第12話
あの日――町が炎に包まれた、アオハの人生で一番長い夜。
火に飲まれたスカイアッド邸の離れ家で、アオハはヨアンを見捨てる選択をした。
炎が恐ろしかった。それに触れずとも灼熱が身を焦がし、肌を赤く爛れさせた。
怪物が恐ろしかった。あの真っ黒な異形たちは、炎をものとせずに乗り越えてきて、家を、人を、町を何の痛みも感じずに踏みにじっていった。
これは、いつかの記憶。忘れ得ぬ惨劇の記録。
まだ九歳だったアオハ・スカイアッドは、異産の暴走によって焼け落ちていく学院主都を逃げ惑った。ただ一人、自分が生き延びるために、親を、家族を、町を、全てを棄てた。
炎の海原に蠢く、異形の怪物の軍勢。
――化け物たちには構うな、敵いっこない。無駄死にになるぞ!
――あの異産から化け物が生まれてきたんだ!
――異産は、小さな子どもそっくりの姿をしているらしいぞ。
――子どもに擬態して自らを守ろうとする、異産の自己防衛機能だ。
――子どもを一人残らず捕らえよう。少し痛めつけてやれば、奴も必ず正体を現す。
――大人さえ生きていれば、町はまた再建できる。
――とにかく異産を見つけ出してぶっ壊すんだ!
聞こえてくる怒号。あるいは阿鼻叫喚の声。
茫然と、魂を奪われたかのように町をさまよう。両親から贈られたフクロウ人形を抱いて、両親の行方を求めて。残された唯一の家族がこの人形だけになってしまったら、自分が生き長らえる最後の理由すらなくなってしまうのだから。
裸足のままで、足の裏が麻痺したように焼けた。だが、どれほど己を痛めつけたところで、ヨアンの断末魔の叫びは鼓膜から消えてはくれなかった。
そこからの記憶は、アオハにとってもはっきりとしないものだった。
大きな怪我をしたことだけは覚えている。あまりの痛みに苛まれ、この痛苦を永久に忘れたいと願ったあの瞬間も、まだ胸の奥に刻まれていた。
数日後にベッドで目が覚めると、体中が包帯でグルグル巻きにされていた。
星教会の人間だという大人たちが訪ねてきて、自分の両親があの炎に飲まれて死んだことを知らされた。自分の左眼がもう元通りにならないことを知らされた。
残された最後の家族が、焼け焦げて薄汚れたフクロウ人形だけになった。
そう言えば、最初はただの動かぬ鉄の人形だったロボが、初めてレリクスの力を取り戻したのはいつ頃からだったろうか――
――何故そのようなことをふと考えてしまったのか、〝私〟にはわからなかった。
さっき目蓋に浮かんだあの光景も、果たして何だったのか思い出せなかった。
起き抜けの私が、思いもよらぬ場所にいることだけは理解した。
土で汚れた手をはらい、柔らかな腿の感触にハッとする。どうしてなのか、自分に触れるのが久方ぶりに思えたのだ。
ゆっくりと立ち上がった私は、次第に慣れてきた目で意外なものを見る羽目になる。
私を取り巻く舞台は、月下に暗く沈み、そして赤く燃え盛る炎に包まれた町だった。
目の前にそびえ立つ巨塔の前に一人の男が佇み、何故か私を睨み付けている。
「――――何者だ。どうやってここに現れたのだ、
まだ若い男の声だ。
ただ若いというのはあくまで自分の観点からのもので、解釈は不適切なのかもしれない。長い白髪に、同じ白の外套を纏った壮年の男。見覚えのない人物だ。
「……なんだ、美女の起き抜けに、いきなり不躾な男だな。思慮が足りないぞ、若造」
私は無意識に、そんなことを口走っていた。自分の声がこんなにも低く気だるげな声色だったのが美女としては玉に瑕だ。
でも溢れ出すあくびを抑えることができず、開いた大口を手のひらで隠す。見慣れていたはずの浅黒い肌が不思議と新鮮に映った。
周囲を見渡す。何者かの襲撃を受けた町――いや、村か。ここが何であれ、何故このような場所で目が覚めたのか、まったく検討が付かなかった。
私は、これまでどうしていたのだろうか。そもそも〝私〟とは何だ。
胡散臭げな男に無視を決めこんで、ひとまず落ち着いて頭を整理しなおせる場所でもないかと探す。革張りの柔らかなソファと、ついでに酒でもあれば有り難いところだが――
「黙っていれば見過ごされると思うか。アオハ・スカイアッドをどうした。何故あの男の死体が消えて無くなった。……貴様、一体何者だ?」
