翁の消失③
通してもらったリビングはテーブルとソファー、テレビが置いてあるだけと簡素だったが、窓際に飾られた観葉植物や、かけられている薄い紅色のテーブルクロスが温かみを感じさせる。
僕をソファに座らせると才崎さんは「コーヒーでいいわよね」と、キッチンへと向かった。少し長い話になりそうだ。
コーヒーを入れた二つのカップをお盆にのせて戻ってきた才崎さんは、僕の向かい側に腰を下ろす。
「はい、コーヒー」
「わざわざ、ありがとう」
まずはコーヒーを一口すする。
「ん? 濃い……」
「あれ、龍はコーヒー濃いの苦手だった?」
「あ、いや、そんなことはないんだけど……」
どちらかと言えばコーヒーは濃い方が好みだ。味の違いがわかるほど良いものも、数も飲んではいないけれど。
「ただ、才崎さんはアメリカから来てるからさ。コーヒーもアメリカンみたいに薄味なのかなと思ってただけ」
「はあ……。アメリカンってコーヒーは聞いたことないけど。あたしが住んでたニューヨークはわりと濃い味のものが多かったわよ」
「そうなんだ……」
ということはアメリカンコーヒーというやつは和製英語なのかもしれない。
とりあえずの疑問はそこまでにして、本題に入る。
「それで、おじいさんがいなくなっちゃった話だけど」
カップをソーサーに置き、才崎さんに詳しい話を聞こうと促す。すると同じようにカップを置いた才崎さんは、少し悩むような仕草をする。
「話す、とは言っても特に変わったことがあったわけじゃないのよね。一昨日の朝、いつも挨拶する時間におじいちゃんがいなかったの。そのときは起きるのが遅かったのかなって思ったんだけど、昨日の朝もいなかったわ」
ふむふむ。それだけなら才崎さんの言う通り、ただの寝坊である可能性も否定できない。彼女は続けた。
「ちょっと不安になってママに言ったら、じゃあお裾分けがてらに様子見てきなさい、って言われて。昨日の夕飯時にママの作った肉じゃがをもって家に行ったのよ。でも電気はついてないし、チャイムを鳴らしても出てこなかったの。諦めて帰ったんだけど、今日もいなかったから心配で……」
才崎さんはこれで心配性なところがある。破天荒で猪突猛進に見えるけれど、その実、冷静で周りをよく観察している。さっきだって、僕が紅茶よりもコーヒーを好むことを以前に話していたからこそ、コーヒーを出してくれたのだ。自分勝手に振り回されるのは少々骨が折れるけど、彼女のそんな部分を間近で見られるのは嫌なことじゃない。
「じゃあ、とりあえずそのおじいちゃんの家に行ってみようか。案外、ひょっこり顔を出すかもしれないしね」
「そうだといいんだけど……」
落ち込む才崎さんを連れて玄関を出る。家はお向かいさんだというので、すぐに場所はわかった。表札には水口とある。
「水口さん、か……」
「そう、水口洋司さん。これは話したけど奥さんはかなり昔に亡くなってる。親戚の方も縁遠いみたいで、誰かと一緒にいることを見たことがないってパパもママも言ってたわ」
「何か病気とかしてたわけじゃないんだよね?」
「詳しいことは知らないけど、いつもは元気そうだったわね。ボケた様子もなくて、挨拶すると笑って手を振ってくれたもの」
話を聞けば聞くほどわからない。旅行にでも行ったのだろうとは思うが、確かにいきなりいなくなられると心配になる。とにもかくにもチャイムを押してみないことには何もわからない。ボタンを押すと、どこかで聞いたようなメロディが流れた。…………誰も出ない。
「ご不在かな」
「だから言ったでしょ。いなくなったって」
自分の言ったことを信じてもらえていなかったと勘違いしたのか、不機嫌そうに口を尖らす才崎さん。けれど、確認は大事だ。
「大事なことを見逃さないための手順だよ」
昼間、学校で彼女が僕に言ったことをからかいがてらに返してあげると、さらに不満そうな顔になる。
「まったく、龍のそういうところが気に入らない」
知りたいことには最短距離でたどり着きたい才崎さんは、回りくどいことが苦手らしい。でも、本当に知りたいのなら慎重になるべきだ。僕がこれからのことを思案していると、才崎さんや水口さんの家が並ぶ通りの突き当たりから、二人の婦人が歩いてきた。その二人は才崎さんを見ると笑顔で手を振って近づいてきた。
「英梨ちゃんじゃないの。どうしたのおうちの前で」
60代くらいだろう、髪を紫にそめた婦人が才崎さんに声をかける。
「男の子なんか連れちゃって。いやだ、デートの途中だった? ならお邪魔しちゃったわね」
違いますよと僕が否定するよりも先に才崎さんが慌てたように顔の前で手をぶんぶんと振る。
「全然違いますから! ちょっと気になることがあったので、調べるのに付き合ってもらおうと……」
「まあまあ、照れちゃって。可愛いんだから。でも気になることって?」
「もしかして水口さんのことかしら?」
最初に声をかけてきたご婦人とは違う人。こちらは50歳前後だろうか。ゆるくパーマをかけた髪はまだまだ黒いつやを失っていない。
「実はそうなんです。ここ三日くらい水口さんの姿をみていなくて。いつも挨拶してたので心配で……」
英梨ちゃんは優しいわねえと感心する紫髪のご婦人に対して、黒髪の女性はなにやら思案顔だ。僕は気になって尋ねた。
「水口さんがいなくなったことについて何かご存じですか?」
するとその女性は僕に答える、というよりは自分の中にある不確かな記憶をたどるように首を捻る。
「うーん、3日くらい前に家の前を掃除していたのよ。そのとき通りにちょっと顔を出したら、救急車があそこの角を曲がっていくところを見たの」
指差したのは僕らが商店街から来るときに通ってきた道。そこを救急車が通ったのだという。
救急車という単語を聞いた途端、才崎さんは脇目も降らず自宅に飛び込んでいった。僕も「ありがとうございます」とだけ伝えると、呆然としているご婦人方を置き去りにして、彼女の後を追う。
「才崎さん!」
「いま調べてる!」
彼女はこのあたりで救急車の受け入れを行っている病院をパソコンで調べていた。いくつかの候補を紙に乱暴に書き出すと、すぐに家を出る。僕は一抹の不安を覚えながらも、そのなかに水口さんがいる病院があることを願うしかなかった。
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