第10話

 天井の陽が沈み、この階層にも藍染めの帳が落ちた。

 闇に包まれた天井には、代わりに上月と銀月――先史の神話に纏わる二つの月と星屑の絵図が描かれ、遠景にぼやける遺跡外縁部が唯一、ほのかな人工光をこの森へと送りつけている。

 当初は沢べりで一夜を明かすつもりだったが、アオハの判断でそれは中止となった。

 夕食を済ませた後に橋から街道に出た彼ら一行は、闇夜に紛れてある方角を目指した。

 街道は轍が酷い凸凹道だったが、それでもアオハたちにとっては希望の道だった。


「――まさか、こんな場所に灯台があるとは思いもよらなかったな」


 最初にそれに気付いたのはリュミオラだった。夕暮れの茜色に混じって巡回する光の筋を、あれは何かと指差したのだ。

 〈大断絶〉以前、人は遺跡の外の世界で暮らしていたという。そしてそこでは広大な海が陸地を分かち、人はその海を超える道標に灯台を建てた。


「僕も旧い書物で見かけたことがある程度だが、この暗闇で旅人を導くために灯台を築いたというのなら、たとえ陸地であっても合理的だ」


 夜行性の性質を受け継ぐロボは、大きな瞳を爛々とさせている。かたや――


「リュミ、眠いのはわかるがもう少しだけ頑張ってくれ。これはお前のためでもあるんだ」


 上と下の瞼がくっつきそうな顔つきで、ふらふらとアオハたちの後ろを付いてきていた。

 危なげな足取りで、一人と一体と一羽が、一縷の光明を目指す。

 灯台と思しき塔を擁する場所――名も知らぬ集落へと辿り着けたのは、それから半刻後のことだった。


 ここから先は、人間であるアオハ一人で道を切り開かねばならなかった。リュミオラたちを森に待機させ、アオハが単身で集落に向かった。

 外壁に囲われたこの集落は、既に生活の灯りが落ちた後だった。月の位置から測って、夜明けもそう遠くはないだろう。

 正門と思しき馬蹄型アーチを塞ぐ分厚い扉。おそらく閂などとうに落とされているだろう。門前に焚かれたかがり火の下には、槍を担いだ番兵が五人も、どっかと腰を落としていた。

