夏に届いた花便り(9)
アルドリッジ家の芙蓉の花は、もともとワトー家にあったものだ。レオンが去り、ハナが去り、薬草園の管理が行き届かなくなった頃に、ウォルトが移したのだ。
彼自身も、兄の急死により家を継ぐ身となり、ワトー家で過ごした日々も、ハナのこともだんだんと過去の思い出になっていった。
「あなたはいつも、私に感謝していると……そうおっしゃっていましたね?」
昔話をしているうちに、ウォルトはまた、ユウリのことをハナだと誤認してしまった。
サイモンもユウリも、この老紳士が若かりし頃のハナに対し心残りがあるのだと察して、もう訂正するのをやめる。
「私はワトー家に婿入りするために、あなたに無理矢理血を飲ませた。失敗してもまだ諦めず、隠した。ハナ様がすでに相手を定めたことを、ただ一人正確に知っていて、言わなかった!」
震えるしわしわの手が、ユウリのほうへ伸びてくる。ユウリは老紳士の手をそっと両手で包み込む。
「レオン君に、貿易商の仕事がどれだけ大変か、知識が必要かを語って、ふさわしくないと思い込ませた。彼の意思で出て行くように仕向けたんです。……もしハナ様が駆け落ちなどせずに、最初から才蔵様に真実を打ち明けていたのなら、違った結果になっていたでしょう」
才蔵とハナの関係修復に時間がかかったのは、ハナがなんの相談もせずに家を飛び出したことが根本にあった。
彼女は、まだ相手が定まっていないと思い違いをしていた。だから、頭では父の言葉に従おうとして、心と矛盾してしまった。
彼女が最初からレオンの血を口にしたことを自覚していれば、家出などせずにひたすら両親を説得していただろう。
ウォルトは、知っていて黙っていたことをずっと後悔していたのだ。
けれど、彼に感謝していたという祖父母の認識は違うのだろう。きっと祖母なら、命に関わる重大なことを忘れてしまった自身に、責任があると言うはずだ。
だからユウリは、老紳士から聞いた話をつなぎ合わせて、祖母が言いそうなことを代弁する。
「でも、結局あなたは私をレオンに会わせてくれたでしょう?」
「……あなたが日に日に弱っていって、無理をして笑っているのを見ていられなくなった。それだけなんです」
「あなたは、私に憎まれたいのですか? 許されたいのですか?」
ユウリが問うと、老紳士は何度も首を横に振った。
「……わかりません。自分でも」
「どちらにしても無理です。だって私は頑固だから、今更変えられません。あなたの本当を聞いても、感謝している気持ちは、ずっとずっと変わりません」
ハナもレオンも、ウォルトに感謝した気持ちのまま天国へ旅立った。だから、そのままでいいのだとユウリは思う。ユウリの知っている祖母は頑固で、祖父はもっと頑固だった。そして、二人とも情に厚い人間だった。
「ハナ様……」
老紳士の表情は穏やかだ。だから、ユウリもサイモンもそれ以上なにも語らず、ただ三人で芙蓉の花を見ていた。
§
アルドリッジ家から帰る馬車の中、ユウリはサイモンに少しだけ自分の気持ちを打ち明けた。
「お兄様、私……今はまだそうなれませんが、あの方に心を隠さずにいられたらと、そう思うんです」
「あの方? 伯爵閣下のことか?」
ユウリは頷く。本来ならもっと前に話していなければならない、大切なことを告げるために大きく息を吐き、心を落ち着かせる。
「お気づきかもしれませんが、私はエルネスト様の血を口にしてしまいました。あの方は、私が定期的に血を必要としていることは知っていますが……、その……私にとって、血を与えてくれる人物がどういう存在なのか、きちんと話していません」
「血を口にしたことは、僕も父上も知っている。閣下から聞いたからな」
「そうでしたか……」
ユウリはあまり驚かなかった。エルネストならそうするだろうと、どこかでわかっていた。
「うん。……ユウリ、聞いてくれ。僕より君のほうが閣下のことを知っているだろうけど。あの方は、見た目は軽薄そうだけど、本当は結構真面目だと思う。ユウリのことを考えてくれていると思う」
「はい」
彼女としても、それは疑いようがなかった。彼はいつも、ユウリが困ることがないように、先回りばかりしているような人だから。つい最近だって、喉が渇いたらどうすればいいか、ユウリが聞きもしないのに勝手に提案してくるような人だ。
エルネストはとても優しい。けれどユウリにとってその優しさは、少し怖いものだった。彼に頼ったら、自分がとても弱くなりそうで。だから彼の手を取ることができずにいる。それなのに、握られたら振り払えないのだから、きっと最初から弱い人間なのだろう。
「父上も、僕も、ユウリのためにできることはするつもりだ。だから、なんでも話してほしい。なんでもじゃないな……とりあえず話したいことだけでいいから」
「お兄様、ありがとうございます。……ふふっ、泣かなくてもいいのに」
二十四にもなって、涙を隠すこともしないサイモンに、ユウリはハンカチを差し出した。
吸血鬼の末裔は、本当に不器用で愚かでとても弱い。だからきっと近いうちに滅びるのだろう。もしかしたら、ヒノモトではもう滅んでいる可能性もある。
ユウリがこの世界で、たった一人残された最後の吸血鬼かもしれないのだ。
愚かでも、幸せを願いことは許されるだろうか。だって少なくとも目の前で涙を流す兄は、妹の幸せを望んでいるのだから。
エルネストが今の任務を終えて、また魔女の店に来てくれたら。
そうしたら、なにかを変えていかなければならないのだろう。きっとユウリ自身の意思で。
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