閑話~風邪と彼と鍵~



 トントンと店の扉を叩く音で、ユウリは目を覚ます。時間が何時なのかは彼女にもよくわからない。分厚いカーテン越しの光から、すでに太陽が高い位置にあることだけは、ぼんやりとした頭でも理解できた。

 規則正しい生活をしている普段の彼女なら、もちろん起きている時間だ。


「ユウリ殿? いないのかな?」


 ここを訪れる客人は変わり者の伯爵ただ一人。ユウリはずきずきと痛む頭を抱え、悪寒と戦いながら、ベッドから這い出る。

 二階にある寝室の窓際から、ちらりと外を覗く。店の入り口と同じ面にある窓だが、雨よけの屋根が邪魔をして一階の様子はわからない。


 彼女はめずらしく風邪を引いてしまったのだ。そんな日に限ってエルネストが訪れる。



(喉が渇いた……。こんなに早く?)



 もう一度、扉がノックされるが、こんな状況では居留守をするしかない。エルネストから血をもらって、まだ一ヶ月も経っていない。それなのに、体調不良のせいでもう喉が渇いている。

 今、もし彼に会えば、依頼も請け負っていないのに、血を欲してしまいそうだった。


 しばらく眺めていると、あきらめたエルネストが立ち去る姿が見える。ユウリはほっとする気持ちと、寂しい気持ちの半々で、再びベッドにもぐり込んだ。


 エルネストの姿を見ただけで、余計に喉が渇く。水差しとコップはすぐ近くに置いてあるのだが、それすら取りに行く気力がなくなる。

 どうせ水を飲んでも、この渇きはどうにもならないのだ。


 目を閉じると、これが夢なのか現実なのかわからない気持ちになって、時間の感覚すらなくなっていく。



 §



 彼女の夢の中では、エルネストが柔らかい表情を浮かべて、じっと見つめている。


「大丈夫? ひどい熱だよ」


 大きな手が、ユウリのおでこにあてられる。少し冷たく感じる手が心地よい。ずっとそうしていてほしいと彼女は感じた。


「風邪を引いてしまったようです。頭が痛くて、喉が渇きました」


「水を飲んだほうがいいだろうね」


 エルネストは部屋をきょろきょろと見回して、すぐそばに水差しとコップがあるのを見つける。ユウリは布団から手を伸ばして、彼のズボンの裾を引っ張った。


「ちがう、の……」


 エルネストがいなければ、きっとユウリも我慢できたはずだ。でも彼はここに現れてしまった。それにこれは夢なのだから、なにを言っても許される。


「血がほしいのかな? もしかして」


「ほしいです、だって……とても、喉が渇いたの。風邪のせいです、きっと」


 夢の中なら、ほしいものはほしいと素直に言える。


「あげてもいいけれど、いいのかい? これってツケになってしまうよ。ユウリ殿は対価になにをくれるのかな?」


 エルネストは時々、試すような、意地の悪いことを言う。病気のときくらい、優しいだけの彼が出てきてくれてもいいのに、と彼女は悲しくなる。


「対価……?」


 はっきりしない思考で、彼女はエルネストに払えるものを必死で考える。貴族のエルネストに金品など渡してもだめだ。彼はお金にまったく困っていない。ユウリがあげられるもの、エルネストが好きなもの。

 それはなんだろうと彼女は必死に考えて、そして答えにたどり着く。


「……エルネスト様、茉莉花茶ジャスミンティー


「ん? お茶? いやいや私の欲しいものは、そういうものじゃないよ」


「いつも、お金、払ってないです……よね?」


 彼は用もないのに店を訪れては、お茶やお菓子を食べている。だから、ユウリがちょっと喉の渇きを潤すくらい、認められるはずだ。


「ははっ、私の負けかな……? いいよ。早く元気になれるように、血をあげよう」


 机の上にはなぜか都合よく、りんごと、果物ナイフが置いてあった。今日の夢はほしいものが勝手に現れるようになっているらしい。

 エルネストがナイフを手にして、左手の人差し指を傷つける。この夢のなかでは、なんでもユウリの希望が叶うのだ。

 いくら夢でも、一方的に自分の希望が叶うだけの妄想はしたくない。ユウリはできることなら、エルネストの願いも叶えたいと思った。


「私があげられるものでエルネスト様がほしいものなら、なんでもあげるのに。言ってくれたら、いつでも、なんでも……」


 指先がユウリの口内に入ってくる。夢でもちゃんと美味しく感じられることに彼女は歓喜して、うっとりと酔いしれる。


「この状況で私の自制心を試すなんて、どれだけ悪い魔女なんだろう。紳士の肩書きを今すぐ捨ててしまいたいよ」


 もう血の香りに酔ってしまったユウリは、耳に届く言葉の意味がよくわからなくなっていた。なんとなく、エルネストを困らせていることだけはわかって、なぜだかそれが嬉しい。

