草の量が増えたようだ。


 既に持参した最後の一本になってしまった煙草に火をつけながら、長谷部悠三はため息をついた。部下が遭遇したという“お狐さん”に会う為に夕暮れから張り込んでいるのだが、一向に姿を現さない。こんなことならもっと煙草を持ってくるのだった。こういうときに煙草や酒などの嗜好品が頻繁に支給される軍人という商売を選んで良かったとつくづく感じる。


 とはいえ、いくら好きなだけ支給されると言っても今ここにないのでは意味がない。長谷部はもう一度ため息をついた。大体、どうして自分が部下の不始末…しかも、かなり恥ずかしい不始末の後始末をせねばならないのか。いや、そのこと自体に不満はないが、一番腹が立つのは、その責任を理不尽に押し付けられた感覚が拭えないからである。

 もう何度目になるかわからないため息を紫煙と共に吐き出して、長谷部はその時のことを苦々しく思い出していた。



「これは君の監督不行き届きが原因だ」

 突然呼び出され、入室するなり上官の井上中尉は長谷部にそう言い放った。話が見えず直立不動のまま問いかける。

「失礼ながら、自分には思い当たることがありません」

「君の部下に誇りある皇軍の一員たる自覚がない恥さらしがいると言っているのだ」

 余りの言い草だが、長谷部は表情を変えなかった。井上は軍学校を優秀な成績で卒業した将校である。一兵卒から叩き上げで、定年間際に漸く曹長までたどり着いた長谷部とは生きている世界が違うのだ。いつの時代も士官達は嫌味で自分の保身と昇進しか考えていない。いちいち腹を立てていてはこちらの身が持たないと言うことを、長谷部は長い経験で痛感していた。

 とはいえ面白くないものは面白くない。長谷部は表情を変えないまま、頭の中で目の前で同じく面白くなさそうな顔をしている井上の横っ面をひっぱたいてから重ねて問うた。

「失礼いたしました。その不届き者は一体、どのようなことをしでかしたのでしょうか」

 井上は机の上で指を組むと、勿体ぶって口を開く。

「君は部下の行動を把握していないのか? これでは何のための曹長だか……」

「はっ、申し開きもございません!」

 やかましい。大きなお世話だ。いいからとっとと本題に入れこの小便臭い若造が。

 そんな罵声を頭の中で繰り返しつつ、意識的に姿勢をただし声を高める。いくら面白くなくても、謝られた後に重ねて嫌味を言うのは流石に具合が悪いのか、井上は続けようとした言葉を飲み込み、苦々しく渋面を作って言葉を絞り出した。

「肥溜めに落ちてそばに住んでいる者に助け出されたものがいるのだ」

「……は?」

 あまりといえばあまりの内容である。長谷部は思わず間の抜けた声をあげてしまった。井上は途端に面白くなさそうな表情をを浮かべてこれ見よがしにため息をつく。そのまま口を開いた。

「聞いた通りだが?」

「……失礼いたしました」

 長谷部は何とか冷静さを取り戻し、非礼を詫びる。とはいえ、いつの時代の話かという内容に、長谷部は自分の顔が妙な風にゆがんで行くのがわかった。まるで狐にでも化かされたようだ。

「私としても信じ難い話だが、事実肥溜めに落ちて大切な軍服を糞尿で汚して戻ってきたものがいるのだから間違いない。お陰で我が隊、引いては我ら皇軍の威信に傷がついた。

 ……何度も言うが、これは君の監督不行き届きが原因だぞ、長谷部曹長」

 とんでもなく理不尽な言いがかりに、長谷部は苦々しく思いながら頭を下げたのだった。


「……阿呆か貴様は」

 ところ変わって、兵舎に設けられた長谷部の仕事部屋。

 開口一番、長谷部はそう呟いて、目の前に置かれた灰皿に短くなった煙草を押し付ける。今度は長谷部が当事者の一兵卒を呼び出しているところであった。目の前に立つ一兵卒は長谷部の頭上を見上げたまま、直立不動で返してくる。

「はっ、申し訳ありませんッ!」

 顔をあげて見上げてみれば、耳まで真っ赤な若造の顔がある。名は横島。最近入隊した、まだ年若い一兵卒である。

 長谷部はため息をついた。まあ、恥ずかしいのだろう。これで恥じ入ってくれない部下を持った覚えはない。

 とはいえこの一兵卒の尻拭いが今回の長谷部に課せられた仕事であるから、妥協してやることはできそうになかった。

 長谷部は新しい煙草を取り出す。…と、すぐさまマッチをする音とともに火を差し出されて、長谷部はマッチを探して彷徨わせていた視線を目の前の青年に戻す。風で消えないように片手で火を覆ったままこちらを見つめる目を見て、長谷部はありがたくその火をもらうことに決めた。

「悪いな」

 一言謝意を告げて口にくわえた煙草に火を付けると、青年はマッチを振って火を消し、自分のポケットから取り出した携帯灰皿へ燃えかすを放り込む。手慣れた動作に意外なものを見たような気がする長谷部であった。

「お前さん、煙草は吸わんだろう」

 この青年が煙草の支給を受けた記憶はない。意外な一面を目の当たりにし、煙を吸い込み吐き出しながら問うと、青年は恥ずかしそうに笑った。

「は、自分は吸いませんが、先輩に吸う方が多いので、マッチはいつも持ち歩いております」

「……なるほどな」

 長谷部は頷いて紫煙を吐き出した。根は真面目で、いつもの行動に問題もない。今回の事も魔が差しただけなのだろう。灰皿に灰を落とし、口を開く。

「一応確認するぞ。

 ――お前さんは昨日巡回中に峠道で女に遭遇した。そうだったな」

「はっ、間違いないであります!」

 横島は姿勢をただして長谷部の確認を肯定した。長谷部は頷いて続ける。

「で、その女に誘われてついて行き、気がついたら肥溜めにはまっていた、と」

「……は、まちがいないであります……」

 横島の声は途端に一変し、今にも泣き出しそうである。長谷部は苦笑をさらに深くした。

「阿呆。泣く奴があるか」

「も、申し訳ありませんっ……!」

 声を詰まらせる横島の顔を見上げて、長谷部はため息をつく。まあ、仕方ないといえばしかたないかもしれない。根が真面目な男だ。一度だけの間違いで、まさか肥溜めにつき落とされるとは思わなかったのだろう。つくづく運のない奴である。

 長谷部は思いながら煙草の灰を灰皿に落として、続けた。

「で? 何か思い当たることはないのか。このままじゃお前さん、狐に化かされたって事になるぞ」

「その通りでありますっ!」

 天井を見上げて涙を堪えていた横島は、突然大声で叫んで長谷部に詰め寄らんばかりに身を乗り出す。思わず仰け反って、長谷部は目をみはった。

「こら。お前さん何を言ってる」

「ですから曹長殿、自分は狐に化かされたのでありますっ!」

「…………………そうか。災難だな、いろいろと」

 何と言ったらいいのかわからず、長谷部は煙草をくわえようとした動きを一旦やめ、口を噤む。自分の表情がおかしな具合に歪んでいくのがわかって、思わず何事もなかったかのように装いつつ煙草をくわえ直し、無暗にふかした。

