Ⅲ 魔神と青年
第7話
アオハ・スカイアッドは今でも子どものころの悪夢に苛まれる。
まだ九歳だったアオハの傍にはヨアンという名の少年がいた。
兄弟のいない自分を実の兄のように慕ってくれたヨアンは、スカイアッド家に仕える使用人家族の一人息子だった。
あの当時、先史文明研究の権威として名を馳せていたアオハの両親は、学院を上げて推進されていた数々のレリクス発掘計画にたずさわっていたため、アオハは屋敷に一人残された。
そんな孤独な家庭環境で幼年期を過ごしてきたアオハにとって、ヨアンとの立場の違いも、肌や髪の色の濃い薄いも些細なことだったのだ。
だが、永遠に続くとも思えたあの日々が、町とともに炎に包まれることになった。
突如として迷宮から現れた、異形の怪物。その軍勢が、学院主都へと攻め入ったのだ。
街頭に折り重なる死体。大通りを赤く染め上げる、見たこともない量の血。見慣れた主都の街並みが、放たれた炎に焼かれてゆくさなかを、異形の怪物たちが跋扈していた。
「……アオハ……兄さん?」
浅黒い肌をした少年――ヨアンが、虚ろな顔を上げる。力ない瞳が、アオハの姿と揺らめく炎とを映す。
彼を探し回ってようやく見つけた場所は、スカイアッド邸の離れ家だった。
「ねえ、兄さん……かあさんは……すぐなおるよ。今すぐにお医者さまを呼ぶね……」
そう呟いたヨアンがもはや我を失っているのは、幼心ながらもわかった。虚ろな目をした彼が縋り付いていたのは、かつて彼の母親だったものの亡骸だったのだ。
めきめきと音を立て、屋根の一部が焼け落ちる。へし折れた梁が火の粉とともに落下し、アオハとヨアン――ふたりを分かつかのように横たわった。
行く手を遮る炎が勢いをさらに増し、まだ小さかった自分は彼の元へは辿り着けない。
ヨアン、うしろだ、危ない。背後から迫り来ていた怪物に気付いてほしかったのに。
あの炎に飛び込む勇気を振るい、ヨアンを連れて逃げるべきだったのに。
なのに怖くて、もう耐えられなくなった。周囲に転がる彼の家族たちのなれの果てを見て。退路を塞いでいく炎のうねりを見て。屋根ほども大きな、あの異形の怪物を見て。
いやだ――。
「……兄さん、どこにいっちゃうの。ばけものがくるよ――」
恐怖が勝り後ずさる自分の姿。
ヨアンとともに過ごした家が崩れ落ちてゆく。もはやヨアンの姿すらも炎に覆われたのに、その声が耳に焼き付いて離れない。
「いやだ、こわいよ、おいてかないで。あつい……いたい……くるしいよ……」
もうやめてくれ。すまない。ごめん、ヨアン。
――たすけて――ばけものが――アオハ兄さん――――――――――――。
そうしてヨアンを見捨てて逃げ出した自分には、罪過の印が深く刻み込まれた。アオハは結局逃げおおせることができず、代わりに左眼を失う末路が待っていたのだ。
それから自分を救い出してくた星教会の大人たちは、アオハのとった選択は必ずしも正義ではないが、決して過ちではないとも言い、そのあとそっと抱きしめてくれた。
生き延びるためにした選択がたとえ他者を犠牲にしたとしても、それは誰からも等しく責められる罪ではない。君を許せない者たちと同じ数だけ、赦す者が君を支えるべきだと。
そうアオハを庇ってくれたのは、まだ枢機卿の座に就く前のラーグナス・フランヴェイラだった。
アオハの家族を奪った怪物たちの正体が、発掘された異産のひとつから生み出されたものだと知ったのは、星教会に助け出されてしばらくしてからのこと。
