8翽▶邂逅














一歩踏み出す度にホコリが舞い上がる図書館の秘密空間。舞い上がった埃達は、懐中電灯の明かりを受けてはちらちらと光を返しながら、ゆっくり重力に従い下へ下へと落ちていく。先往くアンドの足跡を辿るように、尾羽と服の裾を持ち上げ悠々と薄暗がりを歩くルァンが、その空間をゆるりと見渡して小さく息を着いた。



「すごい数の本だ」


「難しい本?」


「……そうだね、帝王学とかがあるよ」


「うわぁ。俺、本はそこまで好きじゃないからわかんない」



アンドは、かなりの気分屋だ。その判定はあやふやで、周りのドール達からは少々計り兼ねるものがある。シリルのように極端な熱意が指数となっている訳でもなく、リベルのように__利害や損得勘定が指数となっている訳でもない。

アンドとは悪く無い関係を築いてきたつもりのルァンでも、その判断基準に確たる証拠を持つことが出来なかった。



「アンドはあまり本を好まないんだね。でも読み聞かせ会には何度か参加しているだろう?」


「あれはぁ、本の読み聞かせを受けるみんなとの時間が好きなだけ。俺はね、俺のこと好きな人が好きだし、俺が好きなみんなとの時間が好きなの」


「ふふ……そうかい、ならこれからも読み聞かせ会は頑張らないとね?」



薄暗さの中、ステンレス製のラックに並んだ分厚い本の背中に視線を滑らせる。似たような見た目の本ばかりが並んでいて、目的に近い本を選び抜くのは相当骨が折れそうだ。まぁ、ドールに骨は無いのだが。

ラックに入った本はどれも似たり寄ったりであるから、早々に見切りをつけて別の方法で目処を立てることにする。足元の、元からあった革靴の足跡をたどって、たどって、その足跡が立ち止まった所の本を手に取った。

手に取ってわかったことだったが、どうやらこのラックに並んでいるのは本と言うよりファイルに近いらしい。重厚な人工革に包まれているが故に、きちんとした、重厚な本となんら遜色ない見た目をしているだけのファイル。

中身のページは古ぼけてこそいるものの、しっかりと中身が読める程度には形を保っていた。爪紅で彩られた指先が、端の方がすっかり掠れた紙をめくる。古い書物は、時折、極稀に言語の違うものだったりする事がある。捲ったページに並ぶ記号が日本語と呼ばれる文字であったことに安堵しながら、羅列する記録を読み取って。

表紙裏に振られた番号は262。ページを捲れば、色あせて草臥れた、一面が黄金の写真。金の滴るドールの腕の断面。描き連ねられた文字は細かく、難解で晦渋な内容ばかり。



「どお?」


「……アンド、適当にでいいから、棚の中身をひとつ取ってくれないか」


「ん~……じゃあこれ」


「ありがとう」



めくる。274。中身はドールについて。

次のファイルをアンドに取らせれば、3つ分ほど指を横へスライドさせて、そのまましなやかな指をファイルの背中にひっかけた。

めくる。277。中身は依然、ドールについて。

まさか、とルァンが柳眉を潜めて秘密空間を見渡した。ざっと見て700以上はこのラックに収まっているが、まさかこれら全てドールに関する資料なのか。ラックを囲むように並んだ本棚や、暗がり奥に軍隊のように整然と並んだ本棚もあるが、それらに詰められた本の背表紙は全て異なるものだ、こちらはドールに関する物とは違うらしい。

黒いレザーファイルの森が、暗がりの中で一層深みを増して深い闇を作っていた。

手の内に収まるそれを一度閉じて、今一度表紙を観察する。右下には箔押しでもされていたのだろう、凹みで出来た文字が並ぶその表紙。



「ことり……」


小鳥遊たかなしバイオテクノロジー……だね」



ふぅんとだけ返して、懐中電灯をルァンに譲るとカツカツと奥の方へ行ってしまったアンドの背中を見送る。この暗さに目が慣れたらしい、あかりも支えもなしに暗がりの中をフラフラと歩いていく。

ユラユラ揺れるアンドの背中から目線を外して、手元のレザーファイルに落とした。

きっと、読み込めば読み込むほどに有益だ。明らかにドールの誰かが遺したものなんかではない、ニンゲンが、遥かな知恵を築きあげた異種族が、自分達を徹底的に調べ尽くした、貴重かつ非常に客観的な資料。

ホルホルを呼んでやればよかったと頭の隅で漠然と思う。彼は目がいい。故に速読術と見まごうほどに読み進めるのが速く、それでいて速読術よりも確かに一文一文を噛み砕けるのだから、この大量の資料の中から重要なものだけをピックアップすることも難なくやってのけただろう。ルァンは一冊一冊じっくりと、裏の裏まで読むものだから、急を要する場面での資料集めにはあまり向いていなかった。

ゴゴ、ゴトン。やや遠くから大きく鈍い音。アンドが何か、本でも落としたかと顔をあげれば、暗がりの向こうから呼ばう声。



「ねぇ、これ。こっち来て」



先程離れていったアンドの声が、暗がりの向こうからルァンを呼ぶ。ファイルを元に戻して、長い尾羽と服の裾を腕にさげたままそちらへ歩み寄ってはその指先が示すものを目でなぞって。

おや、と思わず零れた声に、アンドがやばーい、と笑った。

ラックの一番端のエリア。不要と判断されていたのだろう黒いファイルが、薙落なぎおとされでもしたのか下に雪崩て埃を被っている。無理矢理あけられたのだろうスペースに並ぶファイルは綺麗に埃を拭き取られて、背表紙に真新しいタイトルシールが貼られていた。

構造、コア、アビリティ、製造方法__白いシールに真っ赤なインクで中身の趣旨が綴られたそれを手に取る。開けば、刻まれたページ数はバラバラだと言うのに話の筋が通るように整頓されたファイルの中身。この大量のファイル達の中から有益なものだけを抜き取って、並べ替えたのだろう。

