からくり箪笥と恋文(1)
ユウリは悪夢と喉の渇きで目を覚ました。部屋の中は真っ暗だ。
二階の寝室の窓からは、家々の屋根の隙間から少しだけ空を望める。重たいカーテンを手でどけてみると、うっすらと東の空が白みはじめる時間だった。
起きるのには少し早いが、もう眠れそうにない。
「エルネスト、様……」
本人を前にして、一度も口にしたことのない呼び方で、彼女は青年の名前を呼んでみる。
最近、彼女の夢の中には、少しくせのある金髪の青年が、よく出てくる。彼は悪夢と喉の渇きの原因で、唯一それを静めてくれる存在だった。
「喉の渇きなんて、我慢すればよかった。そうしたら、こんな気持ちにならずに済んだのに」
小さな声で彼女はつぶやく。ほかに聞いている人がいないとしても、心の中で思うだけではなく、音にして、気持ちをはき出したかったのだ。
はじめて彼と会ったとき、ユウリは本を読みながらうたた寝をしていた。目が覚めたら、背の高い青年が立っていたから、ただ驚いた。
店に客がいたことも、青年がユウリに柔らかい笑みを向けたことも、彼女にとっては動揺しても仕方がないほどの出来事だった。
二回目、彼はユウリの髪に触れた。彼はきっと、めずらしいものに興味があるのだ。ユウリのことは、珍獣かなにかだと思っているに違いない。聡い彼女は、そんなことは十分に承知していた。
それなのに、ひどく喉が渇いた。彼の血を
三回目、四回目、拒絶して嫌われようとしても、彼はただ笑ってお茶を飲んでいるだけだった。わざと遠ざけようと、嫌な言葉を彼に向けても、全然通じない。
(ひどい! なんで私に優しくするの? 無責任です……)
ユウリは普通の人間とは違う。吸血鬼の末裔は、成人すると人の血を
ユウリの吸血鬼としての血はとても薄いから、父も兄も人の血を吸ったりしないから。だから、血を吸うことなどないのだと、彼女は油断していた。
五回目――――。つい我慢できなくなって、彼女はエルネストに報酬がほしいと言ってしまった。
おかしなことを言う娘だ、気持ちが悪いと嫌ってくれたら、きっともう喉は渇かない。ユウリは彼のことが嫌いになって、普通に戻れるはずだった。
それなのに、エルネストは彼女の思ったとおりには動いてくれなかった。彼には人を困らせる才能があるのだ。
彼が自ら進んで指先を傷つけたところから、ユウリの記憶は曖昧だ。 ふんわり甘い香りが漂って、くらくらした。血を口にしたら、もう人間ではなくなる。わかっていても抗えなかった。
変わっていくことに恐怖して、泣いてしまった。
ユウリはもう、エルネストの血がなければ生きていけない。そういう存在になってしまった。
「お祖母様、お祖父様……私、とてもばかなことをしてしまいました」
ユウリは突然、祖父母に会いたくなった。
朝日は雲に隠れて、優しい光で夜を終わらせようとしている。この天気ならば、目のよすぎる彼女でも、まぶしさで
「よしっ!」
日差しが強いと、日陰で眠りたくなるユウリだが、朝は強いほうだ。寝間着を脱いで、顔を洗って、パンをかじる。
彼女が外出するときは、いつもの羽織ではなく、ハイラントの上着を着る。ただでさえ容姿が特徴的なのだから、これ以上目立っても仕方がない。
支度を終えたら、念のため店の入り口に「臨時休業」という札を掛けて、外に出る。
たった一人の客人は、休日が決まっていないようで、いつも突然やって来る。彼女は、今日彼が訪れませんようにと祈りながら、扉の鍵をかけた。
ユウリは帽子を目深にかぶり、念のため日傘を持ってどんよりとした朝の街を歩く。大きな通りまで歩けば、
まずは祖父母に手向ける花を買い、馬車の乗り場までゆっくりと歩む。
舗装された道を歩いていると、一台の箱馬車が追い越し、急に止まる。