あの過ちを決して繰り返してはならないと誓い、アオハは異産審問官の道を選択した。
異産が再び悲劇を呼び覚ますのなら、己の命を賭してでも止めようと胸に刻んで。
それが見捨てたヨアンへの唯一の贖いになると信じて。
◇ ◆ ◇
「ヨア……ん…………………………」
奇妙に暖かな感触に肌を撫でられ、アオハの意識はようやく現実へと揺り戻された。
涙で滲んだ視界に映った最初のものは、革のグローブが脱げた自分の手。硬い石ころが敷き詰められた地面に、うつぶせのまま気絶していたらしい。
身体中の節々までおよぶ痛みに呻きながら、満身創痍の気分で上体を起こす。
涙を拭う意欲もない。泥汚れでくすんでしまった黒服から、まだ生乾きの感触がした。
「ロボ――――おおい、ロボ――――近くにいないのか?」
運悪くはぐれてしまったのか、ロボからの応答はない。
遠鳴りに瀑布の音が聞こえる。周囲に立ち込める濃霧で視界は劣悪。湯気のような湿気にむっとさせられる。
奇しくも漂着する羽目になったここはどこかの河原か、あるいは湿原だろうか。
大剣ハンマフォートがその内部に擁する自然界は、果てしなく広大とされる外世界のそれとは比べるべくもない規模だ。もっともここが万一にも遺跡の外世界だとしたら、人間など〈大断絶〉の呪いを受けて二度と目覚めることはできなかったはずだが。
――まったく、裏切り者呼ばわりの次は、死神にまで見放されるとは。
口に溜まった泥を吐き出して、直後に見た途轍もないものに、アオハの喉が麻痺した。
「…………りゅ?」
顔を上げたすぐ鼻先に、厳つい兜があった。
あまりの至近距離に、額がこつんとぶつかった。自分に黒く影が落ちていたのに気付けたのもこの瞬間だ。
あの〈白き魔神〉だ。
横たわるアオハを捕獲するように、その巨躯で真上から覆い被さっていた禍々しい怪物。体節を器用にねじらせ、節くれ立った六本脚で巧みに胴体の傾きを変えながら、蟷螂から生えた甲冑少女がアオハを隅々まで観察していたのだ。
「う……わぁっ――――!?」
咄嗟に武器を抜こうとして、何故か空振りする指先。肝心のレリクスブレイカーをマルに託したのを、今さら思い出しても遅かった。
どういう仕組みなのか、兜のバイザーが自動的に上がる。その奥に覗く顔が、じっとアオハを見つめてきた。
それだけならあどけなくも愛らしい顔付き。アオハの感覚では、年のころ十四くらいか。もっとも、絵画に描かれた姫君がごとく精巧にして、絶世の美少女と言わんばかりのこの造形には、現実味のなさのあまり気味悪さが打ち勝ってしまうほどだ。
淡く紅のさした唇がわずかに開き、舌っ足らずな、不思議な鳴き声を漏らす。
「…………りゅ」
絶体絶命の窮地にもかかわらず、〝彼女〟の奇異さに、きっとおかしな顔をしてしまったのだろう。首を傾げてみせた〝彼女〟が目を丸く見開く。眼球を覆う紫のレンズが動物の瞬膜のように開き、長いまつ毛を割って露出した大粒の
すぐに違和感に気付いた。今の〝彼女〟は、表情らしきものを浮かべているのだ。あの人形のように冷血だった印象が失せ、ぼんやりと隙だらけで緊張感のない面構え。
冷静に観察しなおしてみれば、〈白き魔神〉を体現したであろう鋼の甲冑が、どうしてか今は灰色に退色していた。そもそも造形自体があの時の威容を失っているのだ。
――思い出した。あの光る車輪みたいなやつが……ない!?