 学院領の主都に比べれば、ここは村と呼んで差し支えなさそうな規模だったが、出入口に五人も人員を割り当てるなど、不自然に守りが固いのが気がかりだ。

 アオハが堂々とした足取りで近付くと、軽く呻き声を挙げて番兵の一人が飛び起きた。


「――お、驚かすない! なんじゃいおめえは? 暗がりから急に出てきて怖ええだろが!」


「明かりもなしに、なんで夜道をうろついてやがんでい?」


 番兵たちから次々に槍が突き付けられ、そこでアオハは歩を止めた。


「なんじゃ、おめえ、やたら厳つい面構えしおって。賊か? ほれ、はよぉそこさ伏せろ」


「わしぃらのマウリは貧しいんじゃ、おめえらが欲しがるような金目のもんはねえぞ。長カブかマウリ芋くらいしか生えとらせんわ!」


 相手を刺激しないようにと両手を上げれば、途端に付け上がったことを言い始めた。


「ああ、ちょっと待ってくれ。念のため言っておくが、自分の人相が悪いのはたまたまであって、盗賊でも山賊でもない。このとおり、武器も一切持っていない」


 アオハ自身も毎度うんざりさせられるやり取りだが、この眼帯を見ただけで賊などと警戒されては、慎重に応じないと最悪命にかかわる。


「だったらなにもんだってんだ、あんた?」


「星々の巡るままに。旅の星教会の者で、名をアオハという。夜分に申し訳ないが、食料と旅の備えを分けてもらえないだろうか。金なら追って教会から支払わせるようにする」


 嘘偽りない己の素性を明かした。聖職者より騎士の方が影響力を持つ剣王国領では、星教会の威光も届かないのはわかりきっていたが、賊と怪しまれるよりはましだ。

 番兵たちが互いに顔を見合わせる。が、何か話し合うでもなく、明け透けにこう言った。


「はあ、星教会? ここは騎士の国だぞ。わざわざの使徒さんが、こんな辺境地まで何しに来なすった?」


 男の一人がアオハを〝上〟と表現した。アオハが属する教会領――つまりイスルカンデ星教会の本部が、このハンマフォートの地底第一階層を治めていることを疎んでの言葉だ。


「それにしては、あなた方は騎士ではないように見えるが……」


 見れば、矢じりを棒に括り付けただけの簡易的な槍に、なめし革の胸当て程度というありあわせの装備だ。彼ら五人はどう見ても騎士という風体ではなく、武装したただの農民としか思えない。


「ああ、それがな、わしらぁいま取り込み中なんよ。まあ悪党でないんなら、この壁んなかくらいなら入れてやってもええが。まだ色々と物騒だしよ……」


「どのみち店は閉まっちまってるよ。何か欲しけりゃ、お天道様が昇るまで待ってな」


 とは言われても、アオハとしては暖かい寝床を求めてここを訪れたわけではない。旅の備えを何とか調達して、森で待つリュミオラたちの元へ戻る必要があったのだから。


「そこを何とか頼めないだろうか。自分は一刻も早く学院領まで戻らねばならないんだ。だが森で迷って旅の備えも失ってしまった。とにかく、このままでは昇降機まで辿り着く前にのたれ死んでしまう……」


 訝しげな顔つきを向けてくる門番たち。ただ、こちらを怪しんでいるわけではないらしい。相手が危険でないとわかった途端、自分たちの事情を口々にまくし立て始めた。


「残念ですがね使徒先生、今このマウリ村はそれどころじゃないんですよ」


「そうでえ。ほんと、トンでもねえ化けもんが村のすぐそばに現れたっつうからよ!」


「兄ちゃんもよく道中でそいつに襲われなかったなあ。昨日もだべ? 村の若っけえおなごが、沢の橋んとこで食い殺されちまった。こおんなでっけえ怪物だべさ!」


「はす向かいのジオっぺも災難だったなや……早くに親御さんなくしたってのに、かの英雄騎士シュグルムガルドみてえに、でっかくて勇敢な娘っこに育ったってのによ……」


 果たして何の話やらといった雰囲気だが、とにかく背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。リュミオラのことを言っているのは間違いない。


「へ、へえ、食い殺されたのか……その、怪物とやらに……」


 しかも噂に尾ひれが付き、リュミオラが人を殺めたことになっていたようだ。


「そう、か、かいぶつ……あ、ああ。怪物……だ……」


 ぽかんとした顔をした一人が呻き、唐突にアオハの背後に目を奪われる。その表情の意味を悟った刹那に、背筋が凍り付く。

 耳に届く怒涛の足音。地鳴りとともに猛然と迫り来ているのは――


「ア――/オ――/ハ――――ッ!!」


 ――ちょっと待てリュミ! いきなり名前で呼ぶとか、勘弁してくれ!

