翁の消失②
その日の放課後。僕は才崎さんと連れだって下校していた。僕たちが通う高校は小さな丘の上にひっそりと建っていて、周囲に車や人の影は少ない。そんな場所にあるからか校庭で練習に精を出す野球部の声がとてもよく響いていた。
「よくやるなあ……」
「龍は何か部活に入ろうとか思わなかったわけ?」
なぜ喧嘩腰。これがデフォルトだとわかってはいるけれど、高校という青春のど真ん中にあって、なにもしていない自分を責められているようで、ちょっと言葉につまる。
「……うーん、特に理由はないけど。やりたいこともなかったし」
僕の気のない返事に才崎さんは呆れ気味だ。
「はあ、あのね龍。やりたいことっていうのはやってみてから分かるものなの。何もしていない受け身じゃあ、やりたいことなんて見つかるわけないじゃない」
「そうかもしれないけど……。じゃあ才崎さんは何かやってるの?」
「あたし? あたしは常にやりたいことをやってるし。知りたいことのために行動するのもその一環よ。今日だってね」
わくわくした様子を見せ語る才崎さん。しかし、次の瞬間には明るい表情に影がさした。
「でも、今日はちょっと心配……」
そう、僕が今日才崎さんに連れていかれてるのは件のおじいさんのことがあるからだ。詳しい話はまだ聞いていないものの、人が一人いなくなったというのはわりと、いやかなり大変なことだ。
心配よね、と呟く才崎さんの足取りも心なしか元気がないように思える。もしもエネルギーが可視化されたとすれば、この人からは異常な数値が叩き出されそうなものだが、今日はその元気もすっかり鳴りを潜めているようだ。 「そのおじいさんとは仲が良かったの?」
しおらしい才崎さんと二人きりというのが、妙に気恥ずかしかった僕は、何となく訊いてみた。
「うーん……」
才崎さんはちょっと考え込むような仕草をしてから、答える。
「仲が良かったわけではないかも。あたしがこっちに引っ越してきたのだってつい今年に入ってからだったから。でもパパとママが昔住んでたときにお世話になったって。そのおじいちゃん、奥さんを大分前に亡くしていたらしいの。子どももいないみたいで、いつも寂しげだったわ。だからあたしも会ったら挨拶くらいはって感じ」
「昔住んでたってことは、ご両親はもともと日本にいたんだね」
「そうね。ちょうどあたしが生まれるくらいのときにパパの転勤が決まっちゃったらしいわ」
親の転勤というのは引っ越しの理由としてごくありふれたものだ。それが海外であることも今ではさほど珍しくない。であればアメリカで育った彼女にとっては、日本こそが異国の地。まだ数ヵ月しかたっていないというのに、ここまで順応できるのもすごいことなのかもしれない。そんなことを口にすると、
「そうでもないわよ。向こうでは小学校まで日本人学校に通っていたから。家でももちろん日本語だったし、こっちに来てから特に不便を感じたことはないわ」
いつの間にか学校が建つ丘のからの下り坂が終わり、少し先に夕暮れどきのお客さんで賑わう商店街が見える。下岡商店街と書かれたアーケードをくぐると、このご時世に珍しいほど人の姿に溢れる商店が立ち並んでいる。コロッケやメンチなどをあげる精肉店。威勢のいい声を道行く人にあびせる八百屋や鮮魚店。どの年代を狙っているのかよくわからない洋服を店頭に並べる自称セレクトショップなど。
僕はこの街の雰囲気が嫌いではない。一時期に比べるとここで何かを買う機会も減ったが、歩いているだけで、楽しい気分になれる。
才崎さんが転入してきて間もない頃、はじめて一緒に帰ったときに、朝と夕方の活気の差に驚いていた彼女を思いだし、少し笑みがこぼれた。
「龍、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
そういえば、彼女が僕を龍と名前で呼ぶようになったのはそのときが最初だったような気がする。
自分ではそうは思わないけど、周りからも破天荒な才崎さんと、落ち着いてる皐月くんは絶妙に波長が合ってると言われたことがある。
なるほどそうなのかもしれないが、僕は才崎さんが破天荒ではあるけれど、落ち着いていないとは思ってない。
お惣菜の匂いにつられてあっちへふらふら、こっちへふらふらしてる才崎さんだが、彼女自身語っていたように、その行動は一貫していて、明確な意図に基づいている。
すなわち、未知の解明。
帰国子女である彼女には日本という場所を知識では知っていても、実際に来て住んでみると新しい発見の連続なのだろう。
「あんまりちゃんと見たことなかったけど、こういう露店みたいなところで売られてるのに、ずいぶんと形が揃ってるわね。それに傷がほとんどない」
青果店の前で立ち止まった才崎さんが、店先に並べられたりんごを手にとって眺めていた。すると、店番らしいやけに気前の良さそうなおじさんが自慢げに胸をそらした。
「そりゃ嬢ちゃん、きれいじゃないと売れないからね。その点うちはいいものだけを仕入れてるよ。もちろん味もお墨付きだ」
にこにこしながらお皿に並べられた兎をかたどったりんごを差し出すおじさん。どうやら試食させてくれるらしい。
つまようじを刺されたうさぎたちをちらと見た才崎さんは一つを手にとると、口にはこんだ。
「……おいしい」
「そうだろうそうだろう」
商品を誉められたのがよほど嬉しかったのかとても満足げだ。
「けど、なんでうさぎなのかしら?」
問われた青果店のおじさんは笑顔のまま固まった。
「ええと……それはだな」
困り顔のおじさんに僕は助け船を出した。
「たしか……天皇陛下を喜ばせるため、じゃなかったかな」
「天皇を?」
「うん、諸説あったと思うけど。明治天皇のときに女中さんが飾り切りしたのが始まりだって聞いたことがあるよ」
「なるほど、そういうことね。それでじょ、ちゅう? ってなに?」
「んー、メイド、みたいなものかな」
たしか仕事によっても分類されたような……?
こういうときに知識が足りないと困る。それでも何とか気が済んだようで、おじさんも僕も救われた。めでたしめでたし。
青果店を離れ、たわいもないやり取りをしながら、賑々しい通りを抜けていく。商店街を過ぎたところからは住宅街を挟んで、駅などが集まる街の中心部になる。そちらの方には商業施設や大きな病院があるが、住宅街の周辺にはスーパーや診療所などもない。この商店街がそれなりに繁盛しているのは、駅に行くよりも近くて、歩いてこられる距離にあることに起因している気がする。
住宅街に入りいくつかの角を曲がったところで才崎さんがある家を指さした。
「あそこがおじいちゃんの家。で向かいにあるのがあたしの家」
彼女は自分の家の前まで来ると、
「パパとママはまだ仕事だから。気兼ねなく入って」
「え……?」
「だからおじいちゃんのことで話があるから家に入ってって言ってるの。立ち話できるようなことじゃないでしょ」
ま、まあそうなんだけど……。才崎さんとは仲良く(?)してもらっているけど、家にあがったことはない。それにいくら話があるとはいえ、女の子の家にお邪魔するのは勇気がいる。それともアメリカだと普通のことなのだろうか。
戸惑っていると苛立ちを隠そうともしない才崎さんがローファーで地面をこつこつと鳴らしている。
ええい、虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。
僕は自分が何かを得ようとしているわけではないことも忘れ、皐月龍史上初の女の子宅へ上がり込んだ。
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