それに、自分がこうして〝彼女〟とともにいる経緯まで脳裏によみがえってきた。
「――止まれ。僕から離れろ」
どうしてこんな肝心なことを忘れていたのか。この〈白き魔神〉だけは、少なくともアオハの敵ではなかったのだ。他の魔神とは異なり、自分の命令を聞くよう仕向けられた。
「お前は僕の言葉が理解できるな? これは主人としての命令だ。僕を殺すな。誰も傷つけるな。何もするな。いいな?」
果たして先史の魔神に、今の言葉が通じるのかという疑問はある。だが確かにあの時、自分の命令を聞き入れた気がした。
刺激しないよう、じりじりと尻から後ずさる。少女の腰あたりから生える鎌状の前脚が、制止を聞き入れたのかふるふると揺れている。アオハの背丈ほどもある鋼の脚で自分を閉じ込めていた〝彼女〟の下からゆっくりと這い出ていく。
「……りゅん? /……はぁ、ふ……」
あくびをするのか、戦場で敵を皆殺しにするためだけに生み出された兵器なのに。〝彼女〟のヘンテコで生々しい吐息が、何故だか間の抜けた印象を持たせてくる。
が、間抜けはアオハの方だった。思わぬ速さで繰り出された右の鎌に首根っこを引っかけられ、少女の目線までひょいとつり上げられてしまった。
「お……おい、よせ! 離すんだ! 停止! 触れるな! 僕の命令を聞け――」
宙でもがくアオハに、伸ばされた少女のか細い指先。どうしてなのか、この真っ白な少女の手は、獣のもののように肌が真っ黒だ。尖った爪が、淡い紫に化粧されている。
闇の住人を思わせるその指先で、目元をそっと拭われた。拭い取った雫を興味津々な目で眺めている様を、まるで魅入られたように受け入れてしまった。
だが直後に〝彼女〟はひどく妖艶な眼差しを見せ、にいと口元をつり上げる。
「――――はむっ」
突然抱き寄せられ、拍子抜けする声を上げた〝彼女〟が首筋に喰らい付いた。
「――――!? な……に…………ぐ…………うあっ…………」
少女の鋭い牙が、首の深くに食い込んだ。
地面に下ろしたアオハの首にすがり付いたまま、恍惚の表情で喉を鳴らし始める。血液がどくどくと吸い上げられる感覚が嫌にでも伝わってくる。
あの時も見た、魔神族の吸血行為なのだろうか。肉を割かれた痛みと失血への焦りとで呻き声を上げても、全身が麻痺したように抵抗できない。
「んふ……………………ん……」
吸血に夢中になっている隙に、アオハの手が辛うじて河原の石を捉えた。後ろ手に、石ころをひとつ握りしめる。魔神相手に、こんなものでどう戦おうというのか。
「こ……の……」
失血死への恐怖心と、この石を少女の顔目がけて打ちつける残酷な未来図とが、天秤の上でせめぎ合っていた。そんなことをしてまで生にしがみついて、その先に何があるのか。
そうだ、みんなあの場所で死んでしまったのだ。今の自分に残されている未来とは何だ。
「ああ……ヨアン……………………これはお前を見捨てた報いなのかな……」
既に生き延びることを諦めていたのだ。だから自分は最後に〝彼女〟を殺せなかった。
掴んだ石を手放し、代わりにその手で、必死にかじり付いてくる少女の頬に触れる。とても恐ろしい存在のはずなのに、肌は柔らかで、人と同じ温さだ。自分が体温を分け与えてやっている気持ちになって、そうすれば不思議ときたる死にも安らかでいられた。
と、〝彼女〟が手を握り返してきた。指先が繋がれる。絡み合う、白と黒の皮膚。
そして〝彼女〟は唐突に牙を抜くと、
「りゅう…………」
思いがけず傷口に口づけてきたかと思えば、熱い舌でちろちろと嘗め始めたではないか。
「なっ…………なんの真似………………や、やめ…………ははっ……」
「りゅん…………/りゅ…………/んふ」
生を諦めたはずなのに、その諦念も妙に優しく丁寧な感触に上塗りされてしまう。
「……や、やめろ! やめろって…………ひひっ、だめだ、くす、くすぐった…………」
〝彼女〟の舌の暖かさとくすぐったさに耐え切れず、遂には笑いが込み上げてきた。