わけのわからないことを宣う男がいい加減鬱陶しく感じ、いっそ殺してしまいたい衝動がわき起こってきた。それを大人の理性で鞭打ち、代わりに腕組みして睨み返してやる。
ぬるい夜風が頬を撫でつける。腿まで伸ばした自慢の髪がはらりとなびいて、月光を浴び煌めきを返す。
その美しさに我ながらうっとりとしてしまうと、揺らぐ私の髪の向こう側で、何とも不可思議な姿がこちらを見たまま立ち尽くしているではないか。
「……おやおや、何だい。とても可愛らしいのに、随分と興味深い姿をしているな?」
怒った顔をして私を睨み付けていたのは、
倒錯していた。あんな年頃の顔をして、なのに華奢な上体を戦のための鋼で武装している。そして残りの半身は、昆虫になぞらえた機械仕掛けの疑似身体で補っているのだ。
【――言葉が通じるならば答えなさいです! なんじは何ものですか? アオハ様に何をしたのですか!】
言葉遣いは高貴さを帯びた品のあるものだったが、剣幕はなかなかに乱暴だ。
手には光り輝く騎槍を構え、それをこの私へと突き付けている。どうやら敵だとみなされているらしい。必死の瞳が、応答次第ではこちらを逃さないと主張している。
「さてはて、その〝アオハ様〟というのは何かな、可憐な乙女よ。そんな物騒なものを突き付けるほどのことなのか、このおねーさんにも教えてくれないかな?」
と、それを他愛もない冗談ではなく挑発と受け止められてしまったようだ。途端に顔を真っ赤に熱り立たせ、光の槍をこちらのすぐ鼻の先まで伸ばしてきた。
「……よくできているな、この槍。そなたの意思で力場を自在に伸縮させられるのか」
少々鼻っ柱がひりついてしまうが、この光は強く確かな彼女の意志を感じさせてくれる。おそらくは何らかの術で意志を練り上げた光――つまり実体を持たない、概念的な武器だろうか。
【真面目に答えなさいです! アオハ様が消えてなんじが現れるのを確かに見ました!!】
「そのアオハとやらが誰かは身に覚えがないが、男だな? その男、そなたの何なのだ?」
彼女の顔がさらに赤さを強めてしまった。
いやはや、一触即発の場においてこれは思わぬ反応だ。愉しい。可愛い。ああ、もう抱きしめたい!
【アオハ様はリュミの
「ほほお、つがいと言ったか! 恋する乙女どころか、これはもはや、実に生々しい!」
事情は一切知らぬが、なかなかに愉快な余興だと気分をよくしていれば、要らぬ部外者がまだ私の視界をチラ付いている。とっとと消えてなくなって欲しい。
白い男を見やれば、塔の下方から、狼に似た魔獣が猛然と向かってきているのに気付いた。二つの顎で喉首に喰らい付こうと、この私を恐れず飛びかかってくる。
【――だから邪魔しないでとリュミは警告したでしょう! はあッ――――――!!】
短い呼吸音とともに、光線のごとき騎槍が繰り出される。それは私の肩口をうまくかすめて、跳躍しようとする魔獣の上体を垂直に切り上げた。
魔獣の額に輝く宝珠が、一撃のもとに両断される。あれが何らかの制御装置だったらしい。魔獣は瞬く間にその肉体を崩壊させ、霧となって掻き消えてしまった。
次々に襲い来る魔獣らが、リュミと名乗った乙女騎士の騎槍によって呆気なく倒されていくのを、私は関心をもって観察させてもらった。
「素晴らしい。この私を悪いおじさんから守ってくれるのか、可憐な乙女……リュミよ?」
【われはリュミオラ。なんじだけずるいのです! なんじもお行儀よく名乗りなさい!】
薄々感付いてはいたが、どうやら私の記憶ははっきりしない。記憶域損傷、というやつだ。
「名前……ふむ、私の名前ねえ――」
記憶域に散らばった情報の断片から、何か私自身にかかわるものはないかと探る。
「――そうか、私はウロボロだ。テクネト・アルキナの大魔術師ウロボロ・ギィ・ギラン。かつてはそう呼ばれていたと記憶しているぞ。だが、これ以上ちゃんと思い出すために、できれば大量のアルコール類と可憐な乙女のお酌が欲し――」
少々悪ふざけが過ぎたのか、また私の喉元を狙いリュミオラとやらの槍が伸ばされた。
【――ではウロボロに問います。なんじはアオハ様の敵ですか、それとも味方ですか?】
応答次第では、本気で首を刎ねると言わんばかりの眼光。
【敵でないなら、われの刃を貸しましょう。代わりに、消えたアオハ様を探す手助けをなんじに求めますです】
