夏に届いた花便り(2)
ハナは、七つのときにヒノモトからハイラントへやって来た。父は貿易の仕事、母は薬師をしている。
ハナの父、
やがて彼は、ヒノモトとシンカのあいだだけではなく、取引を西国まで広めることを考えて、実行に移した。
そうして西国のハイラントに移り住むことになったのは、ハナが七つのとき。
一年目は港の近くに家を借りて、そこで暮らしていた。それが三年目にして、都の高級住宅街に大きな屋敷を構えるにまで、財を成した。
ハナが物心ついたときからすでに、両親は忙しい人たちだった。それでも彼らは愛情を込めて、一人娘を育てていたはずだ。
けれど彼女は、大きな屋敷に移ってから、前よりも両親との距離を感じるようになった。
たとえば屋敷が広すぎて、誰かが帰ってきても気がつかないこと。
たとえば、今まで母に教わっていたはずの手習いや勉強を、家庭教師が教えてくれるようになったこと。
以前よりも、暮らしが豊かになったはずなのに、なぜかさみしい。住む家が変わると、皆が同じようにせつない気持ちになるのだろうか。いつかはその環境に、慣れるのだろうか。
十歳のハナは、そんなことを考えながら、早朝の庭を散策していた。
ハナや才蔵は、吸血鬼の末裔だ。強い光に当たっても、病気になるわけではないが、太陽が苦手だった。
大人は仕事のために、嫌いな光を我慢しなければならないらしい。彼女はまだ子供だから、無理をしない。散歩をするのなら、曇った日の朝と夕方が心地よい。
屋敷のどこになにがあるのかは、三日も暮らせば覚えられる。けれど、働いている人の名前や顔は覚えきれていない。
この日、ハナは散歩中に、同じ年頃の男の子に出会った。彼は紅茶色の髪と目をしていて、くっきりとした眉毛が印象的な少年だ。
着古した麻のシャツは、彼には少し大きく、袖を何度もまくってある。着ているベストやズボンには繕ったあとがあり、やはりサイズが合っていない。
落ち葉を拾っている様子とその格好から、下働きの少年だとわかる。
「あなたは、だぁれ?」
屋敷の中で、はじめて同じ年くらいの子に出会った。ハナはうれしくなって、声をかける。
「うわぁっ!」
一生懸命仕事をしていたのだろう。少年は声をかけられるまで、ハナの存在に気がつかなかった。そして、驚いて尻餅をついてしまう。
急に声をかけられたからではない。おそらくは、ハナの容姿に驚いたのだ。
髪の色も、目の色もこの国ではめずらしい黒。それに鼻の高さや肌の色も、ハナの容姿はハイラント人とは全然違う。
「あ、スイマセン! 俺は。庭の手入れをしている者です。えっと、ここに住んでるお嬢さん? ですか?」
少年は、敬語に慣れていないようだった。ハナも最近になってようやくハイラント語での会話に戸惑うことがなくなった程度だが、少年のほうが言葉がつたない。
ハナのような異国人というわけではなく、
「ハナ・ワトーです。よろしくおねがいします。あなた、何歳? 名前は?」
「あーっ、えーっと。名前はレオン。十二歳……です」
少年は立ち上がり、ズボンについてしまった土や落ち葉を払ったあとに、そう名乗った。
「十二歳? 十二歳でもう働いているの?」
それはハナにとっては驚きだった。港の近くに住んでいた頃から、彼女の家は比較的裕福だった。だから自分といくつも変わらない年の少年が、すでに働いているなどと、考えもしなかった。
「あ、うん。働いてる……。じゃないな、働いています。庭師の親方に弟子入りして、見習いってことになってます」
「じゃあ、驚かせてしまったおわびに、手伝ってあげる!」
「え? いいです。俺の仕事だから」
「どうして? そうしたら、早く終わるでしょう? 私が手伝ってあげるって言っているのに!」
ハナにとっては、誰かの手伝いをすることは間違いなくいいことだ。幼い彼女は、まだ身分や立場の違いがよくわかっていなかった。
「いい。必要ない、……です」
「でも、手伝いたいだけなのに。なんで?」
「仕事だからだよ! お嬢さんに手伝わせて、服や手が汚れたら俺が怒られるだろ!」
しつこくハナが手伝おうとすると、レオンがたちまち不機嫌になる。もうそれまでの丁寧な言葉使いもすっかり忘れていた。
「こらぁ! レオン。お嬢さんになんて口聞いてんだ! 飯抜きにするぞっ!」
突然、低い声が響く。庭師――――、つまりレオンの親方の声だ。
ハナが声のしたほうを見ると、見たこともないほどの大男が、勢いよく近づいてくるところだった。
日焼けした肌に、グレーの髪。船上で一緒だった海の男たちよりも勇ましい体つきの男性だ。
ハイラント人が、ヒノモトの人間よりも背が高いことはよく知っているが、ハナにとって大男は恐怖の対象だ。
まるでヒノモトの風神雷神か仁王像みたいで恐ろしくなり、とっさにレオンの背中に隠れた。
「……怒られてんの、俺なんだけど」
レオンが親方に聞こえない声でぼそりとつぶやく。
そうかもしれないが、怖いものは怖い。ハナはぎゅっと目をつぶってレオンにしがみついた。