このファイルを纏めた人物は相当執念深い質と見受けられる。これだけの、700以上はある物を全て読んで、重要な部分だけを抜き取って、挙句それを段階ごとに並べ替えて新たな資料として保管する__正気の沙汰ではない。この資料を用意した主が全て手に取って確かめたという確証はないが、ファイルの厚みを見るに、きっとそうなのだろう。

手間が省けた。

構造、コア、アビリティ、製造方法、相互作用、対ニンゲン、戦争用ドール、後天加工__10近い数の分厚いファイル。これらを持っていけば、この膨大な数のファイルを持っていったり、一冊一冊確認したりだとか、そういった必要はないだろう。



「これ持ってっちゃっていいの?」


「……今度返しに来ようね」


「あ、そっかぁ。図書館だから借りて返すだけか」



ルァンが二冊、アンドが六冊、ファイルを抱えて秘密の部屋を後にする。薄暗い道を進んでいけば、ラクリマの待つ、本来の図書館スペースに繋がる、の、だが。



「閉まってる」


「あれ?……ラクリマー、ラクリマー?」



一旦、抱えた本を下ろす。勢いを殺さぬアンドの動きに従って、ぶわりと舞い上がった埃が懐中電灯の光を受けた。けほ、と軽く咳き込むルァンの声。



「ねぇラクリマ、ラクリマ~。あけてよー」



とんとん、とんとん。本棚の背を叩いて、向こう側にいるハズの仲間の名前をたんと呼ぶ。待機しているはずのラクリマからの返答はない。アンドが何度も本棚を叩き、ラクリマの名を呼ぶのをそっと制した。

手のひらの傷が開いてしまうよ、と言ってやったら、残念そうに手のひらを眺めて本棚の壁から一歩引く。ラクリマはこの状況下で、役目をほっぽり出すような子ではないはず。何かあったのだろうかと、肘の内側に尾羽をひっかけたまま顎に手をやって首を傾げて。

隣ではアンドが、暗いところは飽きたとでも言うように、忙しなくラクリマの名前を呼んでいる。



「ラクリマー、あけてよぉ、助けてってば」



ガチャン。ゴゴ、ゴトン。

アンドが今一度大きく声を張り上げたらば、ようやっと本棚の扉が縦に開いた。途端、視界に溢れ出す光。



「遅れてごめんッ!困ってた?困ってたでしょ、児童書読んでたけど助けに来てあげたよー!」



スイッチであるスコンスの方から走って寄ってきたラクリマに、遅いよとアンドがぶーたれる。ほぅ、と息をついて、床に置きっぱなしだった資料を両手に薄暗い空間から身を引いた。閉めてくるよう言いつければ、即座に返ってくるいい返事。走ってスイッチを操作しに行くラクリマの背中に、言いようのない不安を覚えた。

妙な違和感。この革命派に来てから幾度となく感じたその違和感は、日に日に大きさを増しながらも以前と裡の内にあった。立ち止まることの許されない状況下で、不思議と迫ってくるこの焦燥感は一体どうすればいいのだろう。仲間の一挙手一投足が、ルァンの警戒心を擽って。でも、今は。それよりも重要な成すべきことがある。

ガーディアンとクラウディオに声をかけ、ここを離れなければならない。言いつけ通りスイッチを元に戻し、ルァンの方へ戻ってきたラクリマへと分厚いファイルを預けた。ラクリマもアンドも、ルァンよりは遥かに膂力と持久力を備えている。故に、特に断ることも抵抗することも無く、むしろいつも大人しく、インドア派で自分よりも疲れやすそうなルァンを労うようにその荷物を受け取った。

恐らく未だにカウンターの方だろうクラウディオの元へ。クラウディオは確かにそこにいた。しかし、困り果てたようにオロオロしながらカウンターテーブルのヘリをしっかりと掴み、立ち竦んでいる。



「クラウディオ」


「うわっ!!ビックリしたッス、すみません、ティアはどこっすか!?」


「司書さんなら見当たらないけれど……そういえば、司書さんとは知り合いだったのかな?」


「そ、うッス、幼馴染で……あ、あの、俺今なんも見えないんで……手を引いて貰ってもいいッスかね」


「クラウサン困ってるの?手ぇかそうか、かしてあげるね!!」


「それ、見えるように戻る?」


「多分ティアのアビリティッスね」



スティアのアビリティ、“ 共鳴 ”。

一度触れた対象を記録し、自分の状態を記録した対象へと共有するもの。一時的に状態異常の打ち消しを行ったり、サポートに向いたアビリティだが、スティアは常に目を瞑っている為目潰しとして敵方へと使うことも可能だった。どんな状態を対象へ反映させるかは、スティアの完全任意で決定することが出来る。

しかし、記録に関してはスティア自身の記憶能力に大きく依存する為、そこまで多人数を相手取るとなればムラが出てしまう使い所の難しいアビリティ。


ルァン達には知る由もなかったが、クラウディオの見立ては当たっていた。



「幼馴染なのに、なんでか、避けられてるんッス、あんなに仲良かったのに……だ、大好きなのに……」



いたく悲しそうに俯きながら、ラクリマの裾を掴んで3人の後を着いてくるクラウディオの姿は、普段からは想像できないほどにしょんぼりと寂しげなものだった。

見張りも何もなくなってしまった、ほぼ無人の図書館の扉を開けて外へ。ぱっと降り注いだ陽の光に、吹き抜けた春の風が心地良い。警備員のいた場所に、ガーディアンとシアヴィスペムが立っていた。

傷まみれの腕に、ヒビの入った身体のままニコニコと皆を出迎えるその姿の痛ましさたるや。翼にもガタがきているのか、普段ならばパタパタと常に宙にいるはずだというのに、今回ばかりはしっかりと、2本の足でセメントの階段に立っている。



「おかえりっ!」


「シアヴィスペム、その怪我はどうしたんだい」


「すごい怪我っ!!」


「え!?俺今なんも見えないんッスけど!!」


「痛くない?痛そぉ、おんぶするぅ?」


「怪我人相手に大声出すな」



不安そうに、心配そうに、慌てて寄ってくる仲間達の姿に、シアヴィスペムの表情がへにゃへにゃと綻んだ。ガーディアンには先程の出来事を話してある。話したらば、深い溜息の後に、一度だけ頭をぽんと撫でられた。無愛想でぶっきらぼうだが、温かみの伝わるガーディアンらしい対応方法だなぁなんて呑気に思って。