「んふふ…………/んふふふっ……/ふふん」
釣られたのか〝彼女〟まで一緒にクスクスし始めて、首筋をくすぐる息がこそばゆくて。
そこで急激に我に返ったアオハは、
「うわあっ――――――」
しな垂れかかって恍惚の笑みを浮かべていた少女を突き飛ばし、思わず後ろに飛びのいた。その拍子に水際の泥へと転げ込み、服がまた泥まみれになってしまった。
口元と頬を血で染めた少女が、蟷螂の脚を蠢かせながらまたにじり寄ってきた。戦慄不可避、なんという残忍な形相。悲鳴の代わりに、空気が喉から漏れる。
「アハッ――――」
堰を切ったように、少女がケラケラと笑い始めた。泥まみれのアオハを茶化すように指差して、目じりに涙まで溜めて、あまりにもはしたない、おてんばな声を上げた。
それは邪悪というより、年頃の少女がおかしがる姿そのものに見えた。
「なっ……なんなんだ。なんなんだよ、お前……」
あの恐るべき魔神が目の前で笑い転げる様には、アオハも呆気にとられるしかない。
が、捧腹絶倒の勢いが止まらず自分の脚に頭をぶつけ、兜の前後が裏返ってしまった。
「りゅっ? /りゅ? /りゅりゅりゅー!?」
真っ暗闇になった視界に手をばたつかせて混乱する魔神に、みるみるこっちの気勢が削がれていく。
大体、先史の魔女は何を考えていたのか、この〈白き魔神〉はまるで出鱈目だった。
そもそも蟷螂という生き物は昆虫だから、六本脚のはずだ。なのにこの〈白き魔神〉ときたら、六本ある歩脚とは別に一対の鎌を備え、当然ながら少女の部分にも手がある。やはり出鱈目というほかない。
ふと首筋の傷痕に触れ、不思議と痛みが和らいでいることに気付いた。〝彼女〟に嘗められた影響なのかは確かめようもないことだったが。
いずれにせよ、異産の暴走に幕開けたあの惨劇はもう終わったのだと、異産そのもである〝彼女〟の自由奔放な振る舞いから気付かされることになった。それに〝彼女〟にはアオハへの殺意など微塵にもないことも理解できた。
ならば、今こそが己の未来を分ける選択の時。
「――りゅー?? /りゅ/りゅーん!?」
まんまと前後不覚に陥っているこの隙に後ずさり、
「お互い、恨みっこなしだからな――」
全速力で〈白き魔神〉からの逃走を決め込んだのだった。
◇ ◆ ◇
疲労と空腹感を押して、霧の中を必死で駆けた。河原の石に躓きながらの全力疾走だ。
川幅はかなり広く、水深も予測がつかない。それにこの濃霧、発生源はこの川かららしい。水温が高いのか、川面からもうもうと白い蒸気が立ちのぼっていた。
瀑布の音を目指すと、前方に滝壺が見えてきた。切り立つ岸壁に穿たれた洞穴から溢れ落ちる濁流。下で大きな水溜まりをつくり、そこから下流へと流れ出ていく。
――まさか、自分たちはあんなところから流れ落ちてきたのか。
魔女の霊廟から地下水脈を通じてここまで流されてきたらしいと想像する。溺れ死んでいたとして不思議ではなく、ゾッとしない光景だった。
立ち込める湯気でおぼろげな視界。周囲を見渡すも、岸壁以外の方角はどれもが鬱蒼とした森に埋もれている。あの中に逃げ込む以外に道はなさそうだ。
どうやらここは遺跡内のどこかの階層なのは間違いなかった。視界の遥か遠くまで広がる森林地帯の、高い広葉樹林の狭間から、ハンマフォート住人らが〈尖塔〉と呼んでいる遺跡構造物が無数にそびえ立っているのが見える。
上空を見上げれば、彼方にぼやけた天井が見え、切り立つ岸壁と繋がっているのがわかった。この階層の遺跡外縁部まで来てしまったのだ。
「りゅぅ――――!」
そこで、聞きたくもない声が聞こえてきてしまった。
慌てて森の中に飛び込んだ。背後をうかがえば、ユーグリフィン剣王国の軍馬もかくやといった怒涛の足音とともに、恐るべき速度で〈白き魔神〉が追いついてくるではないか。
――どうして付いてくるんだ! まさか、僕は餌と思われてるのか? 勘弁してくれ!
