魔女が素直になれるとき(1)
夏のピークは過ぎたのかもしれないが、ユウリにはまったく実感がわかない。暑いせいで本当に喉が渇くことや、エルネストに会えない不安のせいだろうか。数日前からなんとなく血を飲みたい衝動に駆られていた。
けれど症状は軽く、まだ我慢できる。少しぬるめに入れたお茶で喉の渇きをごまかしながら、ユウリはエルネストが来てくれる日を待っていた。
時々、エルネストから手紙が送られてきた。内容は、歌劇の
以前、ジョエル・ウェラーの屋敷で、彼の養父の手紙を読んでしまったことがあるが、エルネストの書く文章は、それを遙かに超えるものだ。
前男爵のときはあくまでも他人事で、愛する妻に渡さなかったという手紙の内容を、ほほえましいとすら感じていた。けれど今回、当事者になってしまったユウリは、赤面して、身もだえて、手紙をそっと封筒に戻した。
大切なことが書かれているかもしれないから、送られてきた手紙には目を通すしかない。たったそれだけのことがユウリにとっては、何かの刑罰のようだった。
エルネストは頭がよく、人の心に踏み入るのが上手いというのが、ユウリの彼に対する評価だ。けれど彼女は最近それに「絵心が皆無」、「文章力はあやしい方向へ突き抜けている」という
人の心を乱す文章なのだから、へたではないはずだ。ユウリとしては、どうやったらあんなに恥ずかしい手紙が書けるのか、興味半分、恐ろしさ半分という気持ちだ。
彼からの手紙に対し、ユウリは淡々と返事をした。気にかけてくれることへのお礼。サイモンと出かけたこと、兄と二人きりでも、以前のように苦しい気持ちにならなかったことなどだ。
決して「不安だから早く会いたい」などとは書かない。
便せん三枚に、びっしりと書かれた彼からの手紙は、事件については一切触れていない。だから、まだ忙しいということ以外、彼女はなにも知らずにいた。
寂しい日々を送っていたユウリは、今朝ようやく違法賭博事件の終わりを知った。
『ハイラントの名門貴族の末路。美術品を買いあさるための資金か?』
早朝の
もしかしたら今日、彼が訪ねて来てくれるかもしれない。逮捕されたあとも、事件の後処理で忙しいだろうから、まだここへは来ないかもしれない。
(あまり、期待しないでおこう)
そう唱えてみても、ユウリの心の中から期待は消えない。無意識に、いつもより念入りに掃除をして、彼の好きな茶葉があるか、なんども確認してしまう。
ユウリは日中、本を読みながら昼寝をすることが多いが、そんな気にもなれないまま時間が過ぎていく。
そして、西日がまぶしい時刻になってから、待ちわびた人物が魔女の店の扉を開けて、中に入ってきた。
「やあ、ユウリ殿。待たせたね! 心細くなかったかい?」
一ヶ月ぶりのエルネストは、長いすの近くに立っていたユウリのところまで、迷わず歩み寄る。
「いらっしゃいませ」
彼はまるで決まりごとのように、ユウリを胸に閉じ込めた。それからユウリが拒否するまでが普段の流れなのだ。
けれど、彼女は、今日に限ってはされるがままになっていた。
本当に寂しくて、会えなかった時間を取り戻したい気持ちだった。
「……なるほど、
ユウリは許される限界ギリギリまで、そうしているつもりだった。だから返事をせずに、瞳を閉じて、彼の鼓動の音を聞く。いつも振り回されてばかりいるから、たまには困らせたいのだ。
「ユウリ殿? 本当にどうしたのかな?」
エルネストはきっと戸惑っているに違いない。ユウリは自分が優位に立っている気がして、口もとがほころぶ。もうこれくらいでいいだろうと、彼から離れて、その表情をうかがう。
ユウリの予想通り、彼は困惑して首を傾げていた。
「私が嫌がらなかったら、エルネスト様が困るかもしれないと思って。……予想が当たりました」
彼は、ユウリが拒むことを知っていて、からかう気持ちでいつもこういうことをするのだ。だから、彼女が拒まなければ終わり方がわからなくて戸惑うはず。
終わらせてあげないのは、彼女が考えた嫌がらせのつもりだった。もちろん、本当はただそうしたいだけの言い訳なのだが。
「困るというか、少し違うと思うよ」
「負け惜しみですか?」
「……いいや。嘘だと思うのなら、もう一度同じことをしてみるといい」
彼は性格が悪い。考える時間を与えれば、きっとユウリの上を行って、絶対に勝てるはずがない。
「なにか、企んでいるから嫌です」
「よくわかっているじゃないか。さすが私の魔女殿」
エルネストが諦めて指定席に深く腰を下ろしたので、ユウリはお茶を用意するために、奥へ下がる。
彼女はしばらく使われることのなかった椿の茶器に手際よく茶を注いだ。
ハイラントの紅茶と違うのは、途中で急須から湯呑みへ移し替え、温度を下げる工程だろうか。
その作業を、手を抜かずにきちんとすれば、優しい花の香りが広がっていく。渋くなりすぎず、まろやかな口当たりのお茶になる。
お盆の上に二人分の
以前は彼の隣に座るとき、毎回心の中で言い訳をしていたはずだった。少しずつ、彼との関係も彼女自身の気持ちも変わっていく。
「久しぶりの味だ。屋敷で飲むのとは少し違う。なぜかな? この店で飲むのがいいのかもしれないね」
ユウリは少し違うのではないかと感じていた。
場所ではなく、誰と一緒に楽しむかが重要だった。
実際、日中一人で飲んだときよりも、何倍も幸せな気持ちになれるのだから。それをわざわざ口にするのは気恥ずかしく、彼女は黙ったまま同意の意味で頷いた。
彼女にとっては違うが、エルネストにとってこの店でお茶を飲むというのは、隣に必ずユウリがいるということだから。
「私のいないあいだ、サイモン殿と仲良くなれたのかな?」
「はい。帽子を渡して、それからご縁のあるアルトリッジ家で
彼と会えないあいだ、普段と違う出来事があったとすれば、それはサイモンと出かけたことだけだ。だから、エルネスト宛ての手紙の中身の大半は、サイモンのことになっていた。
「君からの手紙……行ったとしか書いてないから、さっぱりわからなかったよ? 文官が持ってくる報告書よりも素っ気ない」
「苦手なんです。エルネスト様みたいに、恥ずかしいことをすらすら書いたりできません」
「私は日常を思いつくままに綴っただけだよ? 君は素直じゃないから仕方がないか。……じゃあ、私がいないあいだなにをしていたのか、ゆっくり聞かせてくれるかな?」
ユウリも彼に聞いて欲しいことがたくさんあった。祖父母の友人だった老紳士に会ったこと。そこで昔話を聞けたこと。サイモンと目が合っても、逸らさずにいられたこと。
なによりも、ユウリが前向きになれる切っ掛けはいつもエルネストの言葉だということ。
一番言いたいことは、結局恥ずかしくて言葉にならない。それでも彼は途中で相づちを入れたり、余計なことを言ってユウリを困らせながら、きちんと話を聞いてくれた。
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