はじめての依頼、はじめての報酬(4)
「ユウリ殿、報酬についてきちんと話していなかったね?」
テーブルに分厚い封筒を置いたエルネストは、めずらしく真剣な表情でユウリを見る。
「そうですね。十日もかかる大仕事ですから、いただくべきものはいただきます」
「では、とりあえず前金だ」
彼女は、机に置かれた封筒の中身を確認する。そこには働き盛りの労働階級の男性が数ヶ月かかって稼げるか稼げないか、くらいの多額の紙幣が入っていた。
「口止め料ですか? ……私、お金に困っているように見えますか? 依頼内容を口外するような人間だと思われるのは不快です」
普段から不機嫌そうな彼女だが、いつものは半分照れ隠しなのだろう。今の彼女は封筒の中身を見て、明らかに腹を立てていた。
彼女は自身の仕事にプライドを持っているようだし、ワトー商会の血縁ということで、金に困っている様子もない。
「いやぁ……これは困ったな。いろいろな意味で」
「そんなに心配なら、不審な動きをしたら、口封じに
「そんな物騒なこと、レディに言えるわけがない。君は報酬を必要としていないのか……」
もちろん彼は、彼女に危害を加えるつもりはない。けれど、口止め料を彼女が受け取ることで“契約が成り立った”という体裁を整えたいのだ。
「……じゃあ……私の秘密、伯爵様に教えてあげましょうか? それを知ったら、あなたは私の弱みを握ったことになるのでしょう? だから、私は秘密を守らなきゃいけない。違いますか?」
彼女は頭がよかった。結局、金を受け取ったあとに、口封じをされることを警戒しているのだ。より確かな裏切らない理由として、あえて弱みを見せることで、安全を確保するつもりなのだろう。
互いに他者に知られたくない秘密を握り合い、牽制し合う、そちらのほうが裏切られにくいという提案だった。
エルネストとしては、彼女に疑われていることは心外だ。けれど秘密には興味があった。
だから悪い笑みを浮かべて、深く、一度だけ頷く。
提案してきたのは彼女のほうなのに、ユウリはなにかを言葉にしようとして、何度も途中でやめてしまう。
エルネストは根気よく、彼女を待った。
「ま、魔女の知識を借りたいのなら、お金なんかじゃだめです。……たとえばあなたの血、とか」
「血? また物騒だね」
一生懸命に強気を装って、けれど彼女の声は震えていた。
「私は吸血鬼の末裔だから、
普段の彼ならば、笑い飛ばす話だった。そうできなかったのは、ユウリが泣きそうな気がしたからだ。この話を笑い、拒絶したら、彼女が笑みを向けてくれる日は永遠にこない。
(そうか、私はきっと彼女の笑顔が見たいんだろうな)
怒ったり、恥ずかしがったり、ユウリにはきちんと感情がある。それなのに、彼はまだ一度も彼女が笑っているところを見ていない。だから、半信半疑のまま、とりあえず試してみたくなった。
「君の美しさは、人ならざる者のそれだということか。まあ、納得かな? 血、というのはどれくらい?」
「ちょっと傷をつけて、舐めるだけでいいんです」
エルネストはタイを止めていたピンを外して、尖った針で左手の人差し指をぷすっと刺した。少し遅れて、鮮やかな赤が現れる。
「試飲してみるといい」
飲みたいと言ったのはユウリのほうなのに、彼女は血を恐れていた。だからエルネストは薔薇色の小さなくちびるに、指先を無理やり押し当てた。
くちびるについた血を舐め取ると、彼女の表情が急にとろんと溶けた。先ほどまで震えて、ためらっていたのが嘘のように、積極的に指を舐める。そうしてるうちに、ピンで刺しただけの血はすぐに止まってしまう。
一度指先から離れたユウリのくちびるは、エルネストの親指の付け根辺りをさまよい、勢いよく歯を立てた。
「……っ!」
彼が痛みで身を固くすると、ユウリは我に返ってすぐに離れる。
「ごめんなさい! わ、たし……」
「かまわないよ。足りないんでしょう? そんなにお腹がすいていたのかな?」
ユウリは泣いていた。きっと誰かを傷つけてしまった自身の
エルネストは、その涙で彼女の言っていることが真実なのだと確信する。人としてありえないほどではないが、彼女の犬歯は尖っていたし、血を舐めている姿は、普段の彼女の様子とまるで違っていた。
肩で息をして、熱い吐息を吹きかけながら、愛おしそうに
だから、エルネストにとって、彼女の願いを叶えてあげることこそが重要で、それ以外は些細なことだった。彼女がどういう存在なのか、それはあとから知っていけばいいことだ。
食事を終えたユウリは、ぼんやりとした表情で後ろに倒れ込みそうになる。エルネストは彼女を引き寄せて、胸の中に閉じ込める。彼女はそのまま抵抗せず、むしろ積極的にもたれかかる。普段ならあり得ないことだ。
「君、いつもはどうしているの?」
もし、ほかの男からも血をもらっているのだとしたら、許せそうにない。彼にとってはとても重要なことだった。
触れようとしたら逃げる懐かない猫が、自ら彼のほうへやって来たのだ。嬉しい反面、無防備すぎる彼女のことが心配になるのは当然だ。
「……知らない、わからないの。……はじめてなの……私、飲んだことな……い」
言い終わらないうちに、彼女は目を閉じて眠りにつく。髪に触れただけで威嚇していた彼女の変わり様が、エルネストにとっては心配でたまらない。
「はじめて? ユウリ殿……? それ、どういうことかな? お腹がいっぱいになって眠るなんて、赤ん坊と一緒じゃないか」
軽く揺すっても、彼女はもう起きない。エルネストはあきらめて、彼女の枕役に徹することにした。
「魔女殿は、私への感謝が足りないな。私が紳士の中の紳士でなければ、食べられていたのは私ではなく、君だと思うよ。絶対に」
きれいな黒髪にくちづけをするくらいの権利は与えられているはずだ。彼はそんなふうに考え、彼女が眠っているのをいいことに実行に移した。
半時ほどして、目を覚ました彼女が悲鳴をあげるまで、エルネストは
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