「いやまあ……落ち着け。肥溜めに落ちる前に頭でも打ったか? それともあまりの臭さに正気を失ったか……」

「冗談ではありませんっ! 自分は確かに聞いたのであります!」

 流石に正気かどうかを聞くのはやりすぎたかと思ったが、噛み付いてくる横島の必死な顔に、こいつは本当に化かされたのではあるまいかと感じてしまう。いや、むしろ今でも化かされたままなのではあるまいか。

 聞きたくもないが一応聞いておかねばならない。長谷部は嫌々問いかけた。

「あー……うん、何聞いた」

「自分を助けてくれたご老人が言っていたのであります。『稲姫様の悪戯は久しぶりだ』と」

「稲姫?」

 聞きなれない名称に首を傾げる。横島は直立不動に戻り、頷く。

「はっ、……何でも、この辺りで古くから信仰されているお稲荷さんの事を、昔からこの辺りに住んでいる人はそう呼ぶのだとか」

「……ちょっと待て」

 思わず長谷部は片手で横島の言葉をとどめた。狐に化かされたという話題ならまだ可愛げがある。しかしそれが稲荷だの土着の信仰だのという話題になれば話は別だ。長谷部は煙草の火を消し、改めて口を開いた。

「……まさかお前さんを肥溜めに突き落とした犯人が、その稲荷信仰…“獣人信仰”の御祭神だっていうんじゃないだろうな」




 獣人信仰。

 このような単語が世に浸透したのは、わずか30年ほどの間のことである。

 きっかけは無名の民俗学者西盛左吉が発表した「獣人信仰考」という論文だった。

『オヨソ我ガ国ノ土着信仰ハ、神聖ナル神格ヲ崇拝セル高尚タル信仰ニアラズ、ソノ真ナル姿ハ獣人ニシテ、ソノ性質ハ幼稚二シテ低俗ナリ…』

 この国に広まる、特に獣を神格として崇拝する土着の信仰は、神聖な存在を崇拝する宗教ではなく、人の姿から獣の姿へ、さらに人の姿へ変じることができる獣人と呼ばれる種族が、自らを神と偽って信仰させたものであり、その性質は幼稚にして低俗、愚劣極まりない。よって人間はこのような信仰を即刻捨てて、正しい信仰へ帰るべきである、と主張するこの論文は、当時の民俗学、人類学の学者たちを大いに困惑させ、呆れさせた。獣人の存在はすでに多くの人々が認知しており、それでも信仰は失われなかったからである。獣人たちのほとんどが神通力と呼ばれる特殊な能力を持ち、それを自分を信仰する人々の助けになるように行使してくれていたのだから、むしろ当然というべきだった。なぜ今更、この獣人と人間の良好な関係を壊す必要があるのか。殆どの学者たちが当時この論文を一笑に伏し、この論文は即座に忘れられるに違いないと予想した。

 しかし、学者たちのこの予想は完全に裏切られることになる。政府や軍部が挙ってこの論文の主張を絶賛し、土着信仰を弾圧し始めたからだ。

 そしてその流れに押し流されるように、人々は雪崩を打って獣人狩りに奔っていくことになる。


 悲劇は獣人に限らず、人の姿を取れない獣たちの上にも降りかかった。人間には、獣人と獣を見分ける術がなかったのだ。

 例えば狼たちは、同時期に海外から伝わってきた人狼の伝説と混同され、人を襲う化け物として忌み嫌われ、虐殺されていった。

 それでも狩人達の信仰や保護を受けていた少数の狼やその獣人達が生き延びていたが、7年前に「雪花王」と呼ばれる白銀の毛並みを持つ狼の獣人が、当時趣味の狩猟中であった陸軍省中元賢吾少佐に射殺されると、それが最後の一頭であったのか、狼たちは完全にこの国から姿を消した。以来現在に至るまで、その姿は一切確認されていない。

 同様の悲劇は稲荷神として信仰を集めていた狐たちにも起きた。

 軍備拡張の名目で各地で土地を欲していた軍が多額の土地購入費をちらつかせ、稲荷信仰を続けていた農民たちに社の取り壊しを迫ったことで、欲に目がくらんだ一部の者たちにより、社の破壊や野山への放火が横行したのである。これによって多くの社が失われ、普通の獣たちも含めて、狐たちも獣人たちもまた住処を奪われた。

 そうして住処を奪われ、人里へおりてくるようになった狐たちを、さらなる悲劇が襲う。彼らはその見事な毛並みに魅せられた社交界の貴婦人たちの求めによって次々と捕らえられ、毛皮製品に変えられていった。

 現在、確認されている狐の個体数は全国で1000を切っていると言われている。わずか50年にも満たぬ速度で滅んでいった狼たちと同じ道を、狐たちもまた歩んでいるのだった。

 長谷部には正直な話、獣人を迫害する理由が理解できない。彼の郷里にも稲荷信仰があったし、子供の頃は村の長老たちが人間と知恵比べをする狐の話や神として人々を守る狼の物語を聞かされて育った。あの話が幼稚で低俗だという学者たちの主張に、大きなお世話だ馬鹿野郎といつも思っている。

 だがそれはそれとして、一貫して獣人否定の立ち位置を取る軍部に身を置いている以上、長谷部は「稲姫」なる存在を捨て置くわけにはいかなかった。その稲姫が仮に獣人であったとすれば、これは明らかに由々しき事態だ。獣人が軍部に向かって弓引いた事実がある以上、ここで黙っていれば完全に侮れることになる。

「……内容は可愛いいたずらなんだがなぁ」

「可愛いって……! 曹長殿、あれは明らかに悪質でありますっ……!」

 ボソリとつぶやくと、横島が再び泣きそうな声になって抗議してくる。長谷部は苦笑するしかなかった。

「阿呆。肥溜めにぶち込まれた本人がベソをかきながら言うんじゃない」

「う、失礼いたしましたっ!」

 それにしても、ただの醜聞もみ消しのはずが、とんでもない事態に発展してしまった。長谷部はわざと大げさにため息を――横島を呼んでから何度目になるかもバカらしくて数えていないが――ついて、重々しく口を開く。憂鬱だし、馬鹿馬鹿しいとは思う、思うけれども、これもお勤めであると割り切るしかないようであった。

「お前さんを誘惑したお嬢さんの人相と、ついでに助けてくれたご老人の住所を教えてくれ」

「は、……曹長殿も、稲姫にお会いになるのでありますか?」

「そりゃぁ……」

 長谷部は気怠く憂鬱な気分をそのまま声に乗せて、横島に返す。

「部下に面白い経験をさせてくれたんだ。俺が直接礼をせにゃ引っ込みがつかんだろう?」




「曹長さんも苦労するねぇ」

 手拭いで汗を拭いた老人は聞き込みにやってきて気まずそうに首をかく長谷部に笑いかけてきた。

「悪いな、部下を助けてもらっただけじゃなくて、聞き込みまで協力してもらっちまって」

 及川十吉。この字由村の長老と呼ばれる老人である。この村で生まれ育ち、この村のことを誰よりもよく知る人物で、長谷部自身もこのこの村の駐屯地へ異動になった当初から世話になりどおしの老人であった。今回肥溜めに落とされた横島を助けたのも、この及川老人とその家族なのである。