何笑ってんだ、と頭上から振ってきた声に、元気に、じんと、火が灯るような感覚のままに微笑みを。



「へへ、心配させちゃったなぁって」



心配させてごめんなさい。でも、でもそれ以上に、やっぱりこうして心配してくれるみんなの事が大好きなのだと思い知る。シアヴィスペムの心みたいに、春の空は晴れ渡っていた。











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「なにこの、なにこれ!どういうワケ!?」


「見渡す限り、人だな」


「こらそこ!子供が巻き込まれているだろう、いくら混んでいるとはいえ弱き者への配慮が欠けるなどあってはならない!間隔をとれ!!」



飛行競技場前、隼の谷の通り。

見渡す限りの人、人、人。集まってきたドール達でごった返す廃墟の街並みにルフトとカーラが辟易する。ルフトは面倒が嫌いだし、カーラも鬱陶しい喧騒が嫌いだ。隼の谷の見回りを終えて帰ろうとしたその時に、飛行競技場へ向かうよう下された指示に従ったはいいが、まさかこんな事になっているだなんて誰が思うだろうか。

この喧騒、凄まじい人混みの交通整理、果ては警備をしろということだろう。トランシーバー越し、エンジン音をバックにしながらもハッキリとした声で、歳若いリーダーが3人に告げたのは「任せます」の一言だけだったが、現場を前にすれば何を求められているのかが一発でわかった。



「あれ」


「……っ、お前」


「ししょー」


「む、青玉」



長身の、緑色の髪に紫の瞳をした、見覚えのあるドールがカーラの前を通りがかった。肩車されているのは幼いドール。そちらはそちらでアイアンと面識があるらしい。緑の、さほど身長差があるでもない、カーラの喉を潰した忌々しいドール__リベルが、カーラを認知するなりへらりと笑って眉をあげる。



「お仕事?大変だねー、おにいさんも今子守り任されてて大変なの。んじゃ、頑張ってね~」


「待て、そう易々と逃がすわけがないだろう」


「えぇ?おにいさん達今、革命行動なんてしてないよ?レース見に来ただけなんだけど。言いがかりも良いとこだよねぇ。って言うか周りみてご覧よ、手伝ってあげたら?」



へら、へら。黒いグローブに覆われた手が、ついとカーラの背後を指さす。オリーブドラブの髪をなびかせ振り返れば、波のように押し寄せる人の群れに押されそうになりながらも迷子の子供を保護するルフトと、何故か顔色を悪くして俯くアイアンの巨体が目に入った。



「カラちゃんちょっとこっち手伝ってくんない?迷子センターみたいになってるんだけど捌ききれないんだよねぇ!」


「す、すまんカーラ、私は熱すぎたりすると動けなく……」


「……アイアンはとりあえず離れてくれ、ここで倒れたら何人も下敷きになる」


「そうさせてもらう……」



アイアンは、その身に纏う鎧故に、極端な寒暖差に弱かった。鎧を脱げばいい話ではあるのだが、そう簡単に着脱できるようなヤワな装備なんかでもない。ルフトは子供をあやしながら、人の波から子供を守るという二重苦の下に晒されている。

ハッとなって振り返ったらば、そこにリベルはいなかった。逃げられてしまったことに舌打ちを打ちたくなるが、すぐさまルフトからヘルプの要請が入る。仕方ないと向かいかければ、すぐ右手の方から怒鳴り声。

隼の谷の住人達は喧嘩っ早く、血の気の多い個体が多い。大方人混みの中、肩が当たっただとか翼が顔にぶつかっただとかで小競り合いが始まり、殴り合いに発展してしまったのだろう。止めなければ。はァァァ、と零れた深い深い溜息は、下品な罵声が被ったせいで誰にも届かず喧騒の一部になった。









「どうだった?」


「警邏隊の人達がどんどん集まってきてて、正面の方に、えっと……」



飛行競技場、チケット売り場の上に腰掛けていたヘプタが降りてくる。カーラ達と離れたリベルは、物凄く目立つアイアンを指標にしながら十分な距離を取り、そこでヘプタとの合流を果たした。頭上の青玉がへぷちゃんへぷちゃんとはしゃぐのを宥めていれば、柄にもなく、ヘプタがほんの少し言い淀む。



「……その、ミュカレさんが、警邏隊の人と一緒に」



あちら側に。ヘプタの指さした方向は、飛行競技場正面ゲートの真下。青玉見える?と声をかけると、リベルの上でほんのちょっぴり背伸びをした青玉が、みゅかねーね!と元気な声のままにぴょんこっこをぎゅうっと握った。



「セレンディーブは一緒?」


「びんちゃんいない!ゔぉるがさんと、みゅかねーねが一緒」


「ヴォルガさん……こないだ会った警邏隊の方ですね。なんで一緒にいるんです?」


「いやこっちが聞きたいんだけど……」



ヘプタを連れて、人混みからほんの少し距離をとる。ビル壁に伝うツタの葉が頼れるかどうかはわからないが、ないよりはマシだ。一刻も早い状況把握が要される。



『こんにちは』


「こんにちは、ねぇ、あそこの……大きい門の下にいる、でっかいアオバラのドールと、カトレアのドールわかる?」


『わかるよ、とっても仲が良さそうだよ』



会話の内容を聞ければと思ったが、そこでリベルの中の何かがカチリと当てはまる。最初の探索、何故か漏れていた布陣。仲が良さげな二体のドール。檳榔子玉とミュカレの頻繁な長電話。



『ヴォルガ様って』


「……カトレアが?」


『カトレアの子が』



ふと、背後からわあっと大きな歓声があがった。肩にかかる重みも強ばる。競技場の壁の向こう、観客席の方から上がった黄色い悲鳴に青玉がビックリしたらしい。ヘプタは競技場の向こう側が気になるのか、ほんの少しだけソワソワしているように伺えた。

