素直になれる魔女の秘薬(2)



 ユウリが伯爵邸を訪れるのは、これが二度目だ。使用人は親切で、異国人のような外見のユウリに向けられる視線も好意的だ。

 エルネストに伴われて、一階の庭園に面した応接室に案内される。

 今日は暑いので、窓は開け放たれ、強い日差しを遮るレースのカーテンが時々風で膨らんだ。


 エルネストは現在二十七歳で、伯爵という地位にある。そのことは当然知っているユウリだが、よく考えてみるとそれ以外なにも知らない。

 彼の両親が健在なのか、いるとしたら挨拶をしなくていいのか、そもそも未婚の男女が互いの家を行き来しているのがどうなのか。ユウリの心配はどんどん膨らみ、やがて黙っていられなくなる。


「エルネスト様、お伺いしてもよろしいですか?」


「なにかな?」


「エルネスト様のご家族は、その……」


 爵位を継いでいるのなら、亡くなっている可能性もある。だからユウリはどう切り出してよいのかわからなかった。


「君が私の個人的なことを聞くなんてめずらしいね」


 エルネストが驚いて目を見開く。


「申し訳ありません」


 まずいことを聞いてしまったかもしれないと、ユウリはさっそく後悔した。彼はユウリの事情をそこそこ知っているが、ほとんどユウリが聞いてほしくて話したことばかりだ。

 彼が家族のことを話したいのかどうか。彼女にはわからない。

 ユウリにとって、彼が特別な存在だとしても、同じ気持ちを強要することはいけない。


「いや、そうじゃないよ。よい傾向かなと思っただけだ。私の両親は健在だよ。早めに引退して領地でのんびりしている。ほかにも他家に嫁いだ姉が二人いるんだ。そんなに変わった事情もないから、話題にしなかっただけだよ」


「そうだったのですか」


 ユウリはほっと胸をなで下ろす。とりあえず、挨拶をしなければならない彼の身内は、ここにいないとわかったからだ。


「両親も姉も、時々この屋敷に来るからね。そのときは君に紹介するよ」


 紹介されても、どうすればいいのかわからない。ユウリはそんな日が訪れないことを祈りながら、曖昧に頷く。


「伯爵家の領地はね、夏は涼しく冬はかなり寒い。君にはちょうどいいかもしれないね。私が領地に帰るときには連れて行ってあげよう」


「結構です! 理由がありません」


「そうかな? ……そうだ! レイモンに会うまで、まだ時間があるから、なにをしようか。伯爵邸で自慢できることといえば、薔薇園と図書室くらいかな」


「薔薇園?」


 伯爵邸の薔薇園が立派だというのは、ユウリも知っている。初夏、ちょうど大輪の薔薇が見頃を迎えているのだと、エルネストが教えてくれる。


「この部屋からも見えるよ」


 彼が大きな掃き出し窓のほうへ視線をやる。ユウリは窓に近づいて、薄いレースのカーテンをそっとどけてみる。

 初夏の正午過ぎの日差しは強く、彼女の目は一瞬眩む。赤や黄色、そして白い薔薇が咲き誇る伯爵邸の薔薇園は、とても美しいもののはずだ。ユウリにだって花を愛でる心はある。それなのに、眩しすぎてよく見えない。


