翁の消失
翁の消失①
東京にはいったいどれほどの数の学校があるのか。どれほどの生徒が通い、どれほどの会話が交わされ、どれほどの交遊が結ばれているのか。
学校に友人が多い者も、少ない者もいるだろう。スポーツが得意な者もいれば、勉強が得意な者、音楽が得意な者もいるかもしれない。
多様な性格と趣味嗜好とバックグラウンドとその他諸々よって形成される個人は、この世に二人と存在しない。
しかし、妙なことに学校というところでは皆同じ時間に、同じ場所で、同じ教師から、同じ内容の教育を受ける。
同じであることは必ずしも悪いことではないが、こんなに狭苦しい空間に異なる人々を押し込めていて、問題が起きないはずがない。
ましてやそこにいるのが、異文化のなかで育ってきた外国人であれば、間違いなく齟齬が発生する。
いや、まあ僕のとなりの席で教師と論争を繰り広げているのは外国人ではなく、れっきとした日本人なのだけど。
「先生、それはあたしへの挑戦だと受け取ってもいいのね! 本場の英語に囲まれて育ったあ・た・し・へ・の!」
「あのね、才崎さん。ここは日本で、大学受験のためにはこれを覚えなればいけないの。いま覚えなかったら後々苦労するのは才崎さんなのよ? あと一応先生には敬語を使いましょうね」
周りの生徒を置いてけぼりで白熱した議論を教師にふっかけるのは、才崎英梨。一ヶ月前の四月にうちの高校に転入してきた。ただの転入生ではないというのはお察しの通り。彼女はアメリカからの帰国子女。
英語云々は僕にはわからないが、アメリカというところは教師であっても自分の主張ははっきりさせないと収まらない国民性らしい。
ただ彼女が癇癪もちで短気である可能性も捨てきれないけれど。
ともあれ授業が遅れることを嫌った先生が才崎を無視して黒板に向き直ったので、彼女も渋々席に座っている。
ここ一ヶ月で彼女がただの癇癪もちでないことは重々承知している。
隣の席で突っ伏してぶつぶつと呪詛を呟くように愚痴をたれる彼女は、納得がいかないこと、分からないことを解明することに関して異常とも言える貪欲さを見せる。
勉強は言わずもがなだが、日常における些細なことでも気になったことは徹底的に調べあげる。
ずっとアメリカで育ってきたということもあってか、日本においての常識、伝統、慣例、その他生活習慣など様々なことを知りたがる。
いわゆる好奇心の塊というやつだ。
そんな才崎英梨の本性をなぜ僕が知ってるかって?
そんなの決まっている。才崎の席が窓際一番後ろであり、その隣が僕だからだ。
必然、彼女は僕にあれこれと話を振ってきては、さながら尋問のように答えさせる。しかも僕が答えらることなんてたかが知れていると分かったあかつきには、その調べものに僕まで付き合わされるようになった。
「あんたが知らないんだからしょうがないじゃない」とは彼女の言だが、いささか理不尽すぎやしないだろうか。
どこからかサイレンが聞こえてくる窓の外をぼうっと眺めている彼女は、ハーフではないのにどこか異国の少女然としている。
亜麻色がかったショートボブの前髪が、気の強そうな目元にかかっている。それを払う仕草からは毅然とした美しさが感じられた。
立ち振舞いや雰囲気といったものは育った文化圏に左右されるのだろうと検討はつくけれど、隣に座る女の子が、今まで自分とは全く違う生活を送ってきたことを思うと、不思議な感覚におそわれる。
ふと、彼女が僕の方を振り返り、思い出したように指を顎に当てて首をかしげる。
「そういえば昨日、妙なことがあったのよね……」
「へえ……」
いきなり何を言い出すのだろう。
彼女が言い出すのだから何か引っ掛かることがあることは間違いなさそうだけど。
また面倒くさいことになりそうだなと思いつつ返事をしたのがお気に召さなかったらしい。
「ちょっと! 真面目に聞いてる?」
「聞いてるよ。妙なことがあったんでしょ。それで?」
「まったく、龍はその何事にも無関心みたいな態度、改めた方がいいわよ。そんなことだといつか大事なことを見逃すんだから」
大事なこと。才崎さんが何気なく口にしたその言葉が何を指すのか、僕にはわからない。
英語の文法を説明する先生の方など見向きもしない彼女があまりにもまっすぐ見つめてくるので、僕は目を逸らした。
「才崎さんに言われなくてもわかってるよ。才崎さんも先生が気にくわないからって話を聞いてないと、受験に必要なことを聞きそびれちゃうよ」
「受験なんて人生の通過点よ。そんなことにこだわって自分の知りたいことを逃したら、それこそバカみたい」
最初の方だけなら教師が言いそうなことではあるが、後半こそが彼女を象徴している。人生の通過点だからこそ、大事である。はたまた人生の通過点だからこそ、やりたいことを優先する。どちらも正しい。ただ、彼女は正論を吐きたいわけではないことは、僕にもわかる。
彼女の言動はもっと奥深く、ひとの行動原理からくるもののように思えてならない。だからこそ信用するに足るのだけれど。
「で?」
「で、って?」
「だから、妙なことだよ。何があったの?」
「ああ……」
才崎さんは整った顔をしかめて、解けない数学の問題にあたったときのような唸り声をあげる。
「お向かいにすんでいるおじいちゃんがね、いなくなっちゃったのよ」
今回の疑問はちょっと深刻そうだった。
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