 人の困った顔を見て、よろこぶのは趣味が悪い。ユウリは、エルネストの言うように、悪い魔女なのかもしれない。



 §



 幸せな眠りから目が覚めると、部屋の中はすっかり暗くなっていた。少し熱が下がっていて、それと一緒に喉の渇きもなくなっている。

 部屋の中にはつけたはずのないオイルランプが灯されている。

 そして、暖かみのある明かりが、背の高い青年の影を映し出す。


「やっとお目覚めかな? 調子はどう?」


 いるはずのない青年が、なぜかここにいる。ユウリは心臓が止まりそうなほど驚いて、口をぱくぱくとさせる。

 彼女がベッドに座った状態で動けずにいると、近づいてきたエルネストが、顔を覗き込むようにしてから、軽く額をぶつけてくる。額同士が触れて、いくらなんでも顔が近すぎる。


「まだけっこう熱があるんだね。今日、なにか食べた?」


 ユウリは風邪のせいではない体温の上昇と、心臓の高鳴りを感じて押し黙る。悪化したら、確実にエルネストのせいだ。

 彼女はやっと離れてくれた青年をにらむ。


「なんで? どうやって入ったんですか!?」


「ユウリ殿。この家の鍵は、針金で開いてしまうような粗悪な鍵だったよ」


 エルネストは堂々と不法侵入した事実を告げる。全然悪いことをしている自覚はないようだ。


 その後彼は、今日一日の行動をユウリに聞かせる。

 まず、彼は午前中に店をたずねた。帰り際に二階の窓からユウリが覗いているような気配を感じとったというのだ。


「勘のいい私は、君の体調不良を疑った。だから、街で果物を買ってすぐに戻ったんだ」


 もう一度入り口の扉をノックして、外から大きな声でお見舞いにきたことを告げてもまったく反応がない。だからエルネストは、ユウリの無事を確認するために、仕方なく家の鍵をこじ開けた、というのが真相だった。


「安心しなさい。君の眠っているあいだに鍵の職人を呼んで、丈夫な鍵に替えてもらったんだ」


「ななな、なんでそんな勝手にっ!」


 エルネストは細い鎖のついた鍵を手でもてあそびながら、嬉しそうに話す。もともとついていたものより一回り大きなその鍵が、新しいユウリの家の鍵なのだろう。


「なんでって、君が不用心だからだよ? あまり私に心配をかけないようにね」


 エルネストは細い鎖のついた鍵を、部屋の机の上にそっと置く。代わりに近くに置いてあったりんごとナイフを取る。それから、ベッドの横の椅子に座り、器用に皮をむく。


「貴族の方でも、そういうことができるんですね?」


 危なげのない手つきで皮をむくエルネストに、ユウリは感心した。


「寄宿学校にいるうちに、これくらいはできるようになるものだよ」


 話をしているあいだにも、三日月型に切られたりんごがお皿の上に並べられていく。エルネストはそのうちの一つを手にとって、ユウリの口に放り込む。


「少しは食べないと、治らないからね」


 口の中にみずみずしいりんごの味が広がる。朝からまったく食欲のなかったユウリだが、エルネストの切ってくれたりんごはすっと喉を通る。



(りんご……? それに、エルネスト様の指……)



 彼女が見ていた夢の中にもりんごが出てきた。そしてエルネストはその夢の中で左の薬指を傷つけた。現実のエルネストの指には白い包帯が巻かれていて……。



(え……?)



 ユウリは、急にめまいを覚えて、ベッドに倒れ込む。

 なぜ喉の渇きが消えたのか、エルネストが怪我をしているのか。それらを考えると、ユウリのアイデンティティが崩壊する。だから彼女は目を閉じて、現実逃避にもう一度眠ることにした。


「ユウリ殿? どうしたんだい!? 大丈夫?」


 心配したエルネストの手が、額に伸びてくる。彼女は布団で顔を隠し、なんとか彼から逃れた。


「もう大丈夫です。きっとあと一晩寝たら治りますから……」


「そう? 明日の朝、出仕前にもう一度会いに行くからね?」


「ありがとうございます。……おやすみなさい」


 ユウリは布団をかぶったまま、小さな声で挨拶をする。心はずっと落ち着かないままだが、彼が来てくれたこと、心配してくれていることは嬉しい。


 彼女は動揺しすぎて、エルネストがどうやってユウリの家に鍵をかけて立ち去ったのか――――疑問に思うことも、あとで思い出すこともなかった。

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