余程そのアオハとやらに心酔しているらしい。乙女騎士が忠誠を誓った主君なのだろうか。
「ふふ……私はどうやら過去の記憶をなくしているようだ。が、不思議なものだ。私はそなたとは敵同士ではない気がする」
そう感じたのも、あくまで本能的なものだ。さながら姫兵といった彼女への興味がさらに強まり、アオハという男にも会ってみたくなっただけだ。
「いいだろう、このウロボロがアオハとやらを探す手助けをしてやろう!」
と、無粋な笑い声が耳朶を打った。魔獣どもを私にけしかけたあの白い男が、こちらのやり取りを傍観するのを止め、またもや口を挟んできたのだ。
「思慮が足りないと警告したはずだぞ、若造。そこで引き裂いて張り付けにしてやろうか」
「フフ……なるほど。テクネト・アルキナと言ったか! 自らが先史の異産だったとは、何たる滑稽な結末か」
男は恐悦めいた笑みを浮かべ、手を大仰に掲げる。
するとその男を基点に突如として嵐が巻き起こり、次に目を見開けば男は大きな白竜に姿を変えていた。
「これは……なんともはや、竜に変化するとはな。そなたは大道芸人の一族か」
【さて、リリカナクラウンの娘よ。お前は私が必ず従えてやる。それまではそこの魔女のもとでおとなしくしていることだ――】
「なっ――――――――この痴れ者ッ、私を〝魔女〟などと呼びおったな!」
あの男に〝魔女〟と喩えられた途端、得も言われぬ不快感がこの胸を一杯に満した。体温の昂ぶりを覚え、自然と肩に力がこもっていた。
だが、白竜は思わせ振りな言葉を置き去りに、帳の落ちた夜空へと跳び去ってしまった。
【――待ちなさいです、アオハ様の敵ッ!】
それを取り逃がしたリュミオラは、しかし騎槍を上空に向け威嚇するのみで、あくまで深追いはしなかった。利口な子だ。
リュミオラは臨戦態勢を解くと、今度は何故か路地へと走った。
胴体から生やした多脚は、実に精緻な制御によるものだ。鮮やかな足取りで、そこに転がっていた死体に近付く。
【ウロボロ、なんじに問います。このちいさきものは死んでいますか?】
意外やこの乙女、私に対してそんな質問を投げかけてきたのである。
こちらも近寄ってみれば、彼女が覗き込んでいた死体は、人間の少女だった。
【このちいさきものが死んでいなければ、アオハ様の行方の手がかりとなるです】
「ふむ、死か……。死とは、確かに悩ましい問題であった……」
気が遠くなるようなはるか昔、そんな悩みに苛まれたような気もした。
リュミオラと並んで少女の死体を眺めてすぐに、ふとした衝動が沸き起こる。
「ふ………………ふむぅ……これは…………」
突き動かされるように少女のローブを開け、スカートも捲り上げてご開帳していた。
【………………あのぅ、ウロボロ、そこに何か秘密が隠されているのですか? なんじ、鼻息が荒くてリュミちょっぴり怖いのですが……】
「うむ、うむむ……なるほど……これはとても大切な調査なのだ…………この先にこそ乙女の秘密が隠されているのだ」
タイツに覆われた脚を観察してみれば、顔つきのあどけなさよりも幾分、女性としての成熟を感じさせる肉付きだ。もう一歩踏み出す勇気を私に与えてくれる絶景。
そして少女の秘部を包み隠す、仕立ての上等な下着といったら! この意外性はソソる。
と、ここで少女の目がカッと見開かれていたのに気付いた。
「あっ起きた」
乙女の秘密を鑑賞中の私とぶつかる視線。少女が死体などではなく、ただ気を失っていただけなのは、まあ最初からわかりきっていたことだが――
「ひっ――――――――!?」
少女は、悲鳴ですら実に愛らしい声をしていた。いかん、かなり好みの乙女である。
だがそんな乙女を愛でる暇もなく振るわれた細い脚。
顔面でしっかりと受け止めたその容赦なく可憐な一撃にして、〝私〟という視座はもはや維持できなくなり――――
◇ ◆ ◇
どうして意識を取り戻すことができたのだろうかと、アオハは自分でも不思議に思った。
「マル…………」
最初に視界に映ったのは、目を赤く腫らしたマルの泣き顔だった。
暖かで柔らかなものに頭が支えられていた。マルに膝枕され看病を受けていたようだ。
