皐月龍の日常

ichi

前日譚

前日譚

 皐月龍は何事もにも無関心である、と思われている。たしかに僕は部活にも入っていなければ、特筆すべき趣味があるわけでもない。高校に入学して最初の一年は可もなく不可もない、普通の学校生活を送った。友人をして「お前ほど平坦な道を歩いているとやつもいない」と言わしめたほど、普通だ。けれど何事にも無関心なわけではない。関心することを見つけるのが苦手なだけだ。はまるのにある程度の時間が必要なだけ。一気に飛び込むなど愚の骨頂。時間をかけてその人やものに近づいていく。そのために高校生活というのはあまりにも短い。

 今日もちらほらとマスクをする生徒たちに混じりながらぼんやりとそんなことを考え登校したのだが、昨日から二年生になったというのに、まったく実感がない。どうせ今年も同じような生活サイクルを繰り返していくのだろうと、そう思っていた。

 だからそんな僕に昨年から噂されていたような美人の転入生が話しかけてくるわけがないのだ。けれど、現に隣に座るアメリカ帰りの女の子、才崎英梨は、しっかりとこちらを向いて僕の目を見ていた。

「皐月くん、だっけ? 何を呆けているのよ」

 亜麻色のショートボブに気の強そうな目。整った容姿はそれだけで人を惹き付けるものだけど、彼女のそれは性質がちょっと違うように思える。その瞳には何か獲物を捕らえようとする猛獣のような鋭い光を宿している。

「あ、ああ、うん。これから一年間よろしくね」

 いきなり話しかけられたせいで、しどろもどろになる。しっかりしろ僕。

「うん、よろしくね……って違うわよ!」

 おお、ノリつっこみ。春にしては強い日差しが差し込んでいる教室では、少々暑苦しいけれど。そういえば、アメリカにもノリつっこみという文化(?)はあるのだろうか。

 教室にはそろそろ生徒たちが集まり始めており、各々が二年生最初の授業に備えている。ちなみに才崎さんの席は窓際の一番後ろ。がたがたと強風がゆらす窓を背にこちらに向き直っている。その正面に座る、つまり隣が僕だ。

「何が違うのかな」

 才崎さんの意図するところがわからず、僕は問い返す。才崎さんは怒るを通り越して呆れたような表情で言った。

「あなた、もしかして人の話を聞かない人?」

「いやいや、そんなことはないよ」

「はあ、まあいいわ。あたしが聞きたいのはなんでこの教室はこんなに涼しいのかってことよ」

 教室が涼しい? あっ、本当だ。外は春とは思えないほど朝から暑かったけれど、教室はなかなかどうして、快適な気温だ。けれど……

「それはエアコンがついてるからでしょ」

 問いに対して明確な答え、というか事実を述べる。いや、ちょっと待てよ……。自分で言ったことをもう一度頭のなかで吟味する。

「エアコンは夏まで使用が禁止されてたような……」

「だと思ったわ。日本がいくら裕福な国だとはいってもこんな時期からエアコンを稼働させるようなことはないって思ったもの」 

 才崎さんは自身の疑問をぶつけることに成功したのが嬉しかったのか、少し胸を張る。でもいまエアコンが動いていることと日本の経済事情は関係ないような気もする。とはいえ教室が涼しいことは事実なので、何も言わないでおこう。より面倒になりそうだし。

「誰かが勝手につけたのかしら?」

「それはできないよ。学校のエアコンは職員室で集中管理されてるんだ。どこかの教室だけ勝手につけるなんてことは不可能だよ」

 今年から転入してきた才崎さんは知らなくても仕方がない。このシステムがないと生徒の都合のいいようにエアコンを使えてしまう。学校全体でそんなことになったら電気代はばかにならなくなってしまうだろう。

「でも快適に過ごせるならいいじゃないか。僕らが損を被るわけでもないし」

 むしろ授業開始日ということでだらける生徒も多いなか、しゃきっとできて良いかもしれない。そんなのんきなことを考えていた。才崎さんの声を聞くまでは。


「皐月くんは知りたくないの?」


「え?」

 その妙に興奮を含んだ声が才崎さんから発せられたものだと、最初は気がつかなかった。そして猛獣のごとき光を宿すその目に捉えられたとき、僕は逃げられないことを悟った。それが、平坦で平凡で平和だけどつまらない毎日から踏み出すきっかけになるとも知らずに。