モタモタしている場合ではない。恐らくだが、ミュカレと檳榔子玉はこちらを捨てたに違いなかった。檳榔子玉の姿を見ることが出来ない今、彼のことを断定するには至らない。だがミュカレが警邏隊側に居るという事実だけでも十分な重みがある。一刻も早く伝えるべきだ。

依頼主に不利益が出るだろう情報はさっさと伝達するに限る。リベルが頭上の青玉を、両手でアスファルトの上に下ろして淡々と告げる。



「青玉、リーダーに、ミュカレが警邏隊の方に行ったって伝えてくれない?多分檳榔子玉も……おにいさんとヘプタは、リーダーに言われたことやって来るから」


「くれいるに、みゅかねーねとびんちゃんが、ゔぉるがさんの方にいった?」


「そー。できる?」


「………………うん」



噛み砕いて、飲み込んで。すっと幼気な表情が曇る。悲しげに頷いた青玉の姿にも、リベルの顔色は変わらない。お願いねぇ、とだけ言って、黒いグローブの嵌められた手でぽんと頭を撫でた。ばさり、濃紺に深い青の混じった翼が空へ往く。

人混みの上を滑る青玉が見えなくなったところで、リベルとヘプタは視線を合わせて頷いた。回収した鍵を使って、成すべき仕事が他にもある。目指すは隼の谷の奥地。
















「ではここと、ここに。あとは結構ですから、あちら側をお願いします」


「はい」



とんとん、ミュカレの足元、しなやかにつま先がアスファルトを二度叩く。ふわりと広がった紫色の蜘蛛の巣が、溶けるように不可視化した。


ミュカレのアビリティ、“ 蜘蛛の巣 ”。

本人の自由意志に依存した完全任意で発動する、トラップ型のアビリティ。足のつま先で二度叩いた場所に不可視のトラップが展開され、紫色の蜘蛛の巣が広がるが、他者から見れば発動直後に一瞬姿を見せるのみ。

ミュカレからは視認できる上に本人がかかることはないが、かかれば10分近く身体の自由を奪う、厄介なアビリティだった。



「近くにルフトとカーラ、アイアンがいますから。容姿は資料で確認しましたね?自己紹介して、一緒に頑張ってください。暴れた、ぶちのめしたドールは貴方のアビリティでなんとかよろしくお願いします」


「はい、ヴォルガ様」



ばさり、黒い翼が翻って酷い人混みの方へ。ヴォルガは素直なドールがすきだ。されど、盲信されて従順になられるのには若干の抵抗がある。ヴォルガとミュカレは互いの立場が立場なために、まぁ、尚更の事ではあるのだが。

妄信的な関係がうむのは、道連れの片道切符だけだ。ヴォルガはそう信じている。だって、あの人が今正にそうなのだから。


飛行競技場。ヴォルガの夢の跡地。

ヴォルガは確かに空を飛んでいた。とっくの昔のことだけど。二対の翼はしっかりと風を受けて風に乗っていたし、師と仰いだかの人の恩恵を受けて誰より早く飛ぶことだってできていた。とっくにできやしないけど。


正面ゲートから出てくるはずの、橙色の人を待つ。12年越しに再び真正面から見据えるのだろうその姿が、待ち遠しいのに憎たらしい。3分とかからず、ヴォルガの愛した家族は、昔と寸分変わらぬ姿でやって来た。

酷い喧騒が全て消え失せたような錯覚に陥る。この上ない緊張が、怒りが、憎しみが、聴覚に走るノイズを殺して止まない。まっすぐ、まっすぐ。彼はいつも、選手が競技場から出るのによく使う扉でも、裏口でもなく、最も大きな正面ゲートをくぐってヴォルガの元に帰ってきていたから、きっと今日も。

その、願いにも似た経験則は的中する。真正面、ヴォルガの真ん前に現れた、愛しかった家族の元へと駆け出す。走って。そう遠くはない。


赤に煌めきを殺された青い瞳が、バチリと、ヴォルガの嫉妬の心を見留めた。


脚先に青炎が灯る。










“ 居合刀 ”。


ひゅるり、閃いて刻まれた風の音に、青い炎が大きく揺らぐ。爆発音とともに後方へ下がった紺碧の残像を、青玉の青い一閃が薙ぎ払って。

クレイルとヴォルガの間に入った青玉が、一息に刀を抜いて見せたのだ。遠慮も容赦もない蹴りを、同じく躊躇いの無い太刀筋が迎撃するその速度。カチン、あまりの速度に刀身を拝むこともできなかったが、音だけが確かに、刀が鞘へ戻されたことを証明して。



「ヴォルガ」


「ふふ、お久しぶりです、お師匠様」



煤を払うように脚を軽く揺する仕草と並列して、黒の革手袋を取り払う。ウエストコートの内ポケットに乱雑に押し込み、軽くエンジンを吹かして、それからにこやかに笑ってみせた。

人目の多い場所だが構いやしない、きっとクレイルも青玉も、無関係のドールを巻き込むような真似はしないのだから、自分だけが気を付ければそれで済む話。



「青玉怪我は」


「ない」



春の穏やかな空気に晒された両の手から、青い鎖が立ち上る。紺碧の、ガラス細工のような鎖が、獲物を狙う蛇のように、陽炎のように揺らめいていた。


ヴォルガのアビリティ、“ 束縛 ”。

素手で触れたドールの飛行機能を完全に剥奪するシンプルなものだ。空を飛べないヴォルガが有利な状況を作り出すには、相手の翼を封じるのが最も手っ取り早かった。

デメリットとして、黄金の密度の低下、それに倣って自己再生能力も低下すると言ったものがある。あまり頻繁に発動すれば、ターボブーツにも吸われているエネルギーが枯渇し、最悪の場合機能停止になってしまう。


飛行特化のクレイルが、陸上特化のヴォルガに翼を封じられてしまうと殆ど勝ち目はない。ボディの造りも、パッと見でわかるほどにクレイルが最も苦手とするタイプだ。

天敵だった。

眼前の小さな影が、あっという間に前へ躍り出る。ほんの少し右に座標をずらしたヴォルガへ向かって、弾丸の如く刀を構えて飛び出したのだ。ほんの数コンマの間に詰まる距離、青と緑が交差する。