目でマルに応じてから、視線を移す。気が付けばマウリを焼いた炎の勢いが収まっていた。彼女の背後に墓標然と立つ灯台に、この惨劇を引き起こしたラーグナスの姿もない。
「……死んだかと思った」
「ふふ、どうかしら。そんな傷を負ったひとなら、生きていて不思議じゃないと思う」
眼帯の留め金が外れているのに気付く。マルに傷口を見られてしまったようだ。
彼女に残酷な衝撃を与えてしまったのかもしれなかった。何故なら、自分の左眼が存在した部分は深い傷で抉られており、今は眼球すらなくただ塞がっているだけだから。
「……ごめんなさい。アオハお兄さんはいつも眼帯をしていらしたから。わたくし、てっきりあなたが元王族の血筋の方なのかと勘違いして、のぞき見してしまいました。謝罪いたします、本当にごめんなさい」
と、そんな感じで唐突に謝られてしまった。
「いや、気にしないけど。元王族だとか、急に何の話なんだ?」
「この剣王国領はずっと昔、遺跡に身を寄せた十三の小さな王国が寄り集まって治められていました。そして王族の血筋はみな、互い違いの色の瞳をしているのが目印なのです」
マルが伝えてくれたのは、この剣王国の謂われや歴史についてだった。
「かつてこの地を支配した王族たちは、先祖から継承した異産の強い力で、傲慢な統治を働いてきました。そしてそれに怒った配下の騎士たちは、長年にわたって仕えてきた王族を遂に国から追い出してしまった。そうして生まれたのが、今の剣王国領なのです」
「ああ、そう言えば異色虹彩の王子の童話なら僕も読んだことがあったな。あれは史実と繋がりがあったのか。でも、マルも色々と詳しいんだな」
「ええ、わたくしの両親が剣王国の出身ですから。そうして国を追われた王族たちは、自分の出自が知られないように、片目を隠す人が多いと聞きました」
「そうか、だからマルは僕の左眼を調べたのか。はは、残念だけどさすがに人違いだよ。僕は生まれも育ちも学院領だ。両親も随分昔に死んでしまったけど、ただの学者だったし」
「そう……色々と失礼なことばかりごめんなさい。気にしないでくださると助かります」
「いいよ。それより、何があったか教えてくれないか? どうして僕は倒れて――そうだ、リュミオラは!? ロボもどこへいなくなったんだ??」
マルを押し退けて上体を起こす。が、刺すような痛みに、胸を押さえ呻いてしまった。
「いけません! あまり無理をなさると傷口に響きます!」
「ぐっ……そうか、僕は……っ、確か怪我を、したのか」
歯噛みし、そっと胸元の傷口に触れる。服が破け、べったりと血が滲んだ跡が残っている。ただ傷の方は辛うじて塞がってくれているようだった。
――そうか、血を吸う時みたいに、リュミオラが傷口を嘗めてくれたのか。
にしては、何故か頬や鼻っ柱にまで鈍い痛みが残っているのが奇妙ではあるが。
「とにかく落ち着いてくださいアオハお兄さん。ロボなら、そちらに……」
そう促した視線の先で、ロボが仰向けに腹を見せていた。また故障しているようだ。
周囲を見渡せば、こちらを包囲していた巨狼たちは全てレリクス片に戻っていた。
「――ラーグナスは? ここに髪の白い男がいたはずだ。あいつは一体どこへ……」
途絶えた記憶を揺り起こそうとする。
忘れるはずがない。双頭の巨狼を使役し、このマウリに火を放った元凶だと、あのラーグナス枢機卿が自ら宣言したのだから。
「いえ、わたくしもこの場でしばらく気を失っていて。目が覚めた時にここにいたのは、あなたがリュミオラと呼んでいたあの魔神と…………いえ、彼女ひとりだけでした」
「そうか。マルも怪我がなくてよかった。リュミオラはどこにいるか知らないか?」
「あの魔神なら、先ほど村人たちが様子を見に集まってきた時に姿を隠しました。そう遠くへは行っていないと思いますわ」
放たれた火は徐々に消え、それと入れ替わりのように地平が明るみ始めていた。
訪れた夜明けとともに、マウリの惨劇はようやく幕を閉じたかに思えた。
◇ ◆ ◇
「おーい、リュミオラー!」
瓦礫の山と化したマウリ村に朝日が射す。焼け落ちたいくつもの民家を抜け、どこかに身を隠したリュミオラを探して回った。マルも協力してくれたのが有り難かった。
アオハたちがリュミオラを見つけたのは、あの灯台前の広場だった。ほとぼりが冷めたと思い、アオハを探しに戻ってきていたのだ。