六つの歩脚を器用に繰り出し、起伏の激しい森林地帯の地面を鋭い爪で蹴って、凄まじい土煙を上げ、飛び跳ねるかの勢いでみるみるアオハの背を捉える――
――も、張り出した樹木の根に躓いて転倒、多脚があべこべに絡まり、りゅうと悲しげな叫び声を置き去りに、木立の脇の斜面へと転げ落ちていった。
「あっ……お、おい…………」
あの巨体がひっくり返ったのに度肝を抜かれ、動揺のあまり逃げ足を止めてしまった。
あんな複雑な体の構造をしているのだ、総重量から推測しても、とても無事じゃすまない。
恐る恐る斜面を覗き込む。と、下で〝彼女〟が蟷螂の腹をさらけ出し、そこでぐるぐると目を回しているではないか。
「…………まったく。僕は一体何しようとしてる」
この場にロボがいたら、果たして何と諫められたろう。
アオハは斜面を降りていき、昏倒する〈白き魔神〉の傍へと用心深く近付いた。
横たわる〝彼女〟の様子をうかがう。
兜が脱げたこの〈白き魔神〉に、またあらたな発見があった。両側頭部の髪の中から、角状の突起が二本生えているのだ。
――これはなんだろう。魔神の角……いや、もしかしたら耳なのかもしれないが。
山羊の角のように渦巻きながら前に突き出たそれは、しかし髪と同じ
だからか感触は柔らかそうに見えるものの、触れてみたい好奇心はぐっと抑える。野生動物と同様、万が一そこが急所だったら怒りを買いかねない。
代わりに少女の髪に触れた。ふわふわに波打つ前髪を掻き分け露出させた額に、傷らしきものは見当たらない。
だが白いはずの皮膚がそこだけ、まるで銀のような金属質に変化していた。そしてその銀が、干上がるように元通りの白肌に戻っていく様も見てしまった。
「……驚いた、お前は体を銀に変えられるのか。頑丈なんて次元をはるかに超えている」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、少女の瞼がうっすらと開く。
「やっぱりお前は異産なんだな。こんな体、とても僕たちの常識じゃ考えられない」
もっとも〝彼女〟の纏う鋼はいまや色褪せ、他の魔神たちを蹴散らした威風は見る影もない。お陰で、このおかしな魔神への恐怖心はアオハの中から消えつつあった。
観念して、〝彼女〟を促すように手を差し出す。
「わかったよ、僕の負け、降参だ。急に襲いかかるのも、追いかけっこもなしだ。お前を封滅するのも、今はひとまず保留にしておいてやる。休戦協定、というやつだ」
「りゅん!」
にっこりとした〝彼女〟が、アオハの手にかじり付こうとしてきた。歯がかちんと空を噛んだのに呆れながら、引っ込めた手で今度はちゃんと〝彼女〟の闇色の手を取ってやる。
「ああ、もうひとついいか。血を吸うのもなしだ。これも忠告しておく」
と同時に、〝彼女〟の腹の虫がきゅうと鳴く。いきなり反故にされたらしい。
「勘弁してくれ。これ以上は、僕が失血死してしまう……」
胴体まで含めれば、両者の圧倒的な体格差。何とか引き起こしてやった〈白き魔神〉に、アオハが対等面して伝えてやった代案がこうだ。
「……お前、口があるなら胃なんかの消化器官もあるんだよな。何か食べられるものを探してやるから、それで腹の虫を収めてくれないか」
◇ ◆ ◇
端的に言えば〈白き魔神〉とは対話困難だった。まず言葉が全く通じていなかったし、命令なんてどこ吹く風という体たらくだ。
――あの魔女め。武器をやるとか言って、一番最悪のじゃじゃ馬を寄越したんじゃないのか。
「……お前。魔神。名前はあるのか。ないのか」
下着を穿きなおしていくアオハの顔には、ほとほと疲れ果てた表情が浮かんでいる。上半身はまだ素肌をさらしたままだ。
「りゅ」
「まあ名前なんてどうにでもなる。いいか魔神、お前の知的探究心は尊重しよう。失敗を恐れぬ積極姿勢は賛辞に値する。〝――無謀な挑戦心は明日へと至る鍵となる〟とは、かのレリクス工学者ファミリオ・サンクテルの言葉だ」
シャツのボタンを留めていく。さっきの滝壺で洗濯がしたかったが、それも後回しだ。