 授業開始まであと10分。才崎さんの疑問を解消すべく、僕は思考を巡らす。なぜエアコンが稼働しているのか。動いているということは教師もそれを容認しているということだ。であれば相応の理由があるはず。夏日だから仕方なく動かした? いやいや、そんなことなら夏までエアコンを禁止したりしない。暑さが理由でないなら……。

「それにしてもこの教室、空気がよどんでない? 涼しいのに、なんか気持ち悪くなりそう」

 才崎さんがうんざりしたように顔をしかめる。その呟きが天啓をもたらした。

「なんだ……そんなことか」

「えっ、なになに。わかったの?」

 思わず漏れでた声を聞きつけた才崎さんが詰め寄ってくる。隣の席なんだからそんなに距離を詰めなくても聞こえるでしょうに。というか今の反応でクラスの何人かがこちらを見てひそひそと話しているので、少し離れていただきたい。

「……うん、わかったよ。これが理由だ」

 僕がクラスを見渡せるように彼女の前からどいてあげる。しかし、才崎さんは未だに疑問符を浮かべたままだ。

「はあ、どういうこと?」

 ちょっと分かりづらかったかな。

「ほら、クラスのみんなもけっこうしてるでしょ、マスク」

 そう、マスクだ。これこそがエアコンの謎を解くための最大の鍵。というと大げさかな。

「マスク、マスク……。みんな風邪ひいてるのかしら」  

 がくっ。まあ、たしかにマスク=風邪というのは基本等式だ。才崎さんが勘違いするのも無理はない。しかし、この時期でマスクをする理由がもうひとつある。

「花粉症だよ」

「花粉症……」

 才崎さんはぴんときていない様子。アメリカには花粉症がないのだろうか。その旨を伝えると、

「ううん、花粉症はあるわ。たしか……ブタクサ? だったかしら。日本語が合ってるかわからないけど」

 なるほど、アメリカではブタクサの花粉症が多いのか。

「あたしはニューヨークの都心に住んでたからそれほど感じたことはないけど。郊外だとけっこう酷いひともいるみたいね」

 ニューヨークの都心。海外に興味があるわけではないけど、その単語はなぜか僕に異世界なような魅力的な響きをもって届く。彼女はそこでどんな生活を送っていたのだろうか。聞いてみたい衝動に駆られたが、僕は先を続けた。

「花粉症の人は多い。いつもなら暑い日でも窓を開けて風を入れられるけど、今日はあいにく風が強い。窓なんか開けられたものじゃないだろうね」

 教師のなかにも花粉症を患っている者は多いだろう。ただでさえ辛いこの時期に、窓をゆらすほどの強風かつ夏日ときたもんだ。窓を開けた日には鼻水とティッシュが舞う地獄絵図。窓を開けなくても暑さでダウンしてしまう。そんな葛藤の末にエアコンを解禁したのだ。

「じゃあ、あたしが感じた空気は……」

「換気をしてないからだろうね。教師か用務員さんが花粉症だったか、花粉症の人を気遣ったのかはわからないけど」

 普段なら日直の生徒が早めに登校して、それらの雑用をするのだが、今日は始業式を昨日終えたばかりの授業開始日。日直の順番も係も何も決まっていない。日直が決まっていて、その生徒が花粉症でなければもしかしたら、今頃大変なことになってたかもしれない。教師か用務員さんなら職員会議の決定事項をすぐに知ることができるだろうから、その心配はなかったというわけだ。

 一通り話終わると才崎さんは感心したようにうんうんと頷いている。

「言われてみればその通りだわ」

 どうやら満足していただけたようだ。残り時間も少ないことだし、僕も授業の準備に取りかかろう。

「ちょっと待って。皐月くんは、この辺りに住んでるの?」

 唐突な問いにいささか驚きながらも、商店街の向こう側にある住宅街に住んでいることを告げる。すると、

「じゃあ、帰りは同じ方向ね! 今日ちょっと付き合ってくれない?」

 これまた突然のお誘いに僕は狼狽えるばかりだ。女の子から一緒に帰ろうと言われるなんて……。

「朝、商店街で気になるものを見つけたのよ!」

 そんなことだろうと思った。それにしても少しでも気になったら骨の髄まで知り尽くさなければすまないのか、この人は。自分にはない好奇心の塊を内に秘めた、というより好奇心そのものといった女の子のうきうきした顔を見ていると、鏡写しになった自分の無気力さが虚しくなってくる。何かを知ろうとする気持ち。それが沸き起こるのに時間は関係ないのかもしれない。彼女と彼女の興味にわずかばかりの関心を覚えていることに、そのときの僕はまだ気づいていなかった。







 



 

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