 リュミオラは森で待たせていたはずだ。自分が戻るまで大人しく寝ていろと伝え、ロボにも見張らせていたのに。


【我――が――王――よ――――――――!!】


 なのに目付役のロボまでこちらに向かってくる有り様だ。

 闇夜に紅い瞳を煌めかせ、異形の巨躯を揺らし、土煙とともに押し寄せる正体不明の存在。猛然と迫り来る彼女らの姿をかがり火が浮き彫りにして、番兵たちの表情が凍り付く。


「ひぃぃっ、出たっ――――!!」


 悲鳴を上げた最初の一人が逃げ出した。正門には目もくれず、脇の外壁にかけられた縄梯子を一目散に駆け上がっていった。

 残りの四人はまだ勇敢なのか身のほど知らずなのか、呼吸の合った槍捌きが迫り来る人食い怪物を迎え撃つ――はずだった。


「アオハ――――ッ!!」


 こちら目指して猛進する人食い怪物が、またそんな叫び声を上げたのだ。


「へっ……?? いまのよ、兄ちゃんの名前じゃねがったか?」


「違うな、いまのは先史文明の呪文かもしれない……耳を貸すな、魔性に魅入られるぞ!」


 咄嗟に思いついた精一杯の誤魔化しにも胸が痛み、印を切って星々に懺悔する。

 先行したロボがアオハたちの前に滞空し、そして急な報せを告げた。


【――王よ! 緊急事態である! 一刻も早くここから離れるのだ!】


 喋り出したフクロウの姿に、槍を向け慌てふためく番兵たち。

 もはやこの作戦は無茶苦茶だ。観念して、アオハはロボに答える。


「――くそっ! 一体何があったんだ。あれほど待機してろと――」


「アオハッ/敵ッ! /敵ッ!」


 遂にリュミオラが目前まで辿り着く。

 六本脚の全力疾走からの急制動に、正門前の石畳が削れた。怯える番兵らが見上げる巨躯の頂上で、紅き眼光の少女騎士が見下ろしている。

 と、肩に背負っていた白銀の騎槍を、ずんと地面に突き立てた。


「ひいぃっ――――!?」


 魔神の姿に腰を抜かした番兵たちの、三人が一斉に逃げ出した。


「おのれ人食いの怪物め! 騎士の魂を我が槍にしめ――」


「しゃぁッ――――――!!」


 途端、リュミオラが激しく喉を鳴らせ、背の翅を扇状に広げた。両の鎌を振り上げ、髪を逆立てて牙を剥いた。

 魔神の威嚇に戦意喪失した最後の番兵が、手の槍も騎士の魂も投げ捨てて、外壁の縄梯子を駆け上っていった。

 尋常じゃなかった。彼女のとった行動も、いやそれ以前に――


「何が起こってる。〝敵〟って何のことだ」


 手を上空に伸ばして合図すると、そこにロボが舞い戻ってきた。


【我が王よ、我々は森の中で目撃した。あの双頭の狼がまだいたのだ。それも一頭ではない、軍勢を率いてこの村を真っ直ぐ目指しておる】


「あの大きいやつが……ここに来るだって!?」


 ロボの報告が咄嗟には信じられなかった。あのような正体も明らかでない魔獣が他にも存在したというのか。何の目的で剣王国領の辺境を跋扈しているというのか。

 だが、そんな疑問に頭を悩ます猶予もなく、森がにわかにざわつき出す。


「敵/きたっ!」


 その言葉を狼煙のように、巨大な何者かが落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえてきた。

 暗がりに一頭目の姿を捉えたのは一瞬だ。

