夏に届いた花便り(8)



 どこかで誰かがハナの名前を呼ぶ。吸い込む大気は生暖かく、額や首筋に流れ落ちる汗が不快だ。


「お嬢さん? どうした? 大丈夫かっ!?」


「ハナ様、ハナ様っ!」


 すぐ近くにレオンの声、遠くからはウォルトの声。強烈な血の香りで意識が朦朧とするなか、ハナは抱き起こしてくれたレオンから逃れようと必死にもがく。


 これ以上は、我慢できそうにない。一緒にいたら、彼の血をすすってしまう。


「……ハナ様、血がほしいのですか?」


 なぜウォルトがそのことを知っているのか、訳がわからないままハナは必死に否定した。


「ちがっ……放っておい……て……ちが、う」


 呼吸が荒くなり、目の前の景色は夕暮れのようで、どこかに焦点を定めることが難しい。支えてくれているレオンのぬくもりがもっとほしい。彼から漂う血の香りをもっと直接味わいたい。思考から理性が消えて、おそろしいケダモノになってしまう。ハナはそれが怖くて仕方がなかった。


「ハナ様、大丈夫です。私はすべて存じ上げておりますから。さあ……」


 ハナのくちびるに、なにかが押し当てられる。それはおそらく男性の指先で、錆びた匂いが広がっていった。


(――――違う! 違うの! レオンじゃなきゃ、レオンの血が飲みたい!)


 ほしいものと似て非なる異物がハナの身体の中に入ってくる。ひどい拒絶反応で、身体が痙攣けいれんした。


 そこからはもう、ハナ自身にも自分の本能を抑えられなくなった。ふらふらと身を起こし、支えてくれていたレオンのシャツを力一杯ひっぱる。あらわになった首もとに勢いよく噛みついた。


「なっ……お嬢さ、ん……、やめろ、なにするんだ!」


 あれほど欲していたはずなのに、レオンの血は砂と涙の味だった。

 拒絶されていることがショックで、まったく美味しく感じられない。涙の味がするのは、ハナ自身の瞳からとめどなくあふれているせいだろう。

 ハナは逃れようとするレオンの広い背中に手を回し、さらに深く歯を立てる。


「離せ……! 離せ! やめろよ。こんなの普通じゃないっ」


 レオンが強い力で逃れる。突き飛ばされたハナの背中に衝撃が走る。


「レオン君! 落ち着いてください。ハナ様……こんなはずでは……」


 身体が痛いことなど、今のハナにはどうでもよかった。レオンに拒絶されてしまったという事実だけが心を支配する。

 明日からはもう友人ですらなくなってしまう。

 好きな人から血をもらう行為は、吸血鬼の末裔にとってもっとも幸せな瞬間のはずだった。けれど彼の意思を無視して、こんなことをして許されるはずがない。

 喉の渇きは癒えたのに、ハナの心は絶望して押しつぶされそうだった。


 そのまま眠気に似た倦怠感で、ハナは意識を手放す。このまま眠って、すべてをなかったことにして消えてしまいたい。彼女は本気でそう思った。



 §



 レオンは、ハナが最初に血を口にしたときの話を詳細に聞かせた。

 彼女の頭の中にそのときの光景や、二人の青年の声がはっきりと浮かぶ。それと一緒に、絶望に似た感覚までもが戻ってきて、心を締め付けた。


「そうなんだ……。私、都合よく忘れて……?」


 レオンが頷く。


「そのときに、ウォルトさんからワトー家の話を聞いたんだ。そのあとも、こっそりハナに血を飲ませた。おまえのために、忘れたままのほうがいいと思ってた。でも本当は、俺が取り乱して、突き飛ばしたことをなかったことにしたかったのかもしれない」


 きちんと説明もせずに、あんなことをされたら、彼が拒絶するのも当然だ。そしてレオンは吸血鬼の末裔であることを知っていて、あのとき一緒に暮らそうと言ってくれた。今のハナにはそれが嬉しい。


「俺が離れたら、俺のことを考えなくなれば……、そうしたらハナは別の人間から血をもらうようになるはず。そう思って出て行ったのに、いろいろ間違えた。ごめんな? 苦しかっただろう?」


 無自覚だったとしても、ハナが定めた相手はレオンだ。どうやっても変えられない。

 レオンが出て行ったのは、離れれば相手を選び直せると考えていたからだった。けれど確証がなかったから、ハナが発作を起こしたときのために、ウォルトにだけは行き先を告げていたのだった。


「……たくさん間違えたのは私も同じ、じゃあ……おあいこだね?」


 レオンはハナの人ならざる部分に一度は怯えた。一方でハナのほうも、勇気がなくて彼の差し出してくれた手を拒絶した。


 そう言ってハナが笑えば、レオンも照れながら笑う。


 ウォルトはおそらく、才蔵から吸血鬼の末裔について話を聞いていて、ある程度ハナの体質を知っていた。

 最初の吸血でハナを拒絶したレオンに、事情を説明してくれたのも、わざと彼の住んでいる場所の近くを通って再会させたのも、全部彼だった。

 彼は全てを知っていて、いつも見守っていてくれた。それなのに、今のハナには返せるものがなにもない。


 その晩、狭いベッドでハナは大好きな人のぬくもりを感じながら眠りについた。

 隣に誰かがいることに慣れなくて、しかもそれが想い人なら心が安まるわけがない。だから彼女は、まったく眠れなかった。


 レオンを選ぶと決めて幸せなはずなのに、両親やウォルトのことを忘れたわけでもなく、穏やかな気持ちとは違った。


「少し時間をもらって、それから謝りに行こう。二人で。別にどちらかを選んだら、もう一方を捨てなきゃいけないわけじゃない」


「そんなわがまま許されるのかしら?」


「お嬢様なんだから、わがままでいいんだぞ?」


「……そう、かな?」


 それから、レオンはなんとか庭師の仕事を得て、ハナも少しずつ新しい生活に慣れていった。

 ハナの両親は、レオンを選んだことではなく、なんの相談もなしに出て行ったことを嘆いて、すぐには許してくれなかった。

 このときも、ウォルトが仲裁をして、最終的にレオンがワトーを名乗ることになった。

 子供が生まれたら、ワトーの跡取りとして教育するという条件がつけられたが、これについてはレオンのほうが積極的だった。

 彼としては生まれてくる子に多くの知識を与えたかったのだ。彼自身、教養がないことで苦労をしたから、子に同じ道を歩んでほしくなかったのだ。


 そして二人は新しい家を手に入れた。


 ハナは自宅の一階で、東国の薬師の店を開くことになった。店の名前を考えている頃、近所の子供から「黒髪の魔女だ!」と叫ばれたのを切っ掛けに“東国の魔女”を名乗ることにした。

 ちょっとした冗談で名乗ったつもりが、最初は警戒され、だんだんと愛される名前になっていった。


 彼女が“不幸を食べる魔女”と呼ばれるようになるのは、その数年後の話――――。


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