はじめての依頼、はじめての報酬(5)
目を覚ましたユウリが悲鳴あげて、怯えながら長いすの端まで逃げた。
けれどすぐに、自分から甘えたのだという事実を思い出して、真っ赤になって謝る。ころころと表情が変わる彼女をエルネストがからかうと、彼女がまた怒る。
そんな不毛なやり取りをしばらくして、噛み痕がそのままになっているのに気がついたユウリが、慌てて手当の道具を取りに行った。
それでようやく、彼女は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「ごめんなさい、痛かったですよね……?」
すっかりしおらしくなったユウリが、消毒薬を含んだ綿をエルネストの傷口にあてる。それから薬草の香りがする傷薬を丁寧に塗りつける。
「もう止まっているのだから、そのままでいいのに。噛まれたら君の下僕になるとか、そんなことはないんだよね?」
「ありません。でも傷口から雑菌が入ったら大変ですから、消毒をして布をあてておきます」
そのままでいいと言いつつ、小さな手で一生懸命手当する姿を、エルネストはほほえましく思った。痛かったのは事実なのだから、労ってもらう権利くらいはあるのだろう。
左手に巻かれた包帯の下に、彼女の秘密が隠されているというのは、彼にとっては気分のいいものだった。
手当が済むと、エルネストは“吸血鬼”について問いただすことにした。
ユウリは冷えてしまったお茶を新しいものに交換してから、またダイニングの椅子を持ってきてそちらに座った。
長いすは三人掛けなのだから、わざわざそんなことをする必要はない。そう思ったエルネストが隣に座るように提案しても、首を横に振るだけだ。
エルネストが彼女と特別な距離で接していい時間は、すでに終わってしまったらしい。どうやら彼女を素直にさせるには、痛みを伴う代償が必要のようだ。
餌を与えたときだけ触れさせてくれる、完全に懐かない猫じゃないか、と彼は嘆く。
「……で、さすがに詳しく聞いておいたほうがいいと思うんだけど? 君はいったい何者なのかな?」
「……ヒノモトの吸血鬼の末裔です」
「師匠だったっていう、君のお祖母様が吸血鬼だったのかな?」
ユウリはこくりと頷く。
「正確には祖母も吸血鬼の末裔です。私の血は、とても薄いはずなんです。父にそういう特徴はありませんが、私は祖母に似たみたいです。先祖の血が、とても強く出たんだと思います」
「先祖返りみたいなものかな。……君のご両親はご健在なんだね?」
「はい、ワトー商会の会長が私の父です。……あまり似ていないでしょう?」
ワトー商会の会長は、エルネストに魔女の店を紹介した人物だ。東国の血を引いている、というのは有名な話で、顔立ちは確かにハイラント人とは少し違う。けれど目の色も、髪の色も焦げ茶色で、ユウリのような黒髪ではなかった。
二人がかなり近しい関係だということは、エルネストにも予想がついていたが、まさか親子だとは思わなかった。それくらい似ていない。
「子供の頃から、夜目が利く代わりに明るいところが苦手なんです。あと、歯も少し尖っていますよね? ……ハイラント人の母からしたら、化け物みたいに見えるんです、私は。私がいると、家族が壊れてしまうから」
外に出るのを嫌い、暗がりで楽しそうに遊ぶ、自分にも愛する夫にも似ていない子供。母親なら無条件で子を愛すというのはきれいごとだ。母親だからこそ、自身とはまったく似ていない我が子を受け入れられなかった。
そう語る彼女の言葉は淡々としていた。それはおそらく、平静を保つためのあきらめに似た感情なのだろうと、エルネストは感じた。そうしないと、心が守れないのだ。
「だから一人で暮らしているのか……?」
「小さな頃からここで暮らしていました。でも、祖父母と一緒でしたから、一人ではなかったんです」
今の彼女はたった一人。父親との交流があることはうかがい知れるが、結局は一人なのだ。
「そうか……よし決めた!」
「どうかされたんですか?」
「君の秘密は私が守るから。困ったことがあればなんでも相談してくれてかまわない」
最初はめずらしい異国の娘に、興味があっただけなのかもしれない。けれど、血に酔っているような彼女の表情を、ほかの者には到底見せられないことは確かだ。エルネストは今後も彼女の餌になろうと心に決めた。
「いえ、結構です。私、珍獣じゃないので興味本位で関わられても困ります。もう放っておいてください」
「君、試すだけって言ったのに、私の血をたくさん飲んでいたよね? そんなに美味しかったのかな?」
「…………」
ユウリは手当のされたエルネストの左手をじっと見つめた。
「報酬を前払いしたのに、ユウリ殿は随分と冷たいんだね?……君が素直ないい子なら、またあげるのにな。残念だな……」
彼がわざともったいぶるような態度で煽ると、それまで包帯を見ていたユウリの黒い瞳が、まっすぐエルネストに向けられる。
「伯爵様は、怖くないのですか? 気持ち悪いと思わないのですか?」
怯えて、嫌っているのは、むしろ彼女のほうだった。
「数ヶ月に一度、血が必要……という以外に、君は誰かに危害を加える可能性があるのかな?」
「ないはずです。祖母は、ハイラント人の祖父と仲良く暮らしていましたから」
どう考えても、彼女の祖母に血を与えていたのは、彼女の祖父だった。ユウリが食事をする様子を実際に間近で見たエルネストとしては、それは当然のことのように思えた。
彼女すら知らない吸血鬼の末裔の能力があるのなら、それは餌を魅了する能力なのかもしれない。もし、そうだとしても、対象が自分一人だけならば、一向にかまわないと彼は思っていた。
「じゃあ、私が君を恐れる必要はないはずだ」
「変な方ですね。でも、伯爵様が飽きるまで……ここに来ても、いいですよ……?」
彼女がわざわざ「飽きるまで」と口にするのは、自分を守るためなのだろう。最初から、エルネストが彼女の店を訪れなくなることを前提にするのは、実際に来なくなったときの傷を浅くするためだ。
エルネストは、わかりやすく好意を示しても、まだ警戒している彼女に若干落胆する。
(まあ、いい。……残念だけど私は一度気に入ったものに飽きてしまったことなんてないんだ。ゆっくり待つよ)
こうして、彼は自ら進んでユウリ・ワトーの餌になった。
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