 村の外壁部を取り囲む森――その奥におびただしい数の眼光が揺らめいたや否や、アオハらの傍らに矢のごとき速さで躍り出た。

 重たい足跡を置き去りに、その巨躯で高く跳躍――外壁の頂へと一気に駆け上がる。


「あいつ、やはりあの時の……」


 見紛うはずもない。飛び乗った外壁上からこちらを見下ろすのは、あの双頭の巨狼だ。

 額に琥珀のレリクスを灯し、尾に炎が揺らめく。二頭分の咆哮が不快な旋律を奏でる。

 リュミオラが突き立てた騎槍を抜き、森へと振り返る。続いて二頭目が躍り出てきたからだ。

 だが二頭目の巨狼も、こちらをあしらうように横切り、やはり外壁に駆け上がった。

 ごう、と荒く息を吐き、その二頭は壁の向こう――村の内部へと降り立った。


「こちらを攻撃する意思がない? なんのつもりだ……何が起こってる……」


 巨狼たちが村に侵入したという一点が、アオハをひどく動揺させる。

 それをあざ笑うかのように、再び森の木々がざわめき立ち――


「りゅりゅ/まだまだ来る」


 先と同じ巨狼の黒い影が何頭も目前を駆け抜け、やはり外壁を飛び越えていった。

 寝静まった村の上空が橙色に焼け始めるのに、わずかな時間もかからなかった。


【なんと……あやつら、犬コロの分際で村を焼き払うつもりか……】


 この鼓膜がはっきりと捉えていた。自分が聞き逃すはずがない――人間の悲鳴だ。

 燃え盛る炎にあぶられ、逃げ惑う人々の怯えが、研ぎ澄まされた刃のごとくアオハの胸を刺す。いつかの惨劇と同じ光景が、いまこの壁の向こう側で再演されているのだ。

 考えるよりも先に駆け出していた。

 ――止めるんだ。止めなきゃ、あの力を。

 がむしゃらに走って外壁に取り付き、足場を探す。先の番兵たちが垂らしていた縄梯子は巻き取られた後なのか、既に影も形もない。


「なんでだッ! さっきまでここにあったのに――そうだ、門を開ければ……」


【待たれよ我が王! あなたの振る舞いは蛮勇であるぞ! 心を少し落ち着けるのだ】


「これが落ち着いていられるものか! 早く助けないと……またあの時みたいに……ッ」


 見上げれば、炎は既に壁の外からも窺えるほどの勢いと化していた。

 外壁の積み上げられた石片にすがり付き、額を押し当てる。硬質で冷たい感触が冷静さを取り戻してくれるわけでもなく、ただ焦りと恐ればかりが張りつめていく。

 ――少しでも躊躇っている間に、わずかにでも迷っている隙に、また誰かが死ぬ。


【村を見捨てろとは言わん。だが、己の身を守ることすら忘れて脅威に立ち向かうのは愚者のやることである】


「僕が愚かかどうかなんて問題じゃない。何ならもう片方の目玉をくれてやってでも、誰かが救われるなら僕は――」


【今のあなたはレリクスブレイカーも失い、この壁を乗り越える力すら持たない。なのにひとりで何を成し遂げられるという、異産審問官、アオハ・スカイアッドよ?】


 いつになく語気を強めたこのレリクス人形に、アオハはようやく我に返った。

 ロボがリュミオラの兜の上に着地する。自分とは違う世界を知る四つの瞳が、茫然と炎を背にしたアオハを、ただ感情もなく静かな目で見下ろしてくる。

 意外なほど落ち着いた表情でそこに佇む〈白き魔神〉。その手に携えていた騎槍が鋼に戻り、螺旋を描いて鎧に還っていく。

 その様は、アオハにとっての光明に見えた。