「りゅー!」
そのリュミオラが今、広場で大勢の群衆らに取り囲まれている。
疲弊した村人らが上げるのは怒声、罵声。そんな黒くおぞましい感情の坩堝に追いやられ、この中の誰にも負けない巨躯を持つはずの〈白き魔神〉は動揺していた。
「リュミちがう/リュミではなく
言葉がうまく話せない人喰い怪物の釈明など、村人が聞くはずもない。
そこに昨日遭遇したあの見習い騎士たちまで姿を現し、この憎悪の連鎖をさらに煽り立てたのだ。
「オレは見たぞ。そいつが化け物の親玉だ」
「あたし、眼帯の男が言っていたのを聞いたわ。あれは魔神だ、って」
「灯台を壊したのは白髪の魔術師だ! そいつらのせいで村がこんなひどいことに!!」
そう、群衆をさらにけしかけるように声を張り上げ、騎士剣を掲げてみせた。
家を失い死傷者も出したマウリの村人らは、完全にこの狂騒に飲まれていた。
これ以上は危険だ。彼らにとっても、リュミオラにとっても。
場を収めようと、アオハは群衆の輪を押し退け、渦中に割って入った。
「――待って! みなさん、ちょっと待ってくれ。自分は星教会の……」
ただそれだけでこの狂騒を収められると思った自分が浅はかだったのか。
「こいつだ! この眼帯野郎が魔術師と喋ってた! きっと魔術師の手下だ!」
「教会の使徒に化けて村に災いを連れて来た。こいつが村に来てからおかしくなった!」
群衆らの間でみるみる増幅されてゆく負の感情。それが昨夜の炎をものともしないほどの怒号となって、方々からアオハにまで投げ付けられる。
「落ち着いてくれ! 異産審問官である自分はこの者を連れて教会へと向かう途中で――」
「口車に乗せられるなよ! その男は本物の異産使いだぞ!」
もはやアオハの言葉に耳を傾ける者など、ここにはいなかったのだ。
村人らの怒りは収まらず、遂に投石するものが現れた。
投げ付けられた石礫がアオハの額をかすめ、背を打つ。痛む額を押さえると、手のひらに血が滲んだ。
「アオハ! /アオハの敵!」
その様を見れば、リュミオラもされるがままののはずがない。畳んだ翅を広げ、巨躯を威嚇に振るわせて、
「――――〈
そして激情に駆られた彼女が、遂にあの光の騎槍を抜き放った。
「やめろ……それは絶対に駄目だリュミオラ――!」
それでもアオハは争うなと制止する。
ここで村人に手を出してしまっては、本当に取り返しが付かなくなるから。彼女が真に危険な異産だと、もう言い逃れができなくなるから。
今は彼らの怒りに耐えるしか、選択肢がないのだと。
だが群衆には、そんなアオハたちがただの主従関係にしか見えなかったのだろう。
そうして群衆は、さらなる狂騒に心を蝕まれていくのだ。
「りゅう…………/いたい/いたいよアオハ……」
石に打たれたリュミオラの頬が、肩が、手の甲が銀に硬化する。人知を超えた術で凌がれた傷や痛みと引き換えに、人間たちの恐れはより高潮へと達していく。
耳朶を埋め尽くすおびただしいまでの狂気。拳を一斉に振り上げる黒く巨大な怪物たちの群れが、一つきりのこの目を埋め尽くしていく。
遂には剣や槍を掲げる者まで現れ、こちらに迫ってくる。
もはやこれまでか。
なのに星は今も巡り続けるのだ。この狂騒のさなかに現れた、流星のごとき一筋の光。
「――静まりなさい!! 怒りに拳を振り上げる者は、その拳を静かに収めなさい!」
凛としたその声が、村人たちを蝕んでいた狂騒を、ただ一撃のもとに立ち切った。衆愚のどよめきを堂々とした所作で切り開き、一人の少女がこの輪の中へと現れたのだ。
「これは星教会が審議すべき案件です、わたくしがこの場を引き受けます」
割って入ってきた少女とは、マルだ。
膝折るアオハたちの前へと歩み出たマルが、唖然とする村人たちを振り返った。
そして被っていたフードを脱いで見せる。赤毛の少女のどこか大人びた眼差しが、何故か気圧された村人たち一人一人を見据えていく。
「お、おい、嬢ちゃんは関係ねえだろ……そいつらあぶねえから、下がってくれよ……」
けれどもマルが怯むことはない。
襟元に手を入れ、二つのペンダントを取り出した。アオハが贈った懐中時計と、そしてもう一つは赤銅色の錠前と鍵が対になったものだ。