「親方! お嬢さんが怖いってさ。やめてよ、見た目が怖いんだから大声出すの」
「はははっ! そりゃすまないことをしてしまいましたなぁ」
親方は、大きな声で笑い出す。レオンにも、ハナにも怒っている様子はない。
本当に、ただ体と声が大きなだけでいい人なのかもしれない。彼女はレオンの背後からひょっこり顔を出す。
「あの、失礼なことをしてごめんなさい。レオンのこと、怒らないでください。……悪いこと、していないです」
「だとよ! レオン。優しいお嬢様でよかったなっ!」
親方はいい人だった。それなのにこのときの彼女は、なにかが喉につかえているような、そんな気持ちになる。
なぜハナが許す立場になるのか、理解できなかったのだ。
親方がレオンの紅茶色の髪をわしゃわしゃと掴む。それはきっと、親しい関係だから許される、愛情表現なのだろう。
レオンの表情は、ちょっとふてくされたようでもあり、照れているようでもあった。
「ハナ様。こちらにいらっしゃいましたか。朝食のお時間ですよ」
屋敷のほうから、今度はハナの知っている人物の声がする。彼はウォルトという名の青年で、父の秘書のような立場だ。
シワのない三つ揃いのスーツ、しっかりと結ばれたタイ。彼の蜂蜜色の髪が乱れているところを、ハナは一度も目撃したことがない。黙っていると冷たい印象だが、ハナにはとても優しい、兄のような人だ。
年齢は二十歳とまだ若い。ワトー商会と取り引きのあるほかの商会の次男坊で、才蔵のもとで修行中、と彼女は父から聞かされていた。
ほかの従業員とは違い、彼はワトーの屋敷に住んでいる。忙しいはずなのに、ときどきハナの世話まで焼いてくれる、優しい青年だった。
「おはようございます、ウォルトさん。もうそんな時間でしたか?」
「ええ、ご両親がお待ちですよ」
ハナはウォルトが差し出した手に、自分の手をちょこんと乗せた。彼はまだ子供のハナを、いつもレディのように扱ってくれる。
「そうでした!」
彼女はそのまま屋敷の中に入りかけて、庭師の師弟に挨拶をしていないことに気がつく。
「……レオン、親方さん。ごめんなさい。またね!」
ハナが勢いよく手を振ると、庭師の二人はしっかりと頭を下げて、見送った。
「なにかあったのですか?」
「えっと、同じくらいの年の子に会えたのがうれしくて、私も一緒に掃除をしたいと言ったら、怒ってしまいました」
親方がレオンを叱った件があったから、彼が怒ったことを正直に言っていいのか、ハナは少しだけ迷った。
けれどきっとウォルトなら、ハナの言いたいことをちゃんとわかってくれる気がした。だから彼女は、先ほどまでの出来事を、そのまま話す。
「ははっ、そういうことですか! ハナ様は、どうして彼が怒ったのかわかりますか?」
彼女は何度も首を横に振る。
「庭の掃除はレオンの仕事だから、と言ってました。でも、私にはちょっと難しいです。手伝って、そうしたら早く終わって、みんな嬉しいと思ったの」
「仕事だから、でしょうね。彼はそれでお金をもらっているのですから。そしてあなたは仕事を命じる立場です」
「人から仕事を取ってはいけない、ということですか?」
「いつもそうではありません。たとえば同じ立場……使用人同士で協力する、というのはあると思いますよ」
「……それと、どう違うのでしょうか?」
ウォルトの言葉を聞いても、ハナの胸の中のもやもやはなくならない。
「あの少年の仕事が忙しいとき、ほかの使用人が手伝う。別の日に、今度は少年がほかの者の仕事を手伝う。対等な関係なら、むしろ素敵なことですよ」
「私と一緒の子はあまり、いません」
港の近くに住んでいた頃は、外に出れば近所の子供たちと遊ぶことができた。異国人のハナをからかったり、いじめたりする子供も多いが、楽しいこともたくさん経験した。
大きな屋敷に住むようになってから、外に出る機会が極端に減ってしまった。ときどき、取引先の子供との付き合いがあるが、それぞれの親の立場を考えて、幼いながらに遠慮がある。
「お寂しいのですか?」
「……はい。少しだけ」
ハナは、ウォルトと話をしているうちに、もやもやの正体に自分で気がついた。
きっとハナは同じ年頃の対等な友達がほしかったのだ。レオンと友達になりたかったのに、彼とは対等になれず、さみしかった。
「私、なにもしていないのに……働いているレオンより偉いのですか?」
それが一番の問題だった。ハナは結局、働いているレオンの邪魔をしていた、わがままな子供でしかない。偉いのは彼で、彼女は役立たずの子供。
親から与えられたものばかりで、ハナにはまだ誇れることがない。それがもやもやの正体だった。
「ハナ様は、とてもいい子ですね」
両親も、ウォルトも、レオンも、ここにいる人間は皆働いている。ハナだけが、特別でハナだけが役立たず。
彼女は、レオンとの出会いではじめてそれに気がついた。
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