「……リュミオラ。僕に力を貸してくれ」


「りゅむ?」


 喉を鳴らし、首を静かに傾ける〈白き魔神〉。

 こちらの想いが理解できていないのではない。まだ言葉が足りないのだと、この不思議な存在との短い旅の中でアオハは学んだ。


「首を突っ込んで大怪我をするくらいなら、僕の血をお前に差し出した方がマシなことに気付いた。僕の血をやるから、代わりにあの魔獣どもを倒してくれ!」


 と、どうしてなのか、彼女が大人びた笑みを浮かべたように見えた。細めた目がこちらを優しげに見据えると、膝を折って蟷螂の腰を低く落とす。

 手を広げ歩み寄ると、首筋に頬を寄せてきた彼女がこう囁いた。


「アオハ/リュミは/いいの?」


 衝動的に目を見開いてしまった。あのリュミオラがそんな言葉を吐くだなんて。

 いつもは勝手気ままな振る舞いばかり。人知を超えた力を備える異産なのに、半分は人の娘そのもので、なのに言うことを聞かないどころかアオハを主人と認める気さえない。

 そんな気まぐれな〈白き魔神〉が、自分から相手に手続きを求めたのだ。


「ああ、いいよ。でもリュミ、お前……ちゃんと相手に同意を得ることを覚えたんだな?」


 が、アオハの言い分に不満を覚えたのか、彼女はぷうと頬を膨らませる。


「アオハ/敵? /リュミの敵?」


 幼い言葉遣いだったが、相手が魔神だけに恐ろしい解釈もできそうだった。それにも増して〝敵〟なる言葉が孕む意味が、異産を討つ者としての自分を嫌でも研ぎ澄まさせる。

 ――僕はこれから一体何をしようとしているのか。異産相手に取引をして、その力で別の異産を討とうとしているなんて。

 ――異産はみな封滅すべきじゃなかったのか。だったら、彼女は僕にとって――

 そんな心の迷いを押し切るように、彼女に頬を寄せる。

 気だるげなリュミオラの吐息が耳元をよぎり、闇のように真っ黒なその手で抱き寄せられる。首筋を彼女の暖かな唇がなぞり、牙がゆっくりと沈んでいゆく感触。


「りゅ………………アオ……ハ………………ん……」


 アオハはただ髪に触れ、寄りかかる彼女の肩を支えてやることしかできない。


        ◇ ◆ ◇


 アオハの血液を得たリュミオラは、失ったかつての〈白き魔神〉の力をわずかながら取り戻せたようだった。


「行こうアオハ/リュミ/とぶ!」


 首に回されていた手に襟首を掴まれたかと思えば、急に蟷螂が体躯を立ち上げた。


「うわっ――――――」


 巨体に振り回され、辛うじて背にしがみ付く。問答無用でリュミオラが翅を広げた。


「待て、飛ぶって……本気で空を飛ぶつもりか――――ぁ!?」


 そこからはもはや、災いに巻き込まれたと言ってもよかった。

 光の鱗粉を放ち、地を蹴って舞い上がったリュミオラとともに今、アオハは空中にいる。こちらが悲鳴を上げるのもお構いなしに、高い外壁を我が物顔で飛び越えていく。

 次に地面へと降り立った時には、消えない浮遊感に目を回す暇もなかった。

 強烈なまでの炎熱に頬を、手を炙り付けられる。炎に包まれたマウリの村は、さながら地獄の様相だった。

 ただの戦火には見えなかった。村の中央にそびえる灯台を含め、遺跡を利用した石造りの建物が多く建ち並ぶ村だ。だが巨狼の放った火は石材や石畳にすら燃え移り、全てを赤く溶かし始めているのだ。