青い炎の主は、薄く笑って。



「いけませんよ青玉、お師匠様にめくらにされてしまっては」



足元を掬われますから、と。

ガクン、前のめりに青玉の身体が体勢を崩す。進まないのだ、ヴォルガまであと3メートル程度の位置ですっかり脚が止まってしまった。

ミュカレの蜘蛛の巣。

特攻からの抜刀体勢を切り替える。防御に回そうにも、身体が重くて仕方がない!蜘蛛の巣にかかった小さな鳥に、刃脚が思い切り振り下ろされる。ヴォルガと青玉の体格差、膂力差では、どんなに力を絞り出したとしても勝ちの目は薄かった。ヂリリと、迫った空気の焦げる香りを、赤い翼が遮って。


暖かな熱に包まれる感覚の後、酷い衝撃と横薙ぎの重力。激しい破壊音と、風にさらわれ立ち上った砂煙。



「おや……庇い庇われ、仲がよろしいことで」


「ッ、クソ!今朝直ったばっかりだってのに」


「くれいる、くれいる!!」


「俺は大丈夫……刀折れてねーな?逃げるぞ青玉」


「鬼ごっこですか?ふふ、上等ですよ……その首へし折って晒し首にしてやる!!」



勢いを増すエンジン音の中、憎悪に震える鳥が、牙を剥いて火を噴いた。

吹き上がった青い熱から逃げるように、クレイルが青玉を抱えたまま空へ飛び上がる。ヴォルガも後に続いて宙へ。熱に包まれた青玉の鼓膜に、みしり、黄金でできた身体の軋む音。先程青玉を庇って吹き飛んだクレイルの身体にはヒビが入っていた。

ぐるり、ぐるり、大きく弧を描いて旋回するのを、飛べないはずのヴォルガが後を追う。飛ぶというよりも跳ぶに近いが故、クレイルの残した軌跡よりは歪であるが軌跡の美しさなんぞ気にしている暇はない。元より、気にするような質でもない。決して速度を緩めぬまま、多少無茶な方向転換にもくらい付く。

ヒュルルと、耳元で風をきる音。急降下してから体制を整えて、地面に近いところを飛行しているらしい。後を追ってきたヴォルガは土煙を上げながら着地して、初速度十分に前へ前へと走り出す。

飛行競技場前の通りを横切って、多少蛇行しながら川の向こうを目指して加速を。



「青玉、ちょっといいか」



背後で響く爆発音を掻い潜るように、腕の中のこどもへ耳打ちを。

川に差し掛かっては高度を下げたまま、水面の上を滑るみたいに飛行する。風に流されてひらひらとなびく三本の錦を追ったヴォルガも、強く踏み込んで川を越えるべく飛び上がる。

ブーツの生み出す衝撃は凄まじいが、耐えられるだけの身体を死に物狂いで作ってきた。炎を噴く度に身体の熱が上昇して、比喩でもなんでもなく、彼に触れば火傷をするほどの熱量を抱いたまま、爆ぜる脚先で空を駆けて。

クレイルの真上へ。落下の勢いのまま振り下ろしで蹴りを。読まれて、急な鋭角方向転換で躱される。すぐさま川に自分が落ちぬようブーツで水面に衝撃を。クレイルの飛行技術は並大抵のものではない、空中にいる彼を銃で撃ち墜とそうとするのは弾と時間の無駄と言える程。そう簡単に、宙にいるかの人を仕留めることが出来るなんて思っていない。

12年だ、12年も粘ったのだ、今更、これから何年かかろうが大した差はなかった。避けられるというのなら、執拗に翼を砕いて落としてしまえばいいだけのこと。

川を渡りきってすぐの所で、前を往くクレイルの影から青玉が飛び出した。左手の大きなビル群に紛れるように、小さな鳥が戦線を離脱する。



「子供を逃がして何になるって言うんです!」


「俺のタメになる」



振り返って、にんまり笑ったクレイルの身体がぼんやり仄かに赤く光る。一度、二度、翼をはためかせて、ぐんと一息に速度を上げた。翼の操作精度も先程の比ではない、食らいつく為にヴォルガもブーツの出力をあげる。


クレイルのアビリティ、鼓舞。

周囲に飛行状態の仲間個体がいると発動する、強化型のアビリティ。自分、そして仲間の飛行能力を底上げするシンプルなものだが、近くに飛行状態の仲間がいなければアビリティ無しも同然。1人では決して輝くことの出来ない、群れで生きる鳥のアビリティ。


三本の錦が、橙の黄昏を帯びた広い翼が赤い軌跡を描いてくるりと回る。青玉が飛行状態に入ったことで発動したアビリティは追い風になり、“ クレイル ”の真価を発揮した。

鵞鳥の街を斜めに突っ切っている最中は、ビルとビルの間を縫って飛ぶクレイルの方が有利だ。しかしそのうち北通りに飛び出す。障害物のない、遠慮のいらない空間はヴォルガにとって好都合。思い切り突っ込んで、手を伸ばしたが既のところで躱される。

クレイルのこの、直角だったり、鋭角だったり、果ては速度を殺さぬままに背後へでも方向転換ができる殊勝な技は“ クレイラー ”と言った。元は紅茶の茶葉の名で、その意味は「革命」。鳥にはできない、翼持たぬニンゲンにもできない、翼を主軸に、ニンゲンパーツの重心移動や手足の振り上げで全てを緻密に操作する、ドールのみが可能な飛行技術。

素手で触れることこそ適わなかったが、ほんの一瞬の間に判断を切りかえ、タックルする形でエンジンを点火し前へ出る。ヴォルガが手を前へ出す動作ばかり気にしていたのが仇となった、重い身体と宙にあった身体がぶつかり合って、軽い方が押し負ける。アスファルトに落ちる寸前で手のひらを地へ。