マルは錠前を掲げて鍵を挿し、皆が固唾を呑んで見守る中でその錠を解いて見せた。
錠前が魔法の奇跡を引き起こした。あの錠前自体がレリクスだったのだ。
起動したレリクスがマルの姿を変えた。結われた赤い癖毛が解け、長く伸びたその毛先まで全てが漆黒に染まってゆく。
遅れてもう一つの変化が彼女を彩る。レリクスの輝きが、彼女の大粒の瞳を茶色から碧に変えたのだ。それも変化が起きたのは、何故なのかその片方――右眼だけだ。
姿を変えたマルが風になびく濡れ烏かの髪を払い、絶句する群衆らを前に姿勢を正した。
「わたくしはマルリアン・シュナイドラ。今は亡きシュナイドラ王家の血筋の者です。今はこの剣王国領を去った身とはいえ、かつてこの地であなた方の剣とともにありました」
マル――否、マルリアンと名乗ったこの少女の一挙一動が、場を支配する力を持った。
――色違いの瞳!? 王族の証だと言っていたのは、マル自身のことでもあったのか。
その長い黒髪も、レリクスの力で変えたのではない、本来がそうなのだと、彼女の立ち居振る舞いがありありと訴えてかけてくる。
それまで惚けていたようだった村人たちが、途端にどよめきの声を上げた。
「今さらあんたみてえのが現れて、なぁに企んでんだ! 国をおん出された理由まで忘れちまったのか!」
「……嬢ちゃん。村のために頑張ってくれたあんたにゃ悪いことは言わん。だが今は騎士の時代じゃ、大人しく後ろに下がっててくれ」
しかしマルリアンは彼らに被りを振り、意志の宿った眼を再び向ける。
「誤解しないで、わたくしは王家の復興のため名乗り出たわけではありません。此度は、深く傷つけられたたあなた方の名誉と尊厳を取り戻すため、わたくしはここに立ちました」
そして彼女は、懐から一本の短剣を抜き、それをなんとアオハに突き付けたのである。
それこそは異産殺しの刃であり、そして自らの身をもって民を守る宣言となった。
「この剣はレリクスブレイカー。異産審問官の証です。異端の力を裁くこの剣は、騎士に代わって異産を討ち滅ぼすためのもの。わたくしがシュナイドラ家の名と証しのもとに、ここに異産審問の務めを代行いたします」
動揺を隠せない群衆を背に、再びマルリアンが対峙したのはアオハだ。
思いがけず知らされた彼女の出自にも行動にも茫然とさせられたアオハは、ただ唇を戦慄かせるしかない。
「異産審問官、アオハ・スカイアッド。あなたに使命を果たす機会を一度だけ与えます」
マルリアンはそう言うと、レリクスブレイカーを鞘に戻し、それをアオハに差し出した。
「あなたの正義を証明するために、あなた自らこれでそこの魔神を葬りなさい」
自分の半身とすら思えたレリクスブレイカーを、何故か受け取れなかった。迷うどころか、手を上げることすら。
所在を失いかけた片目がようやく彼女を捉えるも、茶と碧の瞳は何ら迷うことなく自分を射抜いている。
「
わずかな迷いもなく、静かだが強い言葉がアオハを迷わせ追い詰めていく。
最初は演技かと思った。けれども彼女の言葉は澱みない意志を宿し、表情はゆるぎなく、全てがマルリアン・シュナイドラなる人物の本心に違いなかった。
彼女は剣王国の民衆に見捨てられた身でありながら、ずっとローブの内に隠してきた王族の姿を勇気をもって明かし、民衆のために命を賭してこの場に立ったのだ。
――そうか。僕は、マルの敵なのか。
そう思えた途端、己の内に潜む人間としての暗闇が、いとも簡単に残酷性を露わにする。
もし差し出されたレリクスブレイカーを悪意の刃として振るえば。マルを人質にとれば。
いや、間違いだ。生き延びるための最悪を選択して、その果てにある未来は、何だ。
自問自答するまでもない。誰かの笑顔を失わせるために、この心臓が鼓動を打っているのではないと誓ったのはいつだ。
周囲の全てから追い詰められたアオハは、かつての自分を思い起こす。
異形の怪物に目の前で家族を殺され、自分も死にかけた。あの惨劇を生み出した原因こそが異産の力であり、それを扱う人の悪意でもあった。
悪意はやがて狂騒を呼び起こす。幼かった自分自身ですら、あの狂騒に飲まれた罪人の一人だったかもしれなかったのだ。
もう絶対に繰り返すものか。左眼と引き換えに繋がった命は、その誓いを果たすために残されたものだと信じてさえいた。