「……やはりあれは普通の火じゃない、レリクスの火だ。あの狼たちは、生物が本来持たないはずの、いにしえの魔法の力を宿している」


 周囲を見渡すが、いま手を差し伸べるべき村人の姿が不思議と見当たらなかった。


【辺境地とはいえ、ここは騎士の国。騎士が先頭に立って、村人を退避させた可能性もあるな。さて、いかがする我が王よ?】


「正式な手続きは踏んでいないが、僕はもうあの双頭の狼を異産と認定した。異産審問官アオハ・スカイアッドは、これより異産封滅を開始する」


 指を胸元に、小さく星教会の印を切る。レリクスブレイカーがこの手になくても、あの魔獣を封滅する術が今の自分にはある。

 額にとどまることない汗を拭い、自分の傍らで劫火と対峙する魔神を見上げる。


意志をヴィルこの手にピアサー


 ゆっくりと右手を掲げる。言葉がそれを呼び覚ましたのか、背に光の円が瞬くように煌めく。

 アオハもいつか見た、彼女本来の名を表す光の〝車輪〟――それは一時の雷光のように弾け、光の騎槍に形を変えて彼女の手に顕現した。

 巨狼を一撃のもとに斃し、同族の魔神すら一体残らず屠ってみせた、先史の力を宿す彼女の武器。まさしく異産としての彼女を象徴する危険な力だった。

 ただ、考えようによっては安全装置が働いているとも言えた。つまり、アオハが血を捧げなければ、〈白き魔神〉は本来の力を行使できないのだと。


 ――それに、これは僕とリュミオラ、お互いが望んだからこその力なんだ。これが誰かを救う力になれるなら、目を逸らすべきじゃない。


「ありがとう。リュミの光る槍、やっぱりいつでもは使えないんだな。でも僕が血を分けた甲斐がある。ふたりで止めよう、この惨劇を」


「りゅー」


 喉を鳴らせる〈白き魔神〉。青白い光の騎槍を滑らかに手に滑らせて馴染ませると、炎の揺らぐ向こうを見据える。その瞳をレンズが覆い、魔法の刻印がいくつも浮かび上がる。


「ねえアオハ/リュミ/こわいい」


 何を思ったのか、唐突にそう口にするリュミオラ。


「こわ/いい」


 ゆっくりと強調するように、語意の不確かな言葉で。


「こわいい? リュミが恐い、恐ろしく見える、と言いたいのか?」


 それはともに同じ炎を見据えるアオハへの問いかけなのか、それとも何かの確認なのか、アオハには意図がいまひとつ読めない。

 リュミオラもそれ以上は言葉にせず、ただこちらの反応を待っているようだった。


「そうだな、他の人間がお前を見て逃げたのは事実だ。お前は傷付いたかもしれない。でも、お前は見たこともない強そうな姿をしているから、人間の目には恐ろしく映るんだ。だからお前を恐れる者たちを許してやっておくれ」


 それに今は話をしている猶予はない。急き立てるように、彼女の脚に触れて促す。


「そうだ、リュミオラは建物の屋根伝いに、ロボとともに魔獣たちを追ってくれ。そうすればお前も村人たちに怖がられずに済む。僕は下から逃げ遅れた村人を探す」


 アオハの作戦には特に異論も示さず、ただロボが急に奇妙な話題を口にした。


【……はあ。我が王は乙女の扱いが存外に不得手なのを失念していたぞ。男ばかりの堅苦しい環境で育ってきたのだ。王を許してやっておくれ、可愛い我が一番弟子よ】


「りゅうん」


 レリクス仕掛けにしかわからない何らかの対話が、アオハ抜きで行われたのだと知る。


 ――リュミの奴もなんて顔してる。参ったな、さっきのは言葉を濁すべきだったのか?


「まったく、何の話だよ。今度はリュミオラにどんな悪知恵を吹き込んだんだ、ロボ?」


【さてはて、私は空の目を引き受けるとしよう。さあ行くぞ、我が一番弟子よ】


 ロボは主人をあっさりとやり込めると、魔神に先んじて屋根の上へと飛び立った。


        ◇ ◆ ◇


 ここまでに死体を一つも見かけなかったことに、アオハは胸を撫で下ろした。

 少なくともアオハたちが駆け抜けた範囲には既に人の気配はなく、つい先ほど打ち棄てられたばかりの生活の名残と、それを醜く焦がす炎のヴェールだけが視界に映っている。

 最初にアオハが発見した村人は、一頭の巨狼に追い詰められた若者たちだった。ちょうど袋小路になっていた路地裏。左右は建ち並ぶ商店の軒で、よじ登ることも困難な外壁を背にしたその二人組が、にじり寄ってくる巨狼を相手に対峙していた。