「――だが服を脱がすのは禁止だ! 服を脱がせて逆さ吊りも禁止、絶対禁則事項だ!!」
「んー/……りゅん?」
「お前が〝りゅ〟しか言えないのは理解した。男の衣服を軽々しくひん剥いて楽しかったか? 一応、異性……になるのか? ああ、まったく。何なんだこの狂った状況は」
女性に裸をさらすなんて体験を、それも女性とみなしてよいものか判断不能な相手に。
頭を抱えるアオハのズボンを、屈みこんでまだまじまじと睨んでくる少女。自分からあれほど興味を持ったくせに、いざ世界の真実を知れば、よっぽど奇特なものを見たという顔をして。
「それはもういい。それよりお前の名前だ。ええと、白い車輪……車輪がどうとか」
霊廟で魔女が何か語りかけてきた気もしたが、今のアオハには知ったことではない。
「言葉が通じる通じないはもう諦めた。せめて名前くらい教えてくれ。いや、やっぱりいい。僕がお前に名前を付けてやろう。そっちの方がずっと話が早そうだ」
だから有無を言わさず、強引に話を進める。対話の初歩から始めるしかない。
「〝異文化交流は、物や知識の交換から始めよう〟――と、これは僕の父親の言葉だ」
アオハの話にてんで興味がないのか、鼻っ柱に指先を突き付けてやっても、猫みたいにくんくんとにおいを嗅がれてしまう始末だった。
「ああ、待てよ、女性の名前なんてまったく思い浮かばないぞ。……ええと」
指折り数えながら、思いつく限りの女性名を口にしてみる。
「――フランネリ、ロズリィ、アッチェラム……ふむ」
彼女らはみなアオハの知る女性異産審問官の名だった。
「……フリャンネリュ/ロリュリィ/アッチリュリュ/…………りゅりゅ?」
すると、なんとこの魔神、アオハの声真似を始めたのだ。指折りまで倣う始末だ。
「驚かすなよ、お前は言葉の真似ならできるのか?」
「りゅ?」
ころころと鈴が鳴るような声のせいで、うまく発音できていないのが惜しい。
「でも勘弁してくれ、そもそも教会には女性が少ないんだ。それじゃあこれならどうだ、プリム、ファン、それかリヨン――駄目だ、これじゃ犬か猫に付ける名前みたいになってしまう」
何故こんな怪物相手に頭を抱えているのか、自分でもわけがわからなくなってきた。
「りゅむむ……」
「女性名、女性名……そうだ、本からの引用なんてどうだ? アイナス・エッカート。ルミエイラ・ハロゥイム。ヨンセイダ・カヅキ――」
「――りゅー/ゆみおーら? /りゅみおーら! /りゅおう!」
その響きが舌に馴染むのか、〝彼女〟がある一つの名に反応を見せた。
「なんだ、そいつが気に入ったのか? よし、お前の名は今から〝リュミオラ〟だ」
「りゅ……/りゅみ?」
「そう、リュミだ。リュミオラ。聞いて驚くな? かの名著『千年旅行記』に登場する不死人の歌姫、ルミエイラ・ハロゥイムから拝借したんだぞ」
解説がまるで理解できていないのは目に見えてわかったが、それでも〝彼女〟は歓喜のあまり〝リュミオラ〟を復唱しながらアオハの周囲を飛び跳ねてまわった。
満面に嬉しそうな表情を浮かべている〈白き魔神〉、リュミオラ。言葉は通じないものの、想像よりずっと高い知性を持っているのかもしれなかった。
「りゅみー!!」
感極まったのか、またアオハに巨体で飛びかかってくる。異産審問官が異産を手にするのは仕事柄珍しくもないが、異産にしてもとんでもない拾いものだった。
「わ、わかった、落ち着いてくれ。もう少し逸話を教えてやるから。『千年旅行記』の作中で語られたルミエイラの歌は、のちに学院主都で曲が付けられたんだ。曰く、〝君は永遠のひと 始まりに君がいて 終わりも君の唇が告げる〟なんていう一節がある。こじ付けだが、先史時代から時を超えてやってきたお前には打ってつけの名だと思わないか?」
歌詞の全てを諳んじられるわけではないが、悠久の歴史を生き続けたルミエイラが、時の流れから置き去りにされることの悲哀を歌っていたのは覚えている。
つい自分の悪い癖が出てしまったと、薀蓄の披露はここで切り上げることにした。
「――アオハ。アオハが僕の名前だ」