 ために、気まずいながらも素直に頭を下げた長谷部であるが、そんな彼に向かい、及川老人はなんのなんの、と手を振って見せた。

「あんたが曹長になってからこっち、駐屯地の兵隊さんが井戸掘りやら農作業やら手伝ってくれるおかげで、こっちは大助かりだよ。昨日の兵隊さんにしたって随分人が良さそうだったし、村のみんなもあんたらに親しみが出てきたところでねぇ」

「こっちこそお安いご用さ。兵隊と言っても、俺も含めうちの隊の下っ端はみんな農家の次男や三男だ。銃剣構えて敵に突っ込むより、鍬や鋤握って土を耕してた方が効率良く運動できるのさ」

 長谷部の台詞に対して、平和な部隊だねぇ、と及川老人は笑う。ひとしきり世間話をすると、長谷部は本題を切り出した。

「……ところで、うちの横島がな、自分を肥溜めに落としたのは稲姫という名前のお狐さんだと言うんだが。

その稲姫様について教えてもらえないかい」

 途端、及川老人はあからさまに言いにくそうな顔をした後、長谷部から視線をそらす。長谷部は申し訳ない気分になり、肩をすくめて首の後ろを揉み込んだ。

「悪いな、お稲荷さん否定派の軍部にいる奴には言いたくない話題だろうが……」

「いやいや、そうじゃない。曹長さんを嫌って言いたくない訳じゃあないんだ。まあ…他の軍人なら、そんな名前は知らんと突っぱねたかもしれんがね」

 言いながらも、及川老人は逡巡している。長谷部は目の前の老人が話しやすいように質問を変えることにした。

「俺の郷里にも稲荷信仰があってね。もう廃れちまってるだろうが…この村の稲姫様は余程村の皆に好かれてるみたいだな」

 この質問は、少しは答えやすい内容だったのだろう。そりゃあなぁ、と懐かしげな色を苦い表情に少しだけ混ぜ、及川老人は重い口を開いた。

「稲姫様はそりゃあ美しいお方でなあ。獣の姿をしている時は見事な黄金色の毛並みで、人の姿をしている時は誰もが振り返るような綺麗なお姿をしておられた。それに明るくて優しいお方でなぁ、まるで真っ暗な夜に道を照らしてくれる満月のようで、村のみんなが稲姫様のことを慕っておったよ……」


 美女の誉高い稲姫はただ美しいだけでなくその神通力も強力で、特に“先見”と呼ばれる預言と、“夢紡ぎ”と呼ばれる幻術に長けていたという。大掛かりな葬送の行列や嫁入り行列の幻を紡ぎ、見物に出てきた人々の前で消したり、空中に浮かばせたりする。その精密さたるや、いつ見ても騙されるほどであったという。

「うちの娘なんぞ、小さな頃は嫁入りの行列は稲姫様がこさえるような豪華なやつがいいと駄々をこねたものだ」

 及川老人はもう十数年も前に嫁に行った娘のわがままを懐かしげに語る。その語り口調からしても、稲姫が如何に村人から慕われていたかをうかがわせた。

 しかし、そんな稲姫の身にも、獣人迫害の悲劇は降りかかる。やはりきっかけは、軍部が兵器廠を建設するために、稲姫の社を取り壊すよう、村人たちに迫った事であった。


「……もう、30年近くになるかね。

村の若い者に中には、稲姫様に名前をつけて頂いた者までおる。当然うんと頷く者なぞおらんかった。このままひっそりと稲姫様をお守りして、細々と生きていきゃあいい。それが村のもん全員の結論だった。

 ……そのはずだったんだがなぁ……」

 及川老人は肩を震わせてため息をついた。余程辛く悲しい記憶なのだろう。それでも深呼吸をして及川老人は話を続けた。


 村人の中には、やはりその多額の土地購入費に魅せられた者がいたのだという。彼は密かに軍部と通じ、社ではなく、稲姫が寝食を営む森の中の庵に案内した。

「稲姫様には当時、生まれたばかりの娘御がおってな、その子を人質にとられた稲姫様は抵抗ができんかったんだろう」

 しかし、その時稲姫親子を急襲した部隊は、村人が思うより遥かに醜悪な行為に走った。彼らは村から出て行くよう説得しようとする村人を押しのけ、稲姫に銃口を向けたのである。


「……下衆が」

 話を聞いた長谷部は、思わず小さく毒づいた。大体30年前だというから、事件が起きたのは長谷部がまだ一兵卒だった頃である。軍の腐り具合はその当時から変わらず、堅物な長谷部の顔を歪め続けている。これだけ長いこと軍に身を置いていても、いや、だからこそ、長谷部はこうした軍の暗部がどうしても好きになれないのであった。稲姫とその娘を見舞った悲劇をもたらしたのが自分と同じ軍人であるということが、長谷部にとってたまらなく情けない。

「あんたがそう言ってくれる人で良かったよ」

 どこかホッとしたように及川老人は言う。そして当時に思いを馳せるように目を細めた。

「稲姫様は悔しかったろうなあ。自分を慕っていると疑いもしなかった村のもんに裏切られ、娘を人質に取られ……。だが稲姫様はせめて娘だけでも助けようと、最後に大掛かりな夢を紡がれた。

 銃で撃たれたその瞬間、稲姫様の美しい顔は恐ろしい鬼女のそれに変わり、その場にいた者たちに次々と襲いかかったそうだ。始めは娘を捕まえている兵隊へ、次に自分を裏切った村のもんへ、そして最後に、兵隊どもを率いている大将の首へ……という風にな。

 ……皮肉なものだよ。稲姫様が一番得意としていたのは幻術だと、みんな知っておったはずなのにな、誰もがその恐ろしさに圧倒され、二度とその庵へ近づくものはいなくなった。

 ……かわいそうなのは一人遺された娘御だ。それ以来すっかり人間嫌いでな、まだ母御が生きておった頃は、稲姫様直伝の夢紡ぎを披露してくれたもんだが、あれ以来とんと姿を見せてくれん。生きているのか、今も無事でおるのか、それすらもわからんかった。

 ……不謹慎かもしれんが、あんたの部下の兵隊さんが肥溜めに放り込まれた時、わしは嬉しくてなぁ。もしや稲姫様の娘ごが、また悪戯をしてくれるようになったのかと」

「……その肥溜めに落とされた阿呆の上司としちゃ、ありがたくない悪戯だったがな」

 長谷部は苦笑する。だが及川老人の言い分は納得できた。ずっと罪悪感を抱えながら気にかけてきた幼子が元気に生きているかもしれない。その母親を慕っていただけに、村人たちの喜びと安堵は、長谷部にとっては計り知れないものであった。

「獣人たちの寿命と成長速度からいって……稲姫の娘が生きてりゃ、あんたの孫の年恰好だな」

「わしも年をとったものだよ!」

 嬉しげに笑う及川老人の晴れ晴れとした表情に長谷部もつられて笑ってしまった。しかし老人はふと顔を曇らせると、長谷部を伺うように視線を投げかけてくる。その口からもれたのは、やはり敬慕する祭神の忘れ形見を気遣う内容だった。