 二人組の背の高い方がもう片割れを庇い、細身の剣を巨狼に突き付けている。出で立ちからしておそらくこの村の騎士だろう。

 アオハは巨狼の背後からゆっくりと忍び寄ると、上空に目配せしてから声を張り上げた。


「――助けに来たぞ、そこに伏せてくれ!」


 二人組は呼びかけの意味が咄嗟には理解できず、唖然とした表情をこちらへと向けた。

 注意が逸れ、双頭の巨狼の首がアオハを振り向く――その額に輝くレリクスが、直後に空から浴びせられたまばゆいばかりの光線に、一撃のもとに貫かれる。

 巨狼の体躯は、まるで幻だったかのように黒煙と化して掻き消えた。


「ふぅ…………大丈夫か君たち。怪我は?」


 やはり地面に残された琥珀色のレリクス片を横目に、二人組の元へと駆け寄る。

 と、思わぬ言葉がアオハに向けられ、今度はこちらの思考が押し止められてしまった。


「――異産審問官のお兄さん!?」


 騎士に庇われていた小さい方が飛び込んできて、こちらの胸元で顔を上げれば、


「えっ……君、マル!? マルじゃないか!」


 フードを脱いで素顔を晒していたため、一見してマルだとわからなかったのだ。


「どうしてここに――いまどうやって狼を倒せたの!? ああっ、一体何から話せばいいのかしら。とにかくよかった、生きていてくれて!」


 炎に照らし出された、赤毛を後ろで結った少女の顔。だがその大きな瞳はアオハも見紛うことない、確かに一時冒険をともにしたあのマルと同じ笑顔をつくる。

 魔女の霊廟での惨劇から一人でも生還できていたことに歓喜したアオハは、自分でも気付かない間にマルの華奢な両肩を掴まえて揺さぶっていた。


「マルも無事でよかった! 他の人間は? あの場にいた人たちの行方を知らないか?」


「あはは、いたた……ご、ごめんなさい、わたくしもあのとき水に飲み込まれてしまって。気が付いたら、この方に助けられていたのです――」


 などとアオハの強引さに困った笑顔を浮かべながら、傍らで唖然と突っ立ったままだったもう片割れを促す。


「わたくしの命の恩人。名をジオッタと言って、このマウリ村の騎士様なのだそうです」


 男の子の振りはもうしなくてもよくなったのか、声はあの時と同じなのに、物腰がやけに上品なマルがとても新鮮だ。

 そんな彼女が紹介してくれたのは、とっくに成長期を終えたアオハと同じほどの背丈のある、長身痩躯の女騎士だった。

 眉上で真っ直ぐ切り揃えられた金髪に、青く澄んだ瞳が目を引く。ただその顔を一目見て、マルとほとんど変わらない年ごろの少女だと知り、意外さに軽く驚かされた。


「自分はアオハ・スカイアッド。剣王国領では馴染みが薄いかもしれないが、イスルカンデ星教会の異産審問官だ。今までマルを守ってくれて感謝する」


 彼女から差し出された握手に応じ、先にそう名乗る。


「なぁんだ、兄さん、マルのナイトだったのカ。黒ずくめのコワモテがいきなし乱入してきたから何ヤツかと、さすがのうちもマジびびったゾ」


「――なっ、ナイトとはどういう意味ですか!? アオハはそのような殿方というわけではありませんので……」


「エー、そんな必死に否定するマルはアヤシイなァ」


 マルを救ったというこの少女騎士は、気品をたたえた顔つきに不似合いな、言葉に独特の訛りのある、不思議な雰囲気を漂わせた娘だった。


「うちはジオッタ・エーベルトン。見てのとおり、マウリ生まれマウリ育ちの見習い騎士ダ。好きな騎士は魔法騎士ミリム・レアン。好きな剣はレギン工房の十七年式アリゲイター片刃。ちなみに〈赤き鱗の騎士団〉所属で……って、もう解散しちゃったんだけどナー」