「ユウリ殿!」
窓からひょっこりと顔を出したのは、エルネストだった。すぐに降りてきて、ユウリのほうへ歩いてくる。
貴族の青年としてはわりと軽装だが、仕立てのよいスーツにステッキと帽子という装いの彼は、今日も彼女に笑顔を向ける。
澄んだ青い瞳に金髪。整った容姿の長身のエルネストは、よく言えば優しそう、悪く言えば軽薄な印象だ。
伯爵で、国王の側近。頭も顔もいいこの青年が、なぜ休日のたびに陰気な魔女の店にやって来るのか、ユウリは聞けずにいる。
来てもいい、と言ったのは彼女だ。けれどそのうち飽きるのだろうとも思っている。
「おはようございます、伯爵様」
「君が外を歩いているなんて、まぼろしかと思ったよ」
「失礼です。私だって買い物くらいします。伯爵様は、どこかに行かれるのですか?」
ユウリがたずねると、エルネストは「なぜわからない?」と言いたげな顔でおどけてみせる。
正直に言えば、ユウリは彼のこういう態度が嫌いだった。
「今日は休みなんだ。とても
天気のよい日は嫌い、雨の日も嫌い、以前ユウリがそう言っていたから、曇りならいいだろうということだ。妙に自信のある態度も、なんでもわかっているような表情も、ユウリは大嫌いなのに。
「申し訳ありませんが、今日はこれから出かけるんです」
「乗り合い馬車で? それなら、私が送っていこう。さあ、遠慮せずに」
断る隙すら与えず、エルネストはユウリから日傘を奪い取り、手を取った。
「え、えっ? ちょっと……」
抵抗しても、嫌そうな顔をしても、彼には効果がない。自然な手つきでユウリを
「で、どこへ行くつもりなのかな?」
「祖父母のお墓に。港の先の丘の上にあるんです」
「ああ、あのあたりか」
すぐに馭者に指示を出し、馬車が動き出す。
港の先には丘があり、教会と墓地がある。見晴らしがよく、貴族や富裕層が埋葬される場所だ。
「そういえば、君のお祖母様は貿易商の仕事はしていなかったんだね?」
「ええ。ひいお祖父様が、幼いお祖母様を連れて、家族でこちらに移り住んだと聞いてますが、船乗りは気性の荒い男性も多いですし、女性が船に乗るのは大変なので、一代飛ばして父が跡取りになったんです」
貿易商ならば、商談のために自ら船に乗る必要がある。女性が海の男たちに囲まれて、窮屈な船上で生活するのは差し障りがあるから、継がなかったのだ。
「……そうなんだ? 普通、優秀な婿をもらって継がせるものじゃないのかい?」
エルネストの言うことはもっともだ。普通なら、商才のある優秀な従業員を婿養子しにして、跡継ぎにするはずだ。けれど、吸血鬼の末裔には、とても不器用でそんなことはできなかった。
「祖父は屋敷に出入りしていた庭師だったんです。
ユウリの祖父は庭師で、異国の言葉も話せないし、複雑な計算もできない人だった。優しいが、職人気質の不器用な人物だ。
大人になってから、異国の言葉を覚えるのは難しい。だから、祖父は亡くなる直前まで、ずっと庭師の仕事をしていた。
祖父が跡を継がない代わりに、ユウリの父が幼い頃から、曾祖父と一緒に船に乗り、貿易の仕事を教えこまれた。
「君のお祖母様は愛する殿方と結ばれたということなんだ? よく許してくれたね?」
「ええ。貴族ではありませんから、ワトー家はそういうことに寛容なんです」
ユウリの心臓がどくん、と音を立てる。これ以上祖母の話をすると、エルネストに吸血鬼の
「ふーん。お墓参りをするのなら、私も一緒に行っていい?」
「……どうぞ」
彼女の本音としては、彼にあまり祖父母の話をしたくなかった。けれど、上手く断る理由を探せず、つい承諾してしまった。
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