「娘ご……いいや、生きておられるとすれば、もはやその子は新しい稲姫様だ。姫様は……やはり軍隊に捕まってしまうのかね」

 長谷部はまた苦笑する。最初はそのつもりでいたが、今ではすっかり気が変わってしまっていた。

「こんな話を聞かされてそのお姫さんを捕まえようとするほど、俺は人間をやめちゃいないさ。まだあんたらに嫌われたくもないしな。

 まあ、まかせとけと胸を叩くことはできんが、何とかごまかせるようにやってみるさ」

 ありがたい、と手を合わせ、及川老人は心底ホッとしたように表情を緩めた。

 長老とその家族に見送られ、敬礼して兵舎への道へ足を踏み出しながら、長谷部は村人を今も捉えて離さない、今は亡き美しい稲荷神を思う。もしもその娘が生きているのだとすれば、ぜひ話がしてみたいと思った。




 ……そんないきさつから、長谷部は夜道に一人で立っている。

 今日巡回の当番だった部下に頼んで代わってもらったのだが、巡回を終えて横島が件の“稲姫様”と出会った道に戻って来てみても、人が現れる気配すらない。流石に連日軍人が巡回に現れれば向こうも警戒するかもしれない。もう少し身を隠す算段をすべきだったか、或いは横島辺りを囮にして張り込みでもすべきだったか。いや、もう一つの可能性に思い当たり、長谷部はがしがしと頭をかきむしった。

「……そりゃな……稲姫様だって若くて人が良さそうな男と柄の悪いおっさんじゃ、若い男を取るだろうからな。俺だってそうするさ。……畜生、悪かったなおっさんで」

 後半は完全に年寄りのやっかみであることなど完全に無視していらいらと煙草をふかす。最後の一本はあっという間に短くなってしまった。長谷部は嘆息し、今夜の張り込みを早々に諦めることに決めた。

「……仕方ない、出直すか」

 意思が弱いと自分でも思うが、長谷部は煙草を切らして長いこと耐える自信がない。もともと妻と息子がいた時は二人に言われて禁煙してみた時期もあったが、戦争が終わった後、反動のように喫煙の頻度が増えてしまい、今や煙草なしでは一日ともたない。

 医者にはこのままではいずれ死ぬぞと脅されてはいるが、やめられないのだ。特に家族の形見を見ていると。

「やれやれ、年は取りたくないもんだ。最近何かと言えば湿っぽくなっちまう」

 吸い殻の火を消して、携帯灰皿に放り込む。そして、首を回して帰途につこうと踵を返しかけたその時、待ちに待った展開が長谷部の忍耐に報いた。


「おにいさん、一人で何してるの?」

 やや高めの声が背中にかかる。

 始め誰のことを言っているのかと思ったが、視線を巡らせても自分以外にはそばに誰もいないことを思い出し、長谷部は漸く自分が呼び止められたのだと自覚した。

 ――ついに来た。噂の「稲姫様」が。

 ほくそ笑み、できるだけいかめしい顔を作って振り返ると、月明かりの下に女の影がある。長谷部は返事をせず、そのまま女を観察した。

 肌は抜けるように白く、髪は艶やかに月明かりを浴びて輝いている。薄暗い夜道で彼女自身が輝きを放っているようにも見え、長谷部は昼間に及川老人から聞いたことを思い出した。おそらくは変化した姿であって、本来の姿というわけではないのだろうが、それでもその美しさは本物だろう。

 ああ、確かにこれは美人だ。ただ惜しむらくは…。

「ねえ、暇ならあたしと遊ぼうよ。いいこといっぱいしてあげる」

 女は黙ったままの長谷部に焦れたのか、再度誘いを――誘っているつもりなのだろう、おそらくは――かけてくる。対して長谷部は彼女の名誉のために指摘しようかしまいかと思いあぐねていた。

 確かに彼女は美しい。美女の誉れも高き稲姫の娘であることを証明するに足る、この世のものとも思えない現実離れした美女……いや、美“少”女なのだろう。だがいかんせん、彼女は幼すぎた。まだ若い横島ならば騙せても、長谷部は半世紀以上も生きている。若い頃はそれなりに悪いこともしてきたつもりだ。そんな男を騙すには決定的に、目の前の女が醸し出す雰囲気は幼い。おそらくは男を……いや、恋愛そのものを知らないのではないか。

 種族によって差はあるものの、総じて獣人族は長命で、そのために成長が遅い。狐の獣人は人の4倍の寿命を持ち、人の4分の1の速度で成長する。30年ほど前に生まれたという稲姫の娘が生きていれば、人間で言ってだいたい7つか8つ。目の前の女が醸し出す気配はまさにそのくらいであった。

「ねえ、何とかお言いよ。それともあんまりあたしがキレイだからビックリしちゃった?」

 挑発しているつもりの女に、長谷部はとりあえず何か言わねばと視線を泳がせ、なぜかキラキラと目を輝かせてこちらを伺う女と目が合い……。

「ブハッ」

 ……思い切り吹き出した。そのまま腹を抱えて笑い出す。悪いとは思うのだが、彼女の必死な様子があまりにも微笑ましくて堪えきれない。

「そ、そうだな。遊ぼうか。

 何をして遊ぶ?

 お手玉か? 鞠つきか?

 それともままごとでもしようか?」

「なっ……!」

 対して女の方は長谷部の爆笑に色を失った。侮られていると気がついたのだろう。くっと顎を引いて俯くと、わなわなと全身を震わせ始めた。

 長谷部も思わず笑うのをやめて女――いやもう、少女と呼んだ方が相応しいかもしれない――に注目する。少女は拳を握り締め、息を吸い込み、全身を使って叫んだ。

「ぶ、ぶれいものー!!」

 途端、少女に頭にポン、と音を立てそうなほど勢い良く三角の耳が生えてくる。感情があらわになったせいで術が緩んでしまったのだろう。

「ブファッ!」

 ……叫ばれる直前までは、長谷部も笑いを引っ込めるつもりでいたのである。流石に年端もいかない少女を笑い飛ばすのはまずいという自覚はある。しかしながら、両の拳を胸の前で固めてまさか「無礼者!」と叫ばれるとは予想外だった。そのあまりの破壊力に、大人としての良識がバリンと音を立てて砕け散り、長谷部は涙をこぼしながら再度爆笑する羽目になったのだった。

「ぶっはははははは…! い、いかん、腹が、はらが…!

