翁の消失⑤
翌日の金曜日。今日を終えれば週末という高揚感を抑えきれないのか、教室全体がそわそわしている。まだ学校が始まって一ヶ月。一週間の疲れよりも、休日への期待の方が上回る時期なのだろう。かくいう僕も今日の放課後には女の子と二人で帰るというイベントを控えている。まあ、才崎さんに昨日から考えていたことを話すだけなんだけど。
クラスの皆とは別の意味でそわそわしている才崎さんの隣で一日授業を受けるのはとても居心地が悪かった。最後のホームルームを終え、各々が解放感を得ているなか、才崎さんだけは未だにすっきりしない表情を端正な顔に浮かべている。
才崎さんに急かされながら荷物をまとめ、教室をあとにする。昇降口で靴にはきかえ校舎を出ると、もう夕方になろうかというのに、しぶとく粘る太陽が最後の力を振り絞るように光を浴びせてくる。夏はまだ先だけど、日差しは季節の移り変わりを如実に知らせていた。
校門を出たところで、才崎さんが待ちきれないといったように切り出してきた。
「ねえ龍! わかったんでしょ。おじいちゃんの居場所。早く教えてよ!」
焦りが半分、好奇心が半分と言った様子で彼女は落ち着きなくこちらをうかがってくる。けれど僕は推測を話す前に彼女の勘違いを正しておく。
「才崎さん、これから話す推測は水口さんの居場所じゃなくて、彼がどのようにいなくなったかだよ」
「それでもいいから、早く!」
「……わかったよ」
彼女は僕が言った言葉の意味を理解しているのだろうか? まあいいか。僕の推測だけで納得してもらえるかはわからないが、その後は彼女が自分で行動するだろう。
「まず、水口さんが救急車で運ばれたらしい日は今日から四日前。つまり月曜日だ。ご婦人の証言と近所のおうちで聞いて回ったからそれは間違いない。疑問が残るのは乗せられていたのが本当に水口さんだったのかということだけど、救急車が水口さんの家の前で止まっていたことと、ご婦人含めて近所のひとが他に運ばれたという人を知らないことからほとんど確定といっていいと思う」
「そうね。おじいちゃんが朝いないことにあたしが気づいたのが火曜日で、確認したのが次の日の水曜日だから、月曜日ならつじつまが合うわね」
「一応、聞いておくけど月曜日の朝は水口さんを見かけた?」
才崎さんは思い出すように小首をかしげる。
「……うん、見かけたと思うわ。朝挨拶するのは習慣みたいになってたからあんまりはっきりした記憶じゃないけど……」
「確認程度だから大丈夫だよ。救急車に乗ってる時点で旅行や単なる外出の可能性はかなり低いからね」
学校から延びる下り坂は僕らと同じように下校する生徒たちがまばらに歩いている。
才崎さんはこの件に関してだいぶ弱気だ。いつもの元気溌剌とした雰囲気が微塵も感じられない。いつもはいつもで過剰なところもあるけど、元気のない彼女を見るよりは通常通りの彼女の方がいい。少しでも才崎さんを励ますために僕は少し声のトーンを上げた。
「さて、ここで一つの問題が浮上するんだ。何かわかる?」
問題形式にすることで好奇心お化けの才崎さんを焚き付けようという作戦だ。が、彼女はあまり乗り気ではない。
「えぇ……わかんない」
不貞腐れたようにこちらを睨む才崎さん。慣れないことはするものじゃない。仕方なく僕は答えを告げた。
「サイレンだよ」
「サイレン?」
頭にはてなマークを浮かべた才崎さんが、先を促す。
「救急車は緊急走行するときにサイレンを鳴らすよね。でも月曜日にサイレンを聞いた覚えはない。学校の周りは車通りがほぼないし、人もそれほど通らない。住宅街でサイレンが鳴れば例え授業中でも気がつくはずだよ」
加えてこの辺りで救急車やその他の緊急車両が通ることは稀だ。サイレンが鳴れば記憶にも残りやすいだろう。しかし、才崎さんは呆れた、といった様子だ。
「たしかにサイレンが鳴ればそのときは気がつくかもしれないよ。でも龍、あんた四日前の月曜日に救急車のサイレンが鳴ったかどうかなんて覚えてられる?」
才崎さんの指摘はもっともだ。僕はわりと記憶力が良い方なので、昨日の英語の時間に聞こえてきたサイレンなんかも覚えているが、それだけでは信じてもらえないだろう。
だが……