 故郷の窮地だというのにそこまでベラベラと喋り続けられるのが不思議で、


「ところで他の村人たちはどこへ?」


 話に割って入ると、彼女はこう答える。


「村のみんななら、うちの仲間が無事退避させたヨ。村はずれの修練場で徹底抗戦の構えだナ。さっきのでっけえワンコ、やったら強いわりに、なぁんか殺ル気ないんだよネ」


 あまりに緊迫感もなく、人差し指で鼻下をこする。


「やる気がないって、どういうことだ? やつらは村人を襲うのが目的ではないと?」


 この気安そうな少女騎士が首をひねる。大仰に表情を困らせ唸り始めてしまった。


「だってあのワンコ、こっちから間合いに踏み込まない分にナンも攻撃してこなかったもんナ。昨日のアレのがよっぽど殺る気満々……ン? ンンッ!?」


 と、ジオッタの無邪気な視線がこちらに釘付けになった。

 何故なのかまじまじと見つめられてしまい、彼女の兜から覗く生っ白い顔面がみるみる仰天に歪んでいく。


「アーッ! おま、おまおまおまおまエ!! 思い出しちまったゾ! よくよくツラ見てみれば、おまえあん時いた真っ黒ずくめの眼帯野郎じゃンッ!!」


「ああ! 僕もようやく思い出した!! 君、たしか木の中に潜んでた騎士殿か!」


 今さら気付いてから、何だかすまないことをしたと罪悪感が沸き上がってきた。


「突然どうしたのですかジオ! やめて、アオハお兄さんは悪い人ではありません!」


 ジオッタから出し抜けに剣を突き付けられ後ずさると、滑空してきたロボがアオハの肩へと帰還した。


【はて、我が王の危機かと駆けつけてみれば、どこかで見た顔ぶれであるな、ふむ】


「まあ、ロボ! あなたも健在だったのですね! よかった!」


 歓喜に行儀よく手を重ね合わせるマルをよそに、再びジオッタが濁った悲鳴を上げた。


「……フクロウまでいるってことハ、まさかナ……さすがにアレまで出てこないよナ?」


 一縷の希望をぶち壊しにするかのように、どすり、と背後の石畳が嫌な音を立てた。

 恐る恐る振り返ったジオッタに、屋根から着地したアレの巨躯が影を落とす。

 咄嗟に飛び出していた。少女二人が悲鳴を轟かせるのに先んじて魔神を背に庇った。


「待ってくれ、この子に危険はない。名をリュミオラと言って、この子は僕の……」


 ――リュミオラは僕の、一体何と説明すればいいんだ?


 目を見開いたマルの表情が、すぐに疑念の滲んだものへと変わる。ジオッタの方は、それよりずっと子どもじみた恐がりの目のままだ。

 かたやアオハの傍らで覗き込んでくるリュミオラも、二人に警戒の視線を送っている。


「――リュミオラは僕たちの味方だ。さっき双頭の狼を倒してくれたのは彼女なんだ」


 ようやく彼女について、適切な言葉にすることができた。


「では、あの不思議な光、やはりそこにいる魔神がやったのですか?」


 意外にも、マルはあれがリュミオラの力だと感付いていたらしい。霊廟での戦闘を目撃していたからこそだろう。


「や――やめロ、危ないぞマル! あいつ超デカいし超速いし超容赦ないんだっテ! めちゃんこヤバすぎモンスターなんだっテ!」


 ジオッタが全身を使い、意味不明な訛りでリュミオラの危険性を主張する。それも気に留めず勇敢に一歩あゆみ出たマルが、不安げな目でアオハを見据える。


 ――そうか。マルはあの時、僕を守ろうと命がけの勇気を振るってくれたんだった。


 マルに黙って頷き、言葉の代わりに、リュミオラの厳めしい鎌に自ら触れてやる。


「ほら、リュミ。ふたりに挨拶してやってくれ」


 この場を取り持つべくそう促してみたものの、くだんのリュミオラは何故か頬を膨らませると、その巨体で軽々と跳躍し、また建物の屋根の上へと飛び去ってしまった。

 何故機嫌を損ねてしまったのか、こんな言葉を置き去りに。


「りゅん/リュミたたかうの/たたかうそんざい――」


 それでもアオハと交わした約束を守るべく、またあらたな巨狼の追撃に向かったのだ。


「すまない、あいつはとても気まぐれなんだ。でもリュミオラなら狼を倒せる。僕もまだ逃げ遅れた村人が残っていないか探しに行く。これは異産審問官の仕事だ。君たちはどこかに隠れていてくれ」


 確かにそう伝えたつもりだったのだが、アオハの思惑通りにはならなかった。


「――騎士の魂を我が心臓に宿セ。このジオッタ・エーベルトンは御身を護る剣ナリ」


 ジオッタは騎士らしく、収めた剣を再び抜き放つ。リュミオラを討伐するためではなく、その切っ先はマルを守るためのものだと自らここに宣言したのだ。

 マルもただ守られるわけではない。懐から取り出したのはレリクス銃だ。学院で支給される護身用の武器。殺傷力が低いとは言え、騎士の援護となれば効果を変えるだろう。


「――アオハお兄さん、あなたの事情はあとで聞きましょう。わたくしたちも行きます。苦しんでいる人たちを見過ごして、自分だけ逃げることなんてできません」


 アオハの知るその瞳が、映り込む炎にも増して燦然と輝く。


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