 おまえさん、俺を笑い殺す気か…!」

「ぶ、ぶれいものぶれいものっ! わらわをなんと心得るっ、畏れ多くも先のせんちょうさまよりちょう一位の位をたまわりし、字由村稲荷だいみょうじんの稲姫なるぞっ!」

 ……必死に覚えたのだろうが、残念ながら大切な部分を間違えている。長谷部は必死に笑いをこらえようとしたが、一度ツボに入ってしまったせいでなかなか抑えることができない。ひいひいと苦しい息で腹を抱えながら、長谷部は深呼吸をしようと試みた。しかし、やはりうまくいかない。久しぶりに爆笑したせいで、止め方がわからなくなっているようだ。

 少女は再びわなわなと震え出す。ただ今度は、怒りのためというわけではなかった。

「わ、笑うでないっ、ぶれいものっ! 笑うな、笑うなぁ…!」

 顔を真っ赤にして言うなり、顔を覆って肩を震わせる。その体は見る間に小さくなり、長谷部の目の前で、大人の女の姿から、年相応の童女の姿へ変じていった。

 黒い髪に黄金色とも見まごうような見事な毛並みの耳と尻尾。白地に桜をあしらった見事な着物は、神社の巫女を思わせる装飾が付いている。年齢はやはり、7つか8つと言ったところか。

 童女の姿に戻った少女は、しくしくと肩を震わせて泣きじゃくる。流石にやりすぎたかと肩を竦めた長谷部は、なんとか笑いを引っ込めると、嘆息して少女に歩み寄った。

「これで分かっただろう。お前さん、人間を騙すにゃちいとばかり幼すぎるのさ。

これに懲りたら、人を化かすのはもう少し大人になってからにするんだな」

 言いながら、泣きじゃくる少女の頭を撫でようと手を伸ばす……と、少女の気配が若干変わるのを感じた。

「スキありぃぃぃ!」

「……おっと」

 叫んで飛びかかってくる小さな身体を、僅かに身体をずらしてかわす。年をとったとはいえ、柔道と空手、剣道の心得くらいはある。長谷部にとって童女の攻撃など、かわすのは造作もなかった。

「ぶれいものっ、なぜかわすのじゃ!」

「……いや、その怒りは理不尽だろう」

 きい、と悔しそうに甲高い声で非難する少女に、長谷部はボソリと反論する。ただし、再度飛びかかってきた少女の拳を、今度は掌で受け止めた。

「むうううう!」

 唸ってぐいぐいと止められた拳を押し付けてくる少女の悔しそうな顔に、長谷部は大人気なく笑った。

「かわされるのと止められるのとどっちが悔しいだろうなぁ」

「むうううううう!」

 少女は悔しそうに顔を真っ赤にしながら、さらにぐいぐいと拳を長谷部の手のひらに押し付けてくる。その手を押し返して身を引こうとした長谷部だったが、次の瞬間。

 ぐうう、と一体どこにそんな音が鳴る器官があるのかと思うほどに大きな音が響き、双方思わず手を止めた。少女は火が出るほどすでに赤い顔をさらに真っ赤に染めてその場に崩れ落ちる。長谷部は思わずその場にへたり込んだ小さな体を見下ろした。

「もしかしてお前……腹減ってるのか」

 憎い軍人の前で散々恥を晒してしまったと思っているのかもしれない。脱力した少女はうつむいたまま、コクリと小さく頷く。長谷部はため息をついた。どこが元気に生きている、だ。こんな状態でよく30年生きて来られたものである。

「まったく……いつから食ってない?」

「覚えておらぬ……」

 苛立ちを隠しもせずに問いかけると、今にも泣きそうな小さな声が辛うじて長谷部の耳に届いた。額を抑えて嘆息すると、長谷部はやや強引にうつむいた少女の腕を取り、立ち上がらせた。

「何をするのじゃぶれいものっ」

「やかましい。黙って立て」

 抵抗しようとする少女を一喝して黙らせる。ビクリと震えて動きを止めた少女に、長谷部は告げた。

「とりあえず、うちへ来い。満足できるかわからんが、何か食わせてやる」




「お疲れ様であります、長谷部曹長殿! ……まだ厨房が開いているとは思いませんでした」

 字由村駐屯地兵舎。

 厨房に顔を見せた横島に、長谷部は呆れたように返した。

「おう、お疲れさん。……阿呆、この時間帯に厨房が料理を作ってくれるわけがないだろう。今何時だと思ってる」

 と言いながらも、長谷部の前には、かけうどんに白菜の漬物、味噌汁、鳥の揚げ物に野菜の煮物、そしていなり寿司などが所狭しと並べられている。そして長谷部と向かい合う形で、先ほど稲姫を名乗っていた少女が勢い良く箸を動かし、口いっぱいにいなり寿司を頬張っていた。横島は少女と料理を交互に見比べて、長谷部を伺うように見た。

「……あのう、曹長殿? 

質問させていただきたいのでありますが」

「ほう、どこから質問する気だ?」

 自分でも意地悪な返答だという自覚はあったが、横島には意地悪なことを言われたという自覚がなかったらしい。大真面目に料理か少女かを悩んだ後、まずは少女について質問することにしたようであった

「は、……その子は一体……曹長殿のご親族でありますか」

「縁者ねぇ…」

「ぶれいものっ! わらわがこのようなぶれいな男とえにしがあるなど!」

 きっと顔を上げて少女が横島に噛み付く。驚いている青年に、少女は胸をそらして続けた。

「よいか! わらわは畏れ多くもさきのせんちょうさまよりちょういちいの位をたまわりし、稲荷大明神の稲姫なるぞ!」

「ハイハイ。“せんちょうさま”じゃなくて“てんちょうさま”な。それから稲荷の御狐神さんが貰ったのは“ちょういちい”じゃなくて“正一位“だ。…いいからお前は黙って食え。頬っぺたに弁当くっ付けやがって」

 言いながら長谷部は腕を伸ばし、少女の頬についた米粒を親指で拭う。むうう、と呻きながらも、頬を拭ってもらった少女は箸を休めず食事を再開した。それを確認してから、長谷部は気だるそうに横島を眺める。

「聞いた通りだ」

「へっ!?」

 思わず、と言った感じで、横島は素っ頓狂な声を上げた。通常であればなんだ貴様その態度はと叱責されかねないような動揺っぷりであったが、長谷部は差数がに怒る気になれず、だからだな、とため息混じりに説明してやる。

「お前さんを誘惑したあげく肥溜めにぶち込んだお嬢さんだ、このお子様が」

「先ほどから何なのじゃそちは! 無礼にも程があるではないかっ」

 キンキン声で抗議する少女の口に鳥の唐揚げを押し込んで、長谷部はだるい気分を隠しもせずに続けた。

「まあ、見た目も中身もお子様だが、このお姫さんがこの村で稲姫様と呼ばれている御祭神だってことは確かなようでな」

「で、では自分は、このような少女に……!」

 かなり衝撃を受けているらしい横島が今にも崩れ落ちそうなのを、長谷部は痛ましいものでも見るような目で眺めやる。向かいでは少女がしてやったりと言わんばかりの勝ち誇った表情でかけうどんをすすっていた。