「どうかな?」


「はい、とてもきれいなお庭ですね」


 完全な社交辞令だった。こういうときのユウリは、隣にいる青年とは同じものを共有できないのだと強く思い知る。

 エルネストが美しいと思う花を、一緒に見ることができない。ユウリが美しいと感じるものは、きっと彼の目には暗すぎて映らない。

 ユウリが笑ってみせると、エルネストの手が伸びてくる。両頬をひっぱって、彼女に嫌がらせをする。


「残念だけど、君の嘘はすぐわかるよ」


 意地の悪いエルネストは、笑って流して欲しいときには笑わない。今は真摯な眼差しでユウリを見つめている。


「ちが、う」


 彼の手は、ユウリの頬をひっぱって遊んでいたはずだ。それがいつのまにかユウリが彼から目を逸らすことを妨げるように、彼女の輪郭に添えられている。

 ユウリに下を向かせないように、エルネストをちゃんと見るように。

 血にも、酒にも酔っていないときに触れられると、ユウリはどうにかなってしまいそうだった。


「図書室へ行こうか?」


 頬から離れた彼の手が、今度はユウリの手を取る。


 案内された図書室は、魔女の店の書架の十倍はあるすばらしい場所だった。ユウリはその場所を気に入って、夕方になるまでめずらしい本を読み漁った。



 §



 本来の目的を忘れかけたユウリを、エルネストが別の部屋へ連れ出したのは、建物や木が作りだす陰が、随分と長くなってからだった。


「ここで待っていてくれる?」


 連れて行かれたのは客室ゲストルームの一つ。エルネストに背中を押され、ユウリはその部屋へ足を踏み入れる。彼はなぜか、廊下に立ったままだ。


「どうしてですか?」


「どうしてって、支度部屋に男がいたらまずいでしょう?」


 そう言ってエルネストは片目をつむってみせる。


「え……?」


 なんの支度なのか、ユウリは状況が飲み込めない。けれど、ぶざけた彼の態度から、ろくでもないことを考えている予感だけはした。


「今夜、とある夜会でレナルドと会えそうなんだ。ちょうどいいからユウリ殿も来てくれ! ドレスが必要だからここで支度をしてほしい。じゃあ、あとはよろしく」


 エルネストは早口で重要なことをさらっと言い残し、そのまま扉をパタリと閉めた。カツカツと廊下を踏みならす音が遠ざかる。

 残されたユウリが、言葉の意味をきちんと理解したのは、足音が完全に聞こえなくなってからだった。


「ま、待ってくださ……」


 彼女は我に返り、エルネストを追いかけようと扉に手を掛ける。扉の向こうに彼の姿はもうなく、代わりにふくよかな年嵩の女性が立っていた。


「どうされましたか? 私は本日ユウリ様のお仕度を整えさせていただきます、ターラと申します。お湯の準備は整っていますので、こちらへ」


 ターラと名乗る使用人を中心に、同じお仕着せを着た伯爵家のメイド四人に取り囲まれる。

 ユウリが戸惑っているあいだに浴室に連れていかれ、服を脱がされ、洗われる。


 浴室にはふんわりと薔薇の香りが漂うが、今のユウリには、それを楽しむ余裕がない。


「えっと、ちょっと待ってください。エルネスト様とお話しをしたいのですが……」


「ご安心ください。お召し替えが終われば、あとでいくらでも。お二人は本当に仲がよろしいのですね、ふふっ」


「そんなことありません」


 ターラの言い方だと、まるでユウリが片時もエルネストと離れたくないと言っているようだ。とんでもない勘違いだと、ユウリは真っ赤になって首を横に振る。


「恥ずかしがることではありませんわ。さあ、お早く」


 四人のメイドたちによって、水気を取り払われ、身体にクリームがすり込まれる。あまりの手際のよさに、彼女は抵抗すら忘れる。


 身体を拭かれたあとは、コルセットをぎゅうぎゅうに締め付けられる。


「ユウリ様は、ほっそりとしていらっしゃいますから、無理に締め付けなくてもいいでしょう。それよりも……」


 ターラの視線がユウリの胸元を捕らえた。


「少しだけ、ほんの少しだけ、足しましょうね。ドレスの時だけは、どんなご令嬢でもそうするのが普通なんですよ」


 ターラはユウリが傷つかないように「どんなご令嬢でも」という部分をやたらと強調しながら、胸元になにかを詰め込んだ。


「さて、合わせてみましょうね」


 ユウリは、メイドの一人が手にした青い光沢のあるドレスに目を奪われる。装飾がひかえめで落ち着いた印象だが、同色のレースが惜しげもなく使われている。花のモチーフがアクセントでかわいらしい雰囲気だ。


「こちらでよろしいですか?」


 ユウリは無言でうなずいた。よろしいもなにも、用意されたドレスを着ないとこの部屋からは出られない。

 ユウリは純粋なハイラント人と比べると、小柄で足も小さい。それなのに用意されたドレスも靴も、彼女にぴったりだった。


「さすが旦那様! ユウリ様のお似合いになるものをよくご存じでらっしゃいます」


 デザインはともかく、身長や腰回りのサイズがぴったりなのはどうしてなのか。ユウリは考えるのが恐ろしくて、深く追求するのをやめた。


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