異産審問官となり、これまでの人生を弱き者たちのために捧げてきた。それがこれまでのアオハ・スカイアッドだった。
――僕は…………アオハ・スカイアッドとは、何だ。
マルリアンが差し出した選択の刃を前に葛藤し、その果てに決意の眼差しを向ける。
「……僕は今まで何も気付けていなかったんだな。まさか君にこんな大切なことを気付かせてもらうなんて。でも、ありがとう」
突然柔らかな笑顔を浮かべたアオハに、マルリアンの方は怪訝そうな表情を返した。
「気付く? 何を仰りたいのですか……ですからこれはあなたのもので……」
早く受け取れとレリクスブレイカーを突き付けられるも、今度は迷いなく拒んだ。
「ようやく思い出したんだ。まだ小さいころ、僕は異産によって家を焼かれ、大切な家族を失った。あんな悲しい光景なんて二度と見たくないって思って、僕はここまで来たんだ」
意志を伝えるべく、リュミオラを見つめる。
「りゅ……/……アオハ…………?」
マルとの衝突に諦念めいた視線を送っていたこの〈白き魔神〉は、ようやく生気を取り戻したアオハの顔に、思いがけず目を丸く見開いた。
「僕は異産審問官である前に、僕というただの人間だ。僕は過ちを犯し、この
そうしてリュミオラの視線を受け止める。
互いに交わす言葉はない。ただ、彼女が生まれたばかりのあの時とは違い、どこか己の行く末を悟っているかのような瞳が、導きを請うようにアオハを求める。
人智を越えた怪物でありながら、少女の似姿をした器に心を押し込められた、この世界で誰にも理解されない存在。
人は自分の手に余る力なんか手にすべきじゃない。何故なら、その力が自分の大切なひとまで奪う結果になってからでは、もう取り返しがつかないからだ。
こんなにも恐ろしく、おぞましく、そして美しくも不完全な異産を、だからこそ自分がこの手で繋ぎ止める必要があった。
自分にはその力がある。そして異産である彼女を、自身が異産である現実から救ってやりたいと強く願ってしまった。
それに気付けたのが、こんな炎と怨嗟とがせめぎ合うさなかだったとは。
炎が強く燃え上がるならば、それを阻もう。闇に飲まれゆく者たちに立ち向かおう。
「だから僕は償いに、この子の行く末とともに在り続けようと思う。そのためにこの命を、人生の全てを捧げる」
アオハ・スカイアッドは立ちはだかる。
背を真っ直ぐに、足を大地に突き立てて、両手を大きく広げて。
〈白き魔神〉リュミオラを背に庇い、全ての人間たちの前に立ち塞がる。
「僕は誰にも彼女を傷つけさせない、彼女にも誰も傷つけさせない。今この僕にできる、一番悲しくない選択がこれなんだ。……言うとおりにしてやれなくてごめんな、マル」
はにかんだつもりが、最後には何だかみっともない顔をしていたのだと思う。それでも黒髪のマルの仰天した顔がなんだか可愛らしかったから、こんなにも勇気を奮ってよかったと胸空く気持ちになれた。
「このっ……アオハは大馬鹿だっ!」
冗談みたいに顔を茹らせたマルが、胸ぐらを掴む勢いで向かってきた。ただ両者の対峙も、先ほどまでの緊迫は不思議と解け、痴話喧嘩のごとき様相になった。
アオハが本心から見せた真っ直ぐな姿に、逆にマルリアンこそが怯んでしまっていた。
「それで、アオハにはその先に何がありますか? これからどうするつもりなのかちゃんとわたくしに教えなさい! ほら、はやくなさいっ!」
腰に手を当て、さながら小言を言う母親のように指でさしてくる。
「僕には他にやるべきことができた。君も今日までに奇妙な光景をいくつも見てきたはずだ。リュミオラのことじゃない、もっと謎が深い何かだ」
「奇妙とか謎とか何ですか! ……あっ、ひょっとして、あの竜……」
ようやく冷静に戻り、目下横たわる問題について察してくれたようだ。
彼女らのやり取りを静観していた村人たちの間にも、狼にやられた、確かに竜を見たと、知り得た事実を口にする者たちが現れた。
「魔神の脅威は去った。だが、もっと恐ろしい異産に繋がる、より大きな異変がこのハンマフォートで蠢いている。それから人々を守ることこそが、いま僕が果たすべき役割だ」
優しく諭すように伝えてやる。これまで無理に気を張っていたのか、途端に解けた緊張から、マルの目じりにかすかな涙まで浮かんでいた。