「ふふふ。ハセベはわらわの事を子供扱いして人を化かすにはまだ早いと言っておったが、そこな男は十分化かせたようじゃのう」

「阿呆か。まだ餓鬼に毛が生えた程度の、女も知らん小童を化かして何がおもしろい」

「餓鬼に毛が生えた程度の小童……」

 毒づいた長谷部の言葉に、横島が傷ついたような声を出す。振り返ると、相当打ちひしがれたような顔で肩を落としている若者の姿があった。

 さすがにこれを見てかわいそうになったのだろう、少女は箸でいなり寿司を一つつまみ、ずいっと横島に向かって突きつける。そして偉そうな口調で命じた。

「口を開けよ、ヨコジマ」

「……ふぇ?」

「気の抜けたような声を出すでない。口を開けよと申しておる」

 自分を見上げる少女と突き出されたいなり寿司。どうしたらいいかわからず、青年は傍らの長谷部に助けを求めるような目を向けてくる。最初の方は一応表に出ていた上官への言葉遣いや軍人らしさがすっかりなりを潜めているのは、おそらく今の状態が横島の素なせいだろう。だが、堅苦しいのが嫌いな自分にはそのくらいでちょうどいい。長谷部は笑って手を振ってやった。

「姫さんのご指名だ。黙って口を開けて差し上げろ」

「し、しかし曹長殿」

「今のうちによしみを通じておけ。今はお子様だが、成長すればいい女になるぞ。俺が保証してやる」

「い、いや自分はその、そう言った感覚でもってこの子を見ているわけでは……!」

「おい何を動揺してる。……そうかそうか、お前さん、こいつが自分を化かした時の美女に惚れでもしたのか」

「そ、曹長殿ー!」

 話題にされている少女は男二人が――特に長谷部が――している会話についていけず、小さく首を傾げながらさらにぐいぐいといなり寿司を横島に突きつける。

「……? 二人して何を話しておる。もしやヨコジマはいなり寿司が嫌いか?」

「別にそう言う話をしていたわけでは……!」

 見当はずれな少女の言葉にとっさに反論しようとして、横島は口をつぐんだ。さすがに無垢な少女に男同士の下世話な話を説明するのははばかられたのだろう。長谷部が思わず肩をふるわせて笑うと、少しばかり恨めしそうな目で上官を見やった青年は、箸を突きつけたままの少女に視線を合わせ、おずおずと口を開いた。

「最初からそうしておればよいのだ。ハセベの作ったいなり寿司は旨いぞ。……まあ、かか様には劣るがの」

「えっちょ、今なんていっ……むぐっ」

 ご満悦、と言った様子で、何か言い掛けた青年の口へ、少女はいなり寿司を押し込む。すっかり油断しているところで突然口にものを押し込まれた横島は目を白黒させた。長谷部が背中を何度かたたいてやると、両手で口を押さえたまま何度も何度も礼を繰り返して恐縮し、かえって恐慌に拍車がかかったらしい。それでもどうにか落ち着いたところで横島はようやく口の中に入っている食物を味わう余裕が出てきたようだった。何度か咀嚼を繰り返しているうちに、表情が驚きに変わっていく。

「……うまい」

「であろ!? ハセベは無礼者じゃが、ハセベの作る料理は絶品じゃ。わらわはすっかり気に入った!」

 おそらく、絶賛しているつもりなのだろう。しかし手料理をほめられた長谷部にも、稲姫様からいなり寿司を賜った横島にも、彼女の台詞にはそれぞれどうにも聞き捨てならない内容が含まれていた。

「おい人の料理を食っておいて無礼者呼ばわりとは何だ」

「え、ちょ、え? 曹長殿の手料理!?」

 衝撃を隠しきれない横島の様子に、長谷部は今度は目の前の部下にかみついていった。

「おいお前もたいがい失礼だぞ。ここの兵舎に異動してくる前は一人暮らしだったんだ、料理くらいするさ」

「はっ、失礼いたしました!

 ……いやでも今のいなり寿司、一人暮らしの男性が作るには少しばかり味が本格的だった気が」

「……何か言ったか」

「な、何でもありませんッ」

 どいつもこいつも、と長谷部は毒づき、胸ポケットから煙草を取り出す。しかし、何を思ったかすぐに元あった胸ポケットに戻してしまった。長谷部の動きに気づいてすぐにマッチを取り出した横島だったが、肩すかしを食らわされた形に思わず目を見張る。

「曹長殿、煙草をお吸いにならないのでありますか」

 怪訝そうに問いかけられた部下の言葉に、長谷部はため息をつく。その目の前には、旨そうにかけうどんをすする少女の姿があった。

「……阿呆、ガキの前で吸うわけにいかんだろうが」

「……そうでありますね、失礼いたしました」

 言って、横島はマッチを片づける。二人の会話を聞いていた少女は、不満そうに鼻を鳴らした。

「こらハセベ、わらわを子供扱いするでない、無礼であろうが」

「やかましい。そう言う台詞はな、きちんと大人の男を誘惑して化かせるくらいにいい女になってから言え」

 大人の男の言いぐさに、少女はむっとしたような顔をする。長谷部の隣で、少女に化かされただけでなく「大人の男」の範囲内に認定してもらえなかった横島が遠慮がちに反論を試みた。

「ええと曹長殿、自分はもう二十歳なのでありますが」

「お前さんはさっきも言ったとおり、餓鬼に毛の生えたけつの青い小童だ」

「ううう……さきほどよりも内容が厳格であります……」

 回復不可能なまでにきっぱりと断言された横島は、がっくりと肩を落としてため息をつく。それをちらりと横目でみた少女は、何かを思いついたようにぽんと手を打った。

「ヨコジマを化かしてもだめ……ならば、ハセベを化かせればよいのじゃな! よし、ならばハセベ、そちはこれからキンエンを命じる!」

「はぁ!? まて、何でそうなる」

 突然降ってきた不吉な言葉に、長谷部は思わず目をむいて抗議する。しかしやんごとなきお姫様はしれっとした表情で宣うた。

「だってハセベよ、タバコは体に悪いとかか様が言っておったぞ? そちにはわらわがそちを化かせるようになるまで生きておってもらわねばならぬ。カクゴを決めてキンエンせよ!」

 高らかに命じられ、長谷部は頭を抱える。禁煙を厭う気持ちを隠す気もないが、それ以前にこのお姫様はご自分と目の前のおっさんの年齢差を全くお考えでないらしい。

「……阿呆か。どこに化かされるために長生きしようとする馬鹿がいる。それにお前さんが大人の男を化かせるようないい女になってる頃には、俺はとっくに墓の下か、生きててもよぼよぼの爺さんだ。たつもんもたたん」

「そそそ曹長殿! いいい今のお言葉は流石に……!」

「なんでお前が動揺する? 心配するな、お姫さんはどうせ理解なんぞできんさ」

 最後に飛び出した情操教育上不適切きわまりない言葉に、なぜか動揺した横島が耳まで真っ赤にしながら両手を振り回している。長谷部はあきれるよりも先におかしくなり、思わず吹き出してしまった。対して破廉恥な発言をぶつけられたお姫様は、どうやらその意味を理解できなかったらしい。

「……? 安心せよ。もし化かしに行って長谷部がお墓の下におったら線香くらいはあげてやる。美女に化けて上手に線香を立ててやるから、突然倒れると言うことはないぞ?」

「……あれ」

「ほれ見ろ横島。お前さんが動揺しすぎなだけさ」

 間抜けな声を上げている横島に、長谷部は意地悪く笑う。男二人の下世話な話に全くついていけていない少女は、きょとんと目をしばたいていた。

「……それはそうと、曹長殿。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

 肩をふるわせてくっくっと笑い声をたてていた長谷部に、気を取り直すように軽く深呼吸をした横島が問いかける。どうした、と言う代わりに視線をあげて続きを促した上司に、彼は心配そうに声を潜めた。