ぐん、バネのように身体を曲げて、伸ばして、跳ね返ったその場でまた羽ばたいて空中へ。ぱきり、みしり、身体が立てる音に舌打ちを。



「もうちょいおっさんに優しくしてくれねーの?」


「おっさん?どこが。貴方は何も変わってないだろ、それこそあの人の犬のままだ!」


「人聞きの悪いヤツ」



とっくの昔に電球が割れてしまったのだろう街頭を、グローブの嵌められた手で掴み軸にする。遠心力でぐるりと回って距離を詰め、アウターの左側から抜き取った黒い柄のサバイバルナイフで横一閃。海老反りになって躱したヴォルガの、長い横髪が微かに切っ先を掠めてはらりと宙に広がった。そのまま身体を前へ。指先が何かにしっかりと触れたが、防がれたらしく、ヴォルガが触れたのはクレイルではなくナイフの方。指先から迸る黄金が重力に従って落ちていく。



「貴方は、あの人の犬だ、もういない人ばかり見て、傍の人なんて……鳥籠の中なんて見ちゃいない」


「犬はどっちだよ。こんな鉄でできた犬小屋の中でキャンキャン吠えてるお前の方だ」



クレイルの真っ赤なピアスがちゃらりと微かな音を立てた。左脚を引いて、右脚で踏み込みながら両方同時に火を点けて。

蹴りを一撃モロに、タックルをマトモに一度受けている。これ以上受け流すマネはできない。点火の予備動作である、一際高いエンジン音を耳にするなりぐんと高度を上げて後方へ。

北通りを抜けて、大通りへ。大通りをなぞるように、カコウジョ方面、西へ向かって直線勝負。無論、直線勝負でクレイルがヴォルガに勝てるはずがない。追いつかれる既のところで蛇行を繰り返し、時間を稼ぎながら目的の場所へ。

大きく穴の空いたビルの、ぽっかり開いた空洞の前を横切った。後に続いて上昇する、ヴォルガの視界が真一文字に切り裂かれた。

“ 居合刀 ”。

空中で前転するように、エンジンから晴天の欠片を噴き零す。腕だけをその間合いから抜き取ることが間に合わなかった、左手は中手骨の真ん中辺り、右手は手首から、スッパリと切り落とされて、下へ下へと落ちていく。

切り返し。居合の勢いを殺さぬままに手首を返して、潜んでいた遊撃兵せいぎょくがもう一撃を見舞う。宙で逆さまになっているヴォルガでは避けようがなかった。咄嗟に首を逸らす。左耳の半ばを刃先が切り裂いて、髪留めをばらりと暴いてみせて。

ヴォルガが重力に従ってその身を地に下ろし、着地と同時に空を見やる。上から身を投じて来た青玉に向かって脚を振り上げて、身体改造の内に取り付けていた、太もも辺りのスイッチを思い切り押し込んだ。ブーツの排炎口が、リボルバーみたくガチンと回って上を向く。


巨大なブルーサルビアが花開くかのように、火柱が上がった。


小柄故に、小回りの利く青玉が回避に勤めるも、着物の先が青い炎に食われて焼け焦げて。焦げ臭い匂い、硝煙の匂い。

上空からの切り伏せは失敗に終わったが、まだ、まだ迎撃の手を緩めない。小さな鳥の脚が地面についたその瞬間、愛刀を今一度横薙ぎに。対して長躯の鳥は、斜め真下から振り上げるように黒鉄の刃脚を繰り出して。

刀は横からの力に弱い。

重苦しいブーツのつま先が、青玉の牙をへし折った。銀の欠片が陽の光をチカチカ照り返しながら宙を舞う。

ヴォルガにとって刃物は難敵だ、ブーツ、アビリティ共に使えば使うほどに再生能力の落ちていくその身体にとって、割れ傷よりも細々した切り傷の方が致命傷に近しいものとなる。傷が塞がるのだって遅い、先程切り落とされた手先からボタボタと落ちる黄金、一向に止まる気配がなかった。

牙をもがれた青玉こどもの姿に既視感を覚える。腹が立って仕方がない、言いようのない憎しみと怒りを何処にぶつけてくれようか。



「動くなヴォルガ!」



背後、聞き慣れていたお師匠様おとなの声。

ぴたり、その場の時間が止まった。低いエンジン音だけが辺りの空気を震わせて、辺りにほんの少しの煙たさを振り撒いている。

表情の消えた青玉が斬りかかってくる様子はない。ゆっくり、上体を捻って、背後へ視線を。



「……コラール」


「青玉こっち来い。ヴォルガは動くなよ、動いたらコイツのコア抜いてやる」


「コラールに何をしたんです」


「……知り合いなのか?」


「何を、したんです」


「いや、その辺にぶっ倒れてただけだから俺は何もしてないけど……」



ヴォルガは警邏隊だ、無関係のドールを巻き込むような真似はできない。故に、付近で瓦礫か何かに巻き込まれでもしたのか、倒れていただけの見知らぬドールを利用して脅しをかけるつもりだったのだが。どうにも知り合いだったらしい。

青玉がクレイルの元へ戻る間、その緑の瞳は指ぬきグローブの嵌った手に首を掴まれた、薄桃色のドールに釘付けで、離れる青玉に手を出す素振りはどこにも無い。

呼吸をしていない。機能停止状態のまま、力なくだらりと下がる四肢が揺れている。



「青玉、トランシーバー出せ。やれって言ったらビルに向かって投げつけろ」


「わかった」



さらりさらり、風が吹いて、髪留めのなくなったヴォルガの髪と、コラールの髪と、青玉の髪とが柔らかく揺れる。緊迫して喉の絞まるような空気感にそぐわない、酷く穏やかな風。



「その人を返してください」


「いいぜ。お前がその脚のゴッツイの脱いだら返してやる」



忌々しげに、ヴォルガの表情が歪んだ。

反抗期のこどもがするにしては、余りにも黒く淀んだ感情が凝縮されているようにも感じられる表情だった。右脚をあげて、接続パーツのロックを解除する。ギヂヂ、と金切り音の後、バチンと何かが外れる音。ブーツを取り払って横へ放った。入れ替えるように左脚を持ち上げて、同じように脱ぎ去って。