「あお/は?」
かくん、とリュミオラが首を傾けた。ついでに顎に手まで添えてみせ、その人間的な振る舞いに感心したのもつかの間、単にそれが自分の仕草を真似ただけなのだと気付かされる。
「そうだ、アオハ。こっちがアオハ、そっちがリュミオラ。そういう決まりでいこう」
身振りでそう伝えてやると、さすがに認識できたらしい。
「あおは、あおは、アオハ! /りゅみ、りゅみ、リュミ! /んひひっ」
するとどうだ、互いに思いが通じたのが余程嬉しかったらしい。六本脚でどたどたと地面を踏み鳴らし、白い歯を恥じらいもなく覗かせ、ぱっと満面の笑顔を咲かせてくれた。
「リュミオラは〝りゅ〟以外も発音できるんだな……」
これなら案外、自分たちの言葉を覚えてくれるのも早そうだ。ただこの先、それ以外の問題が山積みであることも、忘れずに胸に置いておく。
「さて、それよりも問題はこれからだ」
「りゅ/アオハ/もんだい/りゅみ?」
いま自分たちの眼前に立ちはだかっている問題とは、より大局的な問題だ。
「いいか、今の僕たちみたいなのを、ハンター業界ではこう呼ぶんだ――遺跡漂流者、と」
遺跡漂流者。つまりは遺跡探索中に道に迷い、行き倒れそうになっている人間のことだ。
人が遺跡と共存する時代とはいえ、人の住まわぬ領域は広大で、そして過酷だ。遺跡内で孤立し現在位置まで見失ってしまった者の生還確率が下がるのは必然である。
「どこでもいい、とにかく僕は人里に辿り着く必要がある。だがこの時刻から何の備えもなく動いては、行き倒れになりかねない。まず野営の準備をして、移動は明朝からだ」
トラップで送り込まれた先が未知の階層というのが、アオハにとって一番の障害だった。さらにロボという上空の眼が失われたことが、生還できる可能性を大きく削いでいた。
唯一の救いは、ここがキノコかカビくらいしか生えない迷宮内ではなく、食糧調達の融通が利きそうな自然界だった点だ。
「僕に付いてきたければ、お前の好きにすればいい。どうする?」
「りゅう/りゅみぃ?」
と、何故なのか胸をつんと張って、堂々たるしたり顔で見下ろされてしまった。何を訴えたいのかは皆目わからなかったが、自分の好きにする以外の意思がまるでなさそうだ。
「わかったよ、これで僕らは当面、運命共同体だ。よろしくな、リュミオラ?」
そう微笑み返したアオハは、少しだけ年長者面をしてしまっていた。
結論としてアオハは、リュミオラなくしては今宵の夕食にすらありつけなかっただろう。そもそも野営経験のないアオハだ、机上の知識だけではままならないものがあった。
森から滝壺に戻って、そこで魚を捕ろうと思い立ったまではよかったが、釣り針と糸を持ち歩いているはずもない。それどころか所持品すべてが水脈に流されていたのに今さら気付くと、リュミオラがぽかんとする前で絶望に打ちひしがれたりした。
結局アオハが小枝を銛代わり魚を仕留めようと試みたものの、水温が湯のように生温い滝壺には生き物の生息自体が確認できず、洗濯がはかどっただけだった。
アオハができたことと言えば、食べられる果実や野草の知識を披露したことと、火を起こしたこと。高木に色付く林檎を、リュミオラは背丈を生かして難なくもぎ取ってみせた。
そうして二人してまだ渋い林檎を分け合い、明日の食卓にほのかな希望を抱いた。
林檎の中から小さな虫が這い出てくるのを見た時など、リュミオラが顔面蒼白になり、まさしく少女そのままの悲鳴を上げて卒倒してしまったのにはアオハも抱腹を隠せなかった。
人ではない彼女はまるで幼い子どもみたいに、全てが鮮やかなものに映るようだった。
新しい知識も得た。魔神は人間と同じ食べ物を摂取し、焚き火を暖に眠ることもした。
ただ、食事で空腹が満たせるのなら、自分は血の吸われ損だったのだろうか。
そうしたいくつかの疑念を抱きつつ、アオハの数奇なる一日は更けていく。
まだ覚めやらぬ惨劇の記憶には、ひとまず蓋をして。
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