「その……これからどうなさるのですか、……この子を」

 途端、少女は箸をぱちんとおいて大人二人を見上げた。気丈に振る舞ってはいるが、内心は不安なのかもしれない。

 長谷部は年少の二人からの視線を受けて、ふむ、と腕を組んだ。横島がさらに続ける。

「じ、自分はこの子のことを知りません。この子に化かされたこともありません。昨日は、自分が勝手に足を滑らせて……」

「――悪いが、その言い訳には無理がある」

 少女をかばおうと必死の部下を遮って、長谷部はため息混じりにそうつぶやいた。確かに彼女は獣人であり、彼女が化かした横島は軍人である。獣人を全否定している軍の人間を騙して恥をかかせたのが獣人であるという事実が明るみにでれば、それこそ目の前の少女も、そして陰ながら【稲姫】を信仰してきた村の者たちも苦しむ結果になるだろう。横島がその事実をきっぱりと否定できれば全てうまくいく。しかし、実際当事者ではない長谷部が調査を命じられているのだ、今のようなかばい方をすれば、今度は横島がただではすまない。

「まあいい。これから井上中尉に報告する調査結果について確認する」

 背筋を伸ばして横島をみる。年若い駆け出し軍人は姿勢を正し、少女は不安そうに二人を見比べていた。

「いいか。お前さんは昨晩の巡回中、若い女性に出くわした」

「は、はい」

「その若い女性は人生に悲観し、自殺を図っていたため、お前さんは慌てて止めに入った」

「……は?」

「しかし必死に刃物を振り回す女性に手を焼き、足を滑らせてそばにあった肥溜めへ転落。夜半に自殺を図った女性の心境を慮り、助けられたお前さんはとっさに『狐に化かされた』と夢物語をでっち上げ、問題が大きく発展してしまった」

「え、ええと……」

「しかし今日の夜半、調査中の俺の前へ件の女性が出頭、事実の説明をしていったため、お前さんの不名誉は濯がれた」

「あ、あのう……」

「ちなみに女性は明日朝一番の列車に乗って親戚のいる町へ引っ越すことになっており、自殺の原因はその親戚と折り合いが悪いことを悲観したためだった。

 ――今の話、しっかり覚えておけよ。少しでも【事実】と違うことを言ってみろ、曹長権限で減俸処分か営倉送りにしてやる」

 にやりと笑って締めくくると、さあっと音を立てそうな勢いで横島の表情がひきつっていく。黙って聞いていた少女は、震える声でつぶやいた。

「アクラツじゃ……この男、今まで出会うてきた軍人の中で一番アクラツじゃ……!」

 何か非常に失礼なことを言われた気がしたので、長谷部は応える代わりその口にだし巻き卵を放り込んで黙らせる。それから青い顔で自分の言葉を繰り返しては覚えようと焦っている部下を振り返った。

「そう固くなるな。どうせ報告の相手は井上中尉だ、事実確認のためにお前さんのところに質問が飛ぶようなことはありえんさ」

「なんだか……安心していいような、まずいような気分であります……」

 複雑そうな顔をして姿勢を正す横島に笑い声で応え、長谷部は次に少女の方をかえりみる。心配そうに横島を見つめていた少女は、それに気づいてすぐに長谷部を見返してきた。

「お前さんは……そうだな、これから先、寂しくなったらここへ来い。ああ、そのときは耳と尻尾は隠して来いよ」

 少女は驚いたように目をみはる。そのあとぎゅっと眉を寄せ、今にも泣き出しそうな、かすれた声で小さくつぶやいた。

「……わらわは、人間なんか大嫌いじゃ」

「……そうか」

 長谷部は反論しない。理由を問おうとしたのだろう、驚いた表情で口を開いた横島を手で制し、それから残ったいなり寿司の乗った皿を少女の方へ押し出す。

「じゃ、またいなり寿司を食いに来い」

 うつむいていた少女はまた驚いた顔をした後、今度は眉をつり上げ、きっと目の前の長谷部をにらみつける。

「そちはわらわの話を聞いておったのか!」

「聞いてたさ。

 人間は大嫌いだが、俺の作ったいなり寿司は気に入ったんだろう?」

 にやりと笑ってやると、少女はまたも驚いた顔で長谷部を見上げた。それからどこか面はゆそうな表情に変わり、ぷいっと目をそらしてしまう。

「ま、まあ、ハセベがどうしてもと申すなら、ときどき……本当にときどき、来てやってもよいぞ?」

 長谷部は吹き出すのを懸命にこらえた。この子どもが今できる最大の強がりと譲歩を見せてもらったのである、これで笑ってしまっては大人として申し訳ないと言うものだ。

 母親を喪ってから30年近く、彼女は寂しさやひもじさとたった一人で戦ってきたのだろう。そうした仕打ちを考えれば、この子どもが人間を嫌うのも無理からぬ事だ。それでも精一杯譲歩して、彼女は長谷部に歩み寄ってきた。それならばこちらも、その好意を確実に受け止めてやらねばならない。おそらくそうやって、この村の「稲姫信仰」は細々とでも確実に続いてきたのだろう。長谷部は渋々とした表情を装って、小さな御祭神に合わせてやった。

「ハイハイ、是非お願いしますよ、オヒメサマ」

 少女は偉そうに胸を張ると、ご満悦な表情を浮かべてうなずく。きれいに切りそろえられた黒い髪が、嬉しそうに揺れる頭に合わせてさらさらと揺れた。

「うむ! 楽しみにしているがよい!」




 ――それから、一週間。

「……また来てんのかお前さん」

 あきれた表情を浮かべ、長谷部はいなり寿司をほおばる少女を見やった。あれからほぼ毎日のように、少女は兵舎にやってきては長谷部のいなり寿司を要求している。

「食いに来いと言ったのはそちではないか」

「……確かに言ったが、そればっかり食ってると健康に悪いぞ。……ああもう、行儀よく食え。またほっぺたに弁当くっつけやがって」

 開き直った顔で平然とそう応える少女の口元に米粒を見つけ、ぬぐってやる。むう、とうなって、少女は箸を休めずにまたいなり寿司を食べ始めた。

「お疲れさまであります、長谷部曹長殿!

