魔女が素直になれるとき(2)



 エルネストが近くにいるせいだろうか。ユウリは彼と話をしているうちに喉の渇きを感じはじめた。

 彼の血を口にするのなら、依頼を請け負う必要がある。けれど彼がいつ依頼を持ってくるのかはわからず、この調子だと間に合わない。


 彼は自身で解決できることでも、ユウリへの依頼として相談をしに来る。どういうつもりで彼がそんなことをしているのか、わからないほどユウリはばかではない。

 大きな仕事を終えたばかりの彼に、依頼になるような厄介ごとを探してほしいなどとは到底言えない。そして、もし我慢をしてユウリが倒れたら、きっと彼は悲しむはずだ。


 ユウリは今回、覚悟を決めて報酬としてではなく、別の方法で血をもらうことにした。

 ユウリがただ血を欲しているから。エルネストの血しか飲めないから。それだけの理由だ。


「エルネスト様、お願いがあります」


 彼女は意を決して、エルネストと向き合う。


「ん? 君の願いはなんでも叶えてあげる気でいるけれど、なにかな?」


「その、……少し、喉が渇いてしまいました」


「ふーん。それで?」


 最後まできちんと言いなさい、とエルネストはユウリに続きを促す。


「血を飲ませてください。……報酬としてではなくて、私はあなたの血が飲みたい」


「いいよ。……ただし、今回はこちらがほしいものを先にもらうけれど、いいかな?」


 エルネストの人差し指が、ユウリのくちびるに触れる。血の対価として支払うものを、彼はそうやって示した。

 ユウリは耐えられなくて、彼から視線を逸らす。熱を持った頬や、赤く染まっているはずの耳を見られるのはもはや仕方がない。けれどエルネストがそれを見つけて、どんな反応をするのか知るのがとても怖かった。


「意味はわかっているんだ?」


「あとにしてくれませんか!? 先に血をください。そのあとでなら」


 エルネストに求められたら嬉しい。ただ知らないことに対する恐怖心と、限界を超えそうな羞恥心はどうにもならない。だからユウリは、彼の血の力を借りて、強制的に素直になろうと考えた。


「それはだめだよ? ずるをしようと考えないことだね」


 考えていることを見透かされて、ユウリは逃げ道を失った。彼の腕が腰のあたりに回されると、心臓の音がわかるほど激しくなり、じわりと瞳に涙が浮かぶ。

 ユウリは涙がこぼれないように、ぎゅっと瞳を閉じた。


「怖い?」


「怖くない、です。は、早くしてくださいっ!」


 これ以上時間を掛けられたら、ユウリはおかしくなりそうだった。彼女は無意識にエルネストの服を掴み、何度か引っ張った。

 それを合図に、エルネストが腕に込める力を強め、やがてくちびるが重ねられた。


 ユウリの瞳から、我慢していたはずの涙がぽろぽろこぼれ落ちる。

 彼女自身がこの先どうなりたいのか、エルネストがどうするつもりなのか。彼女ははっきりと言わないし、彼の真意を聞かずにいる。数ヶ月後か数年後か、近い将来のことすら考えるのが怖かった。

 今はそれすら些細なことで、ただぬくもりと幸せを感じていたい。

 エルネストが国王の側近という立場の高位貴族であることも、世間知らずで人見知りの彼女よりなんでも知っている大人の男性であることも、どうでもいい。

 ユウリはそんな気持ちでエルネストにすべてを任せた。


 彼女がこういう行為がはじめてだと予想できているはずなのに、エルネストは手加減なしだった。

 くちづけの激しさが、愛情の証明ならいいのに。彼女はそう願った。


 やがて、エルネストがゆっくりと離れていく。ユウリはさっそくその感覚を少しだけ切なく思った。おそらく名残惜しいというのは、こういうことを言うのだ。


「大丈夫?」


「……はい。少し、驚いて」


「そう? じゃあ、こちらにおいで。ユウリ」


 いつもの敬称を付けずに、呼び捨てにされただけで、彼女の心臓がどくんと音を立てた。

 最初からすぐ隣に座っているのに、さらに近く――――ユウリはためらわず彼の膝の上に座る。そうしないと、うまく血を吸えないから。


 エルネストが慣れた手つきでタイを解く。

 ユウリはあらわになった彼の首筋を、指先で何度か撫でる。


「こら。くすぐったいよ」


 小さく震えるくちびるが、なんだかかわいく思えて、ユウリは少し背伸びをして自らくちづけをした。

 いただきますの代わりに、そっと触れてすぐに離れる。そのまま彼の肩に歯を立てる。


「……君は少女のように見えるのに、時々本物の魔女だと思うことがあるよ。悪い女性ひとだという自覚がある?」


 もうユウリの思考は、エルネストの血が与えてくれる多幸感で支配されて、きちんとした返事ができない。ぼんやりと、そんなことはないと否定したいと感じたのを最後に、完全に意識を手放した。



 §



 ユウリが目を覚ますと、もう朝の光が窓から差し込む時間だった。

 途中でエルネストが二階の寝室に運んでくれたことや、起きて夕食を食べに行こうと誘われて断った記憶が、頭の中にぼんやりと浮かぶ。


「今、お腹がいっぱいで……夕食はもう食べました」


「あれは食事じゃないけどね? わかった、じゃあ今夜は帰るよ。君の家に泊まるのは自粛しているんだ。一応、あと少しだけ自分で決めた規則を守ることにするよ」


 確かそんなやり取りをした記憶があるが、よく思い出せない。

 ユウリは、妙にすっきりとした気分でベッドから起き上がる。血を口にしたあとは、いつもこうだった。寝間着に着替えないまま寝てしまい、しわしわになった服を伸ばすようにしてハンガーに掛ける。

 クローゼットの中から別のワンピースを取り出して袖を通し、少し寝癖のついてしまった髪を整える。

 それから一階の台所へ行くと、ダイニングテーブルの上に手紙と紙袋が置かれていることに気がつく。彼女はそれを手に取った。



 ――私のユウリへ。昨晩の君はデイジーのようにかわいらしくもあり、大輪のバラのように美しくもあった。なぜこうも繊細なガラス細工のような男の心を乱すのかと、寝ている君に問い詰めたい。そんな衝動を抑えつけるのに必死だったよ。君の寝顔は子猫――。



「ひ、ひゃぁっ!」


 一行目の冒頭、たった数単語で続きを読むことをためらわせる破壊力に、ユウリは悲鳴をあげる。彼の文章力を知っていて、なぜ油断したのか。彼女はテーブルに突っ伏して、しばらく身悶えた。


 彼女は心を落ち着かせることだけに集中して、呼吸を整えてから、問題の置き手紙に再挑戦する。


 寝顔がどんなだったかなど、拷問のような内容をなるべく流し読みしていくと、必要なのは最後の二行だけだった。



 ――朝食になりそうなパンと果物を買っておいたから、きちんと食べるように。近日中に休暇を取って会いに行くから、いい子にして待っているんだよ? エルネスト――。


「要件だけ書いてほしかった……」


 よく考えると、彼は普段の言動から気障きざだ。「私の」というよくわからない所有権の主張も、今まで何度もされていた。けれど彼のおどけた態度から冗談だと思って、ユウリは今まで聞き流してきた。

 手紙にされ、文字として残されると、もう誤解しようもない。

 こうして、彼女が読み返すことのできない手紙が、また一通増えてしまった。


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