「なぁヴォルガ」


「……なんですか」


「大きくなったな」



優しい声だった。雛鳥の成長を心から喜ぶ親鳥の声。12年前から、瞳の煌めき以外は何も変わっていないヴォルガの家族は陽の射さぬ青い空を細めながら、罪人こどもを慈しむような色を帯びて笑っている。片手に、ヴォルガの愛する花を提げたまま。



「アイツにも見せてやりたかった」


「嫌味ですか」


「そのまんまの意味だよ。お前が立派になってるの知ったら、きっとアイツも喜ぶ」


「貴方、あの人が私に、何をしたのか知らないんだ」


「知ってるよ。でもお前はアイツが俺に何をしたのか知らないだろ」


「いいえ、知っています、貴方こそ私があの人に何をしたのか知ってるのに、どうしてまだ私を貴方達の家族こどものように扱うんですか!」


「馬鹿言えクソガキ。お前は知らないよ、アイツがどんなに可哀想だったか」



白い首筋に籠る力が増して、赤い綾羅を纏ったドールがヴォルガの手元へ放り投げられる。手のないままに抱き留めた。落とさぬように、もう取られぬように。



「やれ青玉」



ビルに向かって投げつけられたトランシーバーが、コンクリートにぶち当たる寸前に妙な火花を吐き零す。ハウリングでもするような、耳障りな、甲高い悲鳴にも似た音を立てて。



「Tu n'as pas à savoir」



思い切り爆ぜた。

たった一つのトランシーバー如きどうということはないが、そのトランシーバーが引き起こした小さな揺れは、廃れて荒れたコンクリートビルの切羽詰まった拮抗を崩すのに十分だった。連鎖して崩れていくように、大通りへ向かって雪崩込むみたくコンクリート片が降り注ぐ。地に転がるブーツを足で蹴り飛ばし、安全地帯へ放り出したあと、腕に抱いた部下を落とさぬように自分自身も駆け出した。

橙の錦を持つ、死んだ鳥に手を引かれる幼子の背中を垣間見て舌打ちを。瓦礫の山ですぐに見えなくなってしまったかつての居場所。もうそこは、ヴォルガが、私がいていい場所ではない。

ヴォルガが選んだ場所は、信じた人の、信じた姿が築いた誇り高い組織の一角で、部下達の壁となれる場所。

崩落する瓦礫が高々と土煙を上げて視界を灰色に塗りつぶした。退避しきって、ただ呆然と突っ立つ。力なく腕の下がったコラールを横抱きに、暴かれていく土と埃のカーテンを眺めた。


ドドンと、たった今の崩落に誘発されたのかは定かではないが、拠点の方で破壊音。ぼうっとしていたヴォルガの頭が冴えていく。

拠点。帰る場所。

ブーツを脚で起こして、半ば無理矢理接続を。右脚にロックもかけぬまま、部下を抱いて早歩きで、1人泣きそうな心持ちのまま自分の巣へ。

いつもならばブーツでひとっ飛びだと言うのに、今日はなんだかやけに遠く感じる帰還の道。大通りを抜けて、北通りへ入り、カコウジョ方面へ一直線に駆け出した。先程の崩落の余波なのか、ぱらりぱらり、バラバラになった聖堂の、かろうじて残った箇所から未だに瓦礫が零れていた。

明らか、地震だとか、地鳴りで崩れた訳では無い、破壊されたあとの残るヴォルガの巣。



「………………あ、あぁぁ……」



中にいるはずのセレンは?ラフィネは?シルマーは?

ほんの少し焦げた後も残る崩れた聖堂の、瓦礫を飾るみたいに白い羽が散らばっていた。真っ白で、大きくて、空を飛ぶのに向いている、ヴォルガが羨む鳥の羽。


背の高い聖堂のてっぺん部分が消え去って、見える晴天が広がる。格子の向こう、バカを笑うみたいに、いっそ憎たらしいまでに晴れ渡った青空。ヴォルガの曇った心とは正反対に、春の空はどこまでも澄んでいた。
















​───────​───────
















「ヴォルガは俺の元弟子なんだけどさ」



啄木鳥の森付近の廃ビル街、誰かが開けた猫缶が転がる薄暗い空間に、クレイルと青玉は身を隠していた。



「空飛べなくなって……俺とヴォルガの、なんてーのかな。兄貴分みたいなやつが死んでから、ずっと別れっきりだったんだけど」



ヒビまみれの身体と顔で、困ったように笑いながら青玉の頭を撫でる。インナーを通り越して赤いシャツにも黄金が染み出している。つい今朝に直ったばっかりだと言うのに、また新しい傷を作ってしまった。

留守番しているホルホルやシリル、マルク達になんと言われるか__いや、留守番していないメンツもきっと口うるさいことこの上ないだろう。もっとうまくできなかったかなぁ俺もと、苦笑する。



「“ ヴォルガ ”が、あんなにデカくなってるなんて知らなかった……いやちょっとでかくなりすぎだと思うけどさ」


「ゔぉるがさん、大人になってて……くれいる嬉しい?」


「ん?嬉しいよ、そりゃあ。子供がデカくなって、嬉しくない訳がねーしな。他所よそは知らねーしそうじゃねぇかもだけど、俺は嬉しい」


「大きくなってなかったら、うれしくない?」



ヒビから滴る黄金が止まるまで、羽を休めて息を着く。

青玉が、暗がりの中悲しげに声を零した。


青玉とクレイルは、互いに互いの姿が寸分違わぬままなのを知っている。2人の魂には赤い糸が絡みついていて、同じように別の誰かから彼岸に向かって引っ張られているのだ。



「…………なぁ、青玉。俺お前に言わなきゃなんないことがある。聞けるか?」


「なぁに?」


「紅玉のこと」



双子機。

ドールにおける一種の謎、ひとつの卵から2人、あるいは3人で、瓜二つの容姿のままにうまれてくるドール達。

双子機や兄弟機を失ったドールは、基本、新たに強固な支えを手にし得ない限り未来永劫壊れたまま。双子機とは元々同じドールだったのが、卵の中で分かたれたのだという迷信が信じられるくらいには固く太く、互換性のきかない絆。