「あの黒髪のご婦人の話を思い出してごらん」
昨日、才崎さん宅の前で出会った二人組のご婦人。そのうちの黒髪の方の女性はなんと言っていたか。
「えっと……確か家の前を掃除してて、ふと顔を出したら救急車が角を曲がっていくところだったって……」
「そう。そこなんだ。ご婦人は自分で通りを覗くまで救急車の存在に気がつかなかった。それはなぜだろう」
才崎さんは二つ目の問いには答えてくれた。
「……サイレンが鳴っていなかった?」
その通り。月曜日、水口さんが乗ったと思われる救急車はサイレンを鳴らしていなかった。その意味するところを正確に読み取ったのか、才崎さんは安堵の息を吐く。
「ああ、よかった……。じゃあおじいちゃんは大きな病気とかじゃなかったんだね」
ここ数日間、息が詰まるような思いをしていた才崎さんがその肩の荷を下ろしてくれただけで、考え事に従事した甲斐がある。けれど、問題は解決していない。
「それじゃあ、おじいちゃんは一体どこに行ったの? 救急車を受け入れている病院はあたしたちでまわったわよね」
「ここからは少し曖昧な仮説になるけど……」
商店街に入り、そこかしこからいい匂いが立ち込めてきている。空腹を感じながらも僕は続けた。
「たぶん水口さんが乗っていたのは救急車じゃなくて医療サポートカーだったんじゃないかな」
「医療サポートカー?」
新しい単語に食いつく才崎さん。でも、いつもの好奇心が戻ってきたみたいでちょっと嬉しい。
「医療サポートカーっていうのは救急車を呼ぶほどじゃないけど、近くに病院とかがないときに連れていってくれたり、自宅まで送ってくれたりする車のことだよ」
民間のサービスとしてやっているところはたくさんあるが、救急車に似た車両を使用しているところも多いと聞く。それならご婦人や近所の皆さんが見間違えても仕方がない。もしくは病院が救急車を患者搬送車両として使っていることもあるが、それは病院間の患者の搬送がメインだったはず。そして、医療サポートカーは緊急走行ができない。サイレンを鳴らすことができないのだ。さらに付け加えれば、住宅街の近辺には診療所ひとつない。水口さんが体調不良などの理由で医療サポートカーを呼んだとしても何ら不思議はない。
「その、医療サポートカー……? それにおじいちゃんが乗ったとして、おじいちゃんはどこに行ったのよ」
「あくまで推測だけど……昔才崎さんのお母さんがお世話になったっていう医者のところじゃないかな」
才崎さんは驚いたように口をぽかんと開ける。
「救急車はどうかわからないけど、医療サポートカーは救急車のような緊急車両じゃない。行きたい病院をはなから指定することもできるはず。だとすると……」
「ママがあたしを産む前に風邪を引いたとき、水口さんに教えてもらったっていう病院ね!」
言うやいなや、才崎さんは商店街の通りを走り出す。いつもなら様々な匂いと物珍しさにひかれてあっちこっち行ったり来たりする彼女が前だけを見て走っている。それは普段の彼女らしくはないけれど、知りたいことを見つけたらそこへ一直線に飛んでいく、彼女の性格をよく表しているともとれる。ともあれ普段の才崎さんに戻ったというわけだ。めでたし。
僕は彼女の後を追う気はなかったのでのんびりと歩いていると、前方から大きな声が響いてきた。
「ちょっと龍! 何してんの。早く来ないと置いてくわよー!」
その声に商店街の皆さんがくすくすと笑っているのが聞こえてくる。昨日りんごを味見させてもらった青果店のおっちゃんなんか、「青春だねぇ~」なんて呟いて親指を立てた拳をこちらに向けてくる。なんだい、それは。
これ以上ここにいると気恥ずかしさで消えしまいたくなりそうだったので、足早に通りを抜ける。
だらだらと話ながら歩いていたせいか、日は傾きオレンジ色の夕焼けが空を染めている。
夜の赤い空は羊飼いの喜び。どこのことわざだっただろうか。どこかの国では夕焼けは明日の晴天を意味するらしい。願わくば明日もいい日であらんことを。
柄にもないことを空に祈りながら、笑顔で手を振る才崎さんに、僕は手を上げてこたえた。
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