 あ、イネちゃんも。こんにちは」

 あれ以来、横島とも厨房で頻繁に顔を合わせる。横島の来訪に、オヒメサマは鷹揚にうなずいて返した。

「おおヨコジマ! じゃましておるぞ」

「……お前さん、横島には挨拶するくせに俺には『腹が減った、いなり寿司を食わせよ!』しか言わないのな……」

 ぼそりとつぶやいた長谷部に、横島が吹き出し、慌てて笑いを引っ込める。その仕草に気づいていたが、長谷部はあえて無視した。長谷部にとってはおそれられているよりも慕われていた方が気が楽なのである。

「あ、そうだイネちゃん、これどうぞ」

 横島は箸をおいた少女の手に、自分のポケットから取り出したチョコレートとキャンディーを乗せる。最近横島は支給される甘味を、こうして少女に分け与えるため、常にポケットに菓子を入れて持ち運ぶようになった。もちろん訓練中は持たないが、こうしていついかなる時も少女に渡す菓子を欠かさないのは、長谷部に言わせれば天晴れな周到さである。

「おお、ヨコジマはいつも抜け目ないのう」

 偉そうに言葉をかけつつ、お姫様は献上品を受け取った。隣で長谷部がボソリと……しかし、横島にははっきりと聞き取れるような音量でつぶやく。

「……童女趣味か。初めて知ったな」

「そっ、そそそそ曹長殿! いいいイネちゃんのことは郷里に残してきた年の離れた妹をみているようで何となくかまってあげたいというか! でででですから自分はそのような趣味の持ち主では断じて……!」

 そのとたん、横島が動揺のあまり両手をばたばたと振り回しながら弁解を始める。なんだ、弱点を直撃か。長谷部はとことんからかってやるつもりで白々しく驚いてみせた。

「何だ? 俺は別にお前さんのことを指して言った訳じゃないぞ? それとも、そこまで動揺するからには少なからず心当たりが……」

「でででですから曹長殿! 自分はそのような趣味の持ち主では決して……!」

「いやいや何も恥じることはない。本格的に手を出せば問題だが、菓子をやるくらいならかわいいものだろう」

「曹長殿ぉ……」

 途方に暮れた顔で恨めしそうにこちらをみる横島にしてやったりと笑ってやると、からかわれた部下はため息をついた。実にからかい甲斐のある男である。

「ああそうだ。……おいお姫さん」

 再び箸をとっていなり寿司を食べ始めた少女の頭に、長谷部は傍らに置いておいた物をかぶせる。驚いたように顔を上げたその頬にまた米粒がついているのを発見し、ため息とともに拭ってやる。

「お前な……いったいその形状の食い物を、どうやればそんなに頻繁にほっぺたに弁当をくっつけられる?」

「よけいなお世話じゃ! ……で、これは何じゃ」

 一度かみついてから箸を置き、少女は頭に不格好に乗せられた布の固まりを手に取る。紺色の、どこか使い古されたそれを両手で回しながら観察する少女を眺めながら、長谷部はあきれたように言う。

「何って、見てわからんか。帽子だ」

 見たままだろうが、と続ける男に、少女は再びかみついた。

「馬鹿にするでない、無礼者! そうではなくて、なにゆえわらわに帽子をかぶせたのじゃ」

「当然、勢いで変化が解けそうになったときに帽子で隠してもらう為さ」

 言われた少女はとっさに髪に手をやる。その仕草を見て、長谷部は自分が密かに想像していた事がはずれでないと確信した。

「お前さん、変化に慣れてないだろう。獣人特有の耳と尻尾、特に耳を隠すのが苦手だ」

「そ、そんなことはない! わらわは天下に名高い稲姫の娘じゃ、そのような恥ずかしいこと、あるはずがなかろう!」

 動揺して顔を赤らめながら否定する少女に呆れたように肩をすくめ、長谷部はハイハイと生返事で聞き流す。

「じゃあまあ、そう言うことでいいから、万が一に備えて持っておけ。俺たちにもお前さんにも自覚がたりんが、一応ここは人間の、しかも軍部の兵舎だからな」

 むう、とどこか不満そうにうなって、それから少女は使い古されて布の柔らかくなった帽子を観察する。子供用ではあったが、少年用の学生帽のため、少女の頭には若干大きすぎるようである。ふと、少女は帽子の裏側に縫いつけられた名札を見つけ、それを読み上げた。

「【長谷部 薫】……?」

「俺の息子だ」

「そちに子供なぞおったのか!」

 驚いた表情を……というよりも、衝撃を隠しきれない表情を浮かべた子供に、長谷部は鼻を鳴らして応える。

「悪かったな、子供いそうにない柄の悪さで」

「柄の悪さは否定せぬが、その言い方はひがみっぽく聞こえるぞ、ハセベよ」

「やかましい」

 ぼそっと不機嫌そうに返す長谷部に、少女は心配そうな表情で問いかけた。

「しかし、よいのか? そちの息子はこの帽子を使っておったのであろう? わらわが勝手に被ってしまって、困りはせぬのか?」

「問題ないさ。……5年も前に死んじまったからな、空襲で」

 なるべくさらりと言ったつもりだったが、隣で聞いていた横島が一瞬言葉を詰まらせる。横島の方が年上ではあるが、生きていれば長谷部の子供は横島と同世代である、彼もまた、空襲の恐怖を覚えているのだろう。

 対して少女は、ひどく穏やかな表情で小さくうなずいただけで、何も言わなかった。

「そうか。ではありがたく借りるとしようぞ。……やや大きすぎるようだがの」

 妙なところで大人びた態度をとる少女である。冗談めかしたその言葉に、長谷部は苦笑した。

「薫が尋常小学校を卒業する年まで使ってたものだからな。まあ、もう少し大きくなったら、お姫さんの頭にも合うようになるだろう」

 からかい半分の長谷部の言葉に、今までの落ち着きっぷりはどこへやら、少女は再び、きぃっとばかりにかみついてくる。

「無礼な! わらわを子供扱いするなと、何度言えばわかるのじゃ!」

「ほうほう、じゃあ俺も何度も言わせてもらうが、そういう台詞は大人の男を化かせるようになってから言え」

「むぅぅぅぅ!」

 言い返すことができずに、少女はうなって唇をとがらせる。長谷部はその手から帽子を奪い取ると、それを少女の頭に深くかぶせ、目が隠れたところでその頭を叩くように撫でつけた。

「まあ、俺が生きている間に、お前さんがいい女になったら、そのときは潔く化かされてやるさ。祝いにいい女に似合う……そうだな、帯留めなんかいいかもな。粗品でも献上してやるから、楽しみにまっとけ」

 言いながらぐりぐりと頭を押さえつける男に、お姫様は必死に抵抗する。ようやく大きな手から逃れた少女は、帽子をしっかりと被り直し、胸を反らして無礼な男に指を突きつけた。

「度重なる無礼のかずかず、断じて許さぬっ! 絶対……ぜぇぇったい、ハセベを化かしてやるから、カクゴしておくのじゃっ!」

 その姿は、見るものが見れば非常に魅力的ではあったらしい。思わずといった感じで口を押さえて密かに笑いをこらえている横島を横目に見ながら、鼻息も荒く決意を新たにしている少女に、無礼な男は頬杖をつき、フフンと不遜に笑って見せた。

「へいへい、いつまでもお待ちしておりますよ、オヒメサマ」

 少しはまじめに聞け、と叫ぶ少女が振り回す拳を軽々と交わしつつ、長谷部はこれから定年まで、少しは楽しくなりそうな予感を覚え、密かに口元に笑みを刻んだ。

 ――まさか本当に、この少女に化かされる日が来るなどとは、全く予想もできないまま。

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