双子機を失ったドールは常に信号シグナルが不安定になり、ほんの少しのきっかけで廃人のようになってしまう。



「紅玉から伝言預かってたんだ。ずっと黙っててごめんな」



きっと、不安定になままの青玉にこの伝言を言い渡しても、受け入れられないと思っていたから黙っていた。

でも、きっと。新しい仲間に囲まれて、守るべきものを定めた青玉なら。



「あの日さ、お前と紅玉が落ちた日。お前らの修理したのは俺なんだ」



腕が、脚が、纏っていた衣服が、違う色の組紐が。

超高高度の箇所を飛行していた青玉と、その双子機であった紅玉はバランスを崩して落ちてしまった。“ 母の寝息 ”が止まった今も、浄化扇の付近は気流が乱れやすい。

大人でもバランスを保つのが難しかったその場所へ、身体と翼の比率が十分でなかった青玉と紅玉は向かってしまった。

そしてあの日に。



「どっちか助かるけど、どっちかは絶対死ぬ。紅玉は……胴体と、コアがほとんどダメだったんだ。お前は手足と、首周り。俺さぁ、お前がどんな顔するか、ホントはわかってたのに、紅玉のワガママ聞いて」



双子機のパーツの親和度は高い。互いの首を交換しても、腕を交換しても、ほとんど違和感なく成長することができるほど。

翼はともかく、ニンゲンパーツはほとんど同じなのだ。だから、だから。



「紅玉の手足使って、お前のこと直して欲しいって。ずっとそばにいるから、青玉に生きて欲しいって。なぁ、青玉」



ぎゅう、と、暖かな体温が、時間の止まった青玉の身体を抱き締める。



「今日ヴォルガに会って、決心ついた。黙っててごめんな、縛っててごめん……お前は、お前として生きていいんだよ」



紅玉も、俺も、それを望んでる。

ドールは、望まれてこそ輝く。

まろい頬を暖かな雨が伝った。



「紅玉……そばにいるの?」


「ずっとお前と一緒にいるよ」



するり、彼岸に繋がる赤い糸が解ける。絡まって、身体を、心を止めていた真っ赤な真っ赤な赤い糸。

紅緋の御影をなぞって生きてきた青玉の時間が動き出す。紅玉、紅玉。愛しい片割れ、唯一の兄。

ぽっかり開いていた空洞を、成長を拒むことで小さいままにして、誤魔化していた。じんわり、言葉が、紅玉の遺した言葉と手足が、青玉の欠けた部分をやっとうずめた。

ぽん、ぽんと、大きな手のひらが、青玉を優しく撫でて慈しむ。



「……青玉、一人で帰れるか?」


「…………クレイルは?」


「俺は、まだやることが……できるかもしんねぇこと、あるから……明日の朝帰る。待ってられるな?」



絶対帰るから。


こくり、青玉が頷く。欠けた刀を鞘に収めて、2本の足で立ち上がって、背筋を伸ばして。

グローブに覆われていない自分の指先で、“ クレイル ”の顔の作りを確かめるみたいにヒビまみれの頬をなぞって。



「使えるもんは全部使わないと」



アルトボイスが、ほんのり高さを増して、まるで他人の声みたいに廃ビルの中に響いた。

ぱきり、身をよじったクレイルの身体から悲鳴があがる。



「そうだ、それからな、もうひとつ伝えたいことがあるんだ、青玉」


「……なぁに?」


「おんきせがましい……って日本語であってんのかな、そういうやつに思ったらごめんな。お前はさ、たくさんのドールに支えられてきたの、お前自身も知ってると思う」



クレイルは日本語の扱いが達者でない。それは自他ともに認める周知の事実で、時折「そんなミスするか」と目を疑うような読み間違えや書き間違えを起こす程。そんなクレイルとは反対に、青玉は比較的日本語の得意な個体だった。無論、その幼さにしては、という文言付きではあるが。

青玉の親鳥代わりを務めたと言っても過言では無いドールとそのつがいが、紅玉、青玉共に厳しく言語関連の躾を行っていたことが大きいだろう。

青玉が精神を病んでからも、時期を同じくして番を失い失意の底にあったろうドール__雄彦や、その雛鳥は懸命に青玉の“ 心 ”を支えた。

記憶を操作するアビリティを持っていた兄のような鳥は、青玉の心を苦しめてやまない暖かだった思い出を微かに朧気にしてくれたり、悪夢ばかりを繰り返していたような記憶を整然としたものに組み替えて、“ 心 ”を癒す手伝いをしてくれていた。まぁ、そのドールも紅玉達の後を追うように、赤に呑まれてしまったのだが。



「お前はさ、紅玉だけじゃない、みんなに望まれてる。少なくともお前が本当に小さかった頃を覚えてるドールはさ、みんなお前の幸せを願ってる。それ、忘れないで欲しい」



ドールはひとりではいきられないという。

その真髄がなんたるかをわかっての発言かどうかは今の青玉にわからないが、その言葉に、ぽろりと暖かな雫が零れた。



「そんでもって、俺もその中のひとりだってこと、よければ忘れないでくれ。自分のアビリティが嫌いだった俺が、はじめて誰かの為にアビリティ使おうって思ったの、お前が最初だったんだ。知らなくていいし、わかんなくていいから、俺もお前を大切に思ってるってこと、知ってて欲しい」



青玉には、クレイルの言っている意味がよくわからなかった。彼のアビリティを受けて空を飛ぶのは楽しいことで、彼もアビリティを発動したままに空を飛ぶのは嫌っていなかったはずだ。何が、自分自身の何が憎いというのだろう。

聞こうかと思ったけれど、喉からこぼれた嗚咽が疑問をかき消してしまって、そこでついぞ終いであった。暖かな手のひらが頭を撫でる。


ガラスもない、枠もろくに綺麗な形を保っていない、そんな薄汚れた窓枠の向こうは、気が抜けてしまうほど晴れ渡っていた。














​───────

Parasite Of Paradise

8翽─邂逅

(2022/01/16_______13:20)


修正更新

(2022/09/22_______22:00)

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