ひとりぼっちの牡丹(7)



 伯爵邸まで戻る馬車の中。

 エルネストはユウリが傷の手当てをする様子を思い出していた。すると彼の頭の中に、ある疑問が浮かぶ。



(あんなに普通に手当ができるものだろうか……?)



 最初に血を与えたとき、そして風邪を引いたとき、彼女はエルネストの真っ赤な血を見た瞬間、あきらかに熱を帯びていた。飲む前から、すでに血に酔っていたはずだ。

 それなのに、コンクエストの手当をしていた彼女には、喉の渇きを我慢する様子もなく、随分と手際よく終わらせていた。


 彼女がエルネストの血を飲むときの様子を思い出しながら、彼はある仮説を立ててみる。

 もしかしたら彼女にとって、エルネストの血だけが特別なのではないか……、という仮説だ。



(すまない、ユウリ殿。私は悪趣味なんだよね……)



 心の中で謝罪しながら、彼は内頬を強く噛んでみる。すると遅れて口の中に錆びた鉄の味が広がった。

 それから彼は、向かいのシートに座るユウリの様子を観察する。自分でも、本当に悪い男だとあきれながら。


 彼女はしばらくエルネストを眺めて、ぼんやりしていた。無意識に彼のほうへ手を伸ばし、急に我に返ったようにびくりと震える。伸ばしかけた手を引っ込めて、ひざの上でぎゅっと拳をつくる。

 視線を逸らし、揺れるカーテンを眺めたり、ひざの上に置かれた拳を見つめたり、あきらかに落ち着きがない。


「エ、ルネスト様……。窓を開けてもいいでしょうか?」


「どうしたんだい? 夜風で風邪をひいてしまうといけないから、だめだよ」


 嗅覚も普通の人間よりすぐれているのだろうか。彼女がおかしくなった原因がわかっているのに、エルネストはつい意地悪をしてしまう。


「あ、の……。エルネスト様、どこかお怪我をされていますか?」


「ん? ああ、ちょっと馬車の揺れで口を切ってしまったようだけど。たいしたことじゃないから、大丈夫」


 乗り心地のいい伯爵家の馬車で、口内を切るはずもない。


「くち、ですか……?」


「どうしたの? 調子が悪そうだ」


 エルネストは、まだ気がつかないことにして、体調を確認するために隣へ移動する。

 走った直後のように、呼吸を荒くして、瞳を潤ませている彼女は、とても愛おしく、かわいらしい。


「あ、その、……血が……」


「そうか! すまない、ユウリ殿。君がそんなに他人の血に敏感だとは知らなかった」


 彼はわざとやっているのに、今気がついたかのように振る舞った。


「馬車、降りたい、です。もう……血の、香りが……」


 ユウリがエルネストの胸を押す。力なく、手が震えているのは、本能に逆らっているせいだ。


「舐めてもいいんだよ? ほら、こちらへ来なさい」


 ユウリがびくりと身を震わせる。相当我慢の限界にきているのだろう。彼女は震える手でエルネストのくちびるにそっと触れる。


 エルネストは、彼女の顎に手をそえて、くちづけをうながす。吐息が伝わるほど間近まで引き寄せると、彼女の両手が顎にそえられた手を捕らえる。そして――――。


「い、痛っ!」


 思わず悲鳴をあげたのは、エルネストだった。

 彼が油断しているうちに、ユウリは彼の手の小指の付け根あたりに噛みついたのだ。完全に意識が血の香りに持って行かれたせいで、普段より容赦がない。


「ユウリ殿……?」


 傷になった部分から赤い血が流れ落ちる前に、ユウリが舐め取る。まっすぐエルネストだけを見つめている彼女は、半泣きになりながら怒っていた。



(あれ? もしかしてバレてるのかな……?)



 彼女の体質を利用して、くちづけをさせようと企んでいたことがバレていたのだ。

 意志の強そうな瞳は「悪いのはあなたです!」と非難するようだった。

 時々、こうやって油断をすると、痛み目をみる。だから、エルネストは彼女とどれだけ一緒にいても、飽きることなどない。

 一度、ごくりと喉を鳴らしたあと、彼女の表情は急にとろんと蕩けて、愛おしそうにエルネストを見つめてくる。

 ユウリにとって餌がどういう存在なのか。彼は勘違いなどしていないはずだ。


「ねぇ、さっきコンクエスト少佐の血を見ても平気だったはずだよね?」


 頭を撫でながら、食事中の彼女にたずねても、当然答えはない。今はもうエルネストの血に溺れて、声すら届かないのだろう。



(あぁ。きっとユウリ殿は私がいなくなったら……)



 それは前から――――以前に彼女の祖父母の墓を訪れたときから、薄々勘づいていたことだ。彼女の祖母は、祖父のあとを追うように亡くなった。偶然、ではなく血を与えていた人間を失ったせいなのだろう。


 彼は、ユウリの餌になったつもりだった。しかし実際は逆だ。

 はじめて血を吸ったあの瞬間から、エルネストはユウリの命を握り、心も支配する唯一の存在になっていた。


「ねぇ、私の魔女殿。今回は、私が無粋だったね? 反省しているから許してほしい。今度、どんより曇り空の花畑か、深夜の星空のもとか。……そういうところで続きをしようか?」


 血に酔った彼女のくちびるを奪っても、あまり楽しくない。男装したユウリと馬車の中でというのは、あまりにも雰囲気が悪すぎた。

 ハイラントの理想的な紳士を自称するエルネストは反省したが、彼女からの返答はない。


 彼女は拒否するときははっきりと意思表示をする。だからなにも言わないのは、すべて肯定の意味。

 彼は、彼女が食事中で話す余裕がないのをいいことに、都合のいい解釈をする。


「どんな場所がいいか……君も考えるんだよ?」


「いやです。もう寝ます、お休みなさい」


 どのあたりからきちんと聞こえていたのかわからないが、ユウリはきっぱりと断った。そのままエルネストのひざを枕にして、目を閉じる。

 エルネストの提案を拒否したのに、すぐに甘える。こうやって結局どちらが相手を翻弄しているのか、いつもわからなくなるのだ。


「……残念。おやすみ、ユウリ」


 エルネストは仕返しに、敬称をつけずに彼女の名を呼んでみた。薄情なユウリは無反応で、そのうちに静かに寝息をたてはじめた。


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