「僕は、知り得た全てを星教会に報告したい。だからこれからリュミオラと一緒に行くよ」
これが今、アオハ・スカイアッドが答えられる全てだった。
この場に集まる人間たちは皆、いつの間にか振り上げた拳を降ろしていた。
勢いを削がれ、ざわつくしかない群衆ら。そんな彼らに注目を促すかのように、馬の甲高い嘶きが届けられた。
鹿毛の馬にまたがって現れたのは、この場に不在だったらしい少女騎士ジオッタだ。
「まあ、ジオ! よかったわ、馬を借りられたのですね!」
途端にマルはいつもの明るい表情に戻って、彼女の元へと駆け寄っていく。
先ほどまでの剣幕はどこへやら、アオハを振り返ると、こう説明してくれた。
「これからジオに、近隣の町まで馬を走らせていただくのです。このままでは負傷者の治療もままなりませんし、早急に救援を呼びませんと――」
ジオッタが馬を駆け足で降りると、マルを前に跪き、うやうやしく頭を垂れ進言した。
「我が君主よ、このジオッタめにお申し付けください。行け、と」
「なっ――急に何ですかジオ! せっかくお友だちになれたのに、そういうのはやめて!」
「我が騎士の魂を御身の剣に」
さすがにこれは思わぬ展開だったらしい。身を明かした途端に豹変したジオッタに、唖然と頭を抱えてしまうマルリアンである。
「なっ、何しとんのじゃジオっぺ! 今さらしゃしゃり出てきおった王族の娘っこに、なしてそないにかしずきおるか!」
ジオッタの振る舞いに困惑したのは、村人たちも同様だ。顔見知りらしき老人が非難めいた言葉を口にすると、あの田舎娘が鋭い眼光で睨み返して言った。
「無礼であるぞご老人。私は騎士だ。騎士として殉ずるべき我が正義、何ものにも非難される謂われはない」
「じゃが、狼に竜に魔神ときて、こんどはそんな昔の王族の残党まで現れおっては、わしらもうわけがわからんぞ!」
このマウリで扱うべき許容を超えた事件だと、ただひたすら苦悩を訴えるしかなかった。
「何を悩むことがある。騎士とは人に従うのではない、正義に従うだけ。そしてここに正義が示された。ジオッタ・エーベルトンはマルリアン・シュナイドラの剣となる」
少女騎士の言葉にマルリアンは逡巡したのち、
「わかりました、ジオ。では、皆さんもこうしましょう。わたくしはこのアオハと魔神を連れ、すぐ村を発ちます。わたくしがシュナイドラの名にかけて、この者たちを教会まで連行しましょう。異存はありませんね?」
「ちょっ、おい、何を勝手に決めてるんだマル! 僕たちに付いてくるだなんて――」
「わたくしが付いてくるのではありません、あなたがたがわたくしに連行されるだけのこと。黙って大人しく従いなさい」
こちらとしても迷惑だった。枢機卿の反逆も含め、ただでさえただならぬ事態だ。なのに、マルのように特殊な人間が関われば、星教会まで無事に辿り着けるかも不透明になる。
「駄目だ、君は村に残るんだ。ほら、ジオッタだって待ってる」
「いいえ、ジオはこのまま隣町まで馬を走らせて。救援の手と騎士団を呼んできて。あなたとの再会はまたいつの日か」
「はっ、御身の仰せのままに」
「ジオ、どうかご武運を……」
二人は抱擁し、額を押し付け合った後、頬への口づけを交わす。
「……えへへ、マルもナ? あいつらにやらしいことされたら絶対に責任取らせるんだゾ」
舌をぺろりと覗かせ、いつものジオッタの顔を見せる。
「や、やらしいって! こら、もう!!」
頬を紅潮させたマルをぎゅっと抱きすくめると、ジオッタは馬上の人に戻った。
納得がいかないアオハだったが、マルはそんなのお構いなしに行動に移すつもりらしい。
「アオハ、あなたに反論はさせてあげません」
「しかし……」
「彼女を封滅できないのなら、これが残された唯一の解決の道なのです」
結果として彼女が村を狂騒から救ったのは事実だった。厄介者が立ち去ってくれるのなら止めはしないと、村人たちも既に同調している。
明るみ始めた空を仰げば、ロボが悠々と旋回飛行していた。
――確かに、マルの言うとおりだ。僕にはもう選ぶ権限はなさそうだ。
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