6翽▶人工太陽












薄暗がり、陽の射さぬ修繕室。朝になれば陽光で満たされるはずの拠点も、この場ばかりは暗いまま。細く、小さく、ゆるい呼吸に上下する胸元、赤い組紐。

ヒビの修理の後、一度は自分の部屋で眠りについたが、修理の際に再び目にした動かぬクレイルのことが気にかかり、深夜に部屋を抜け出した。そばに寄ったはいいもののなかなか離れることが出来ず、そのまま眠ってしまったらしい。冷たくて大きな手の薬指を握って、自分の腕を枕にしたままぼんやりと目を開ける。子供の__青玉の、煌めくことを忘れた宝石のような瞳が、薄暗がりの中確かにその輪郭を捉えた。



「…………くれいる」



動かぬそれを、雨が流すことはない。一抹の安堵を覚えるも、その冷たさにまた不安がぶり返す。失うことは嫌いだ。まぁ、誰だってそうだと言われてしまえばそれで終いなのだろうが。

握っていた薬指から、じわり、じんわり熱が伝わる。その熱の上がりようから、幼いながらに理解した。ヒーローは遅れてやってくるものなのだ。

このドールは平熱が40度近くあるものだから、触れているこちらは触れ合った部分からポカポカと暖かくなって。名前を呼んだらば、それに反応するように。ぎゅう、と、大きな掌が青玉の手を握る。



「……青玉か?」


「くれいる!!おはよう!」



頭が取れていたのだ、まだ完全に馴染みきっていないのだろう頭部のパーツをゆっくり動かし、青玉の姿を視界に収める。視界がぼやけているが、数分もあれば元通りになるだろうと大して気にする素振りも見せずに身を起こした。



「今日何曜日?」


「う!にちようび!の、あさ!おはよう、くれいるおはよう!!」


「おう、おはよう青玉……朝ってことは早起きして、この部屋まで来たのか?寂しくなかったか?」


「寂しくないよ?とっとちゃんとくれいるいたもん」


「とっとちゃんお喋りしてくれたか?」


「とっとちゃんね、おしゃべりないない」


「ないないかー」



クレイルも、青玉も、出会ったその頃から互いの姿に変化がない。2人にとって互いの存在は不変そのもので、心のどこかに妙な安心感をもたらしていた。陽の射さぬ青と煌めきを忘れた青が視線を合わせて、悪戯が成功した子供みたいに、雨の中はしゃぎつづける若人みたいにくすくす笑った。

ぽんぽんと幼子の頭を撫でた後に、寝かされていた寝台を降りて、壁にかけられていた衣服を手に取る。

動かないドールに服を着せるのは難しい。翼が邪魔で仕方が無いし、成体ドールならばかなりの重量を持っている。修理のために服を脱がすことはあれど、修理の後にわざわざ着せるなんてことはない。幸いクレイルの修理箇所は腰から上なので、ズボンだけは履きっぱなしだったらしい。黒いインナーにくすんだ赤のシャツを順繰りに着込んでいき、枕元に並べられていたグローブをアウターのポケットに突っ込んだ。そのアウターを羽織ることはせず左腕にかけ、右手を青玉に差し伸べて。



「行くぞ青玉」


「うんっ!」



修繕室の古びた扉を、肩で押し込む形で押し開けた。青玉を通し、扉を抑えていた身体を抜き取る。



「とっとちゃんおはよー」


「はよーとっと」



廊下の突き当たりにいる白い陶器の、大きな口を持ったみんなのペット__“ トイレ ”のとっとちゃんにもおはようと声をかけ、2人静かに薄暗い廊下を歩いた。

ドールは排泄を必要としない。故に、鳥籠の中に残る“ トイレ ”を本来の用途で利用することがない。博識なドールならばその正体を知っているやもしれないが、そうではないドール達からは“ 常に水を含んだ謎の大口を持つ白い陶器の物体 ”である。ちっちゃな手を押してやったり握手して引っ張ってやったりすると、口の中の水を飲み込むのだ。

何かグッとくるものがあるのかどうかは知らないが、非常に不思議なことにトイレマニアを名乗るドールもいる。ニンゲンには理解しかねるが、そも、理解云々以前の話で、この鳥籠にニンゲンはいない。本来の用途を失ったソレへの誤解を、完全に払拭しようだなんて考える酔狂なドールはさすがに存在しなかった。

階段の上から漂ってくる、香ばしい、空きっ腹を煽るようないい香り。焼けたパンの匂いがして、どちらともなく見合わせた顔が無意識のうちに笑顔になった。ほんのり軋む階段を、手を繋いで上がっていく。


ドールにも三大欲求が存在した。

食欲。ボディの状態を保つ為に必須の欲求。外部からエネルギーを摂取するにあたって、ニンゲンの形を模している以上最も楽で一般的なエネルギー摂取方法は経口摂取だ。大体の物質は消化できるが、きちんと味覚もあり、味が良ければ食事が捗るものだから、食料として普及しているのはフルーツや野菜、肉、かつてのニンゲンとなんら変わらないものを食べていて、調理やグルメのような文化はしっかりと残っている。

睡眠欲。こちらもボディの状態を保つ為に必須の欲求で、睡眠を取ればその間の自己修復の速度は上がり、物事の処理速度も落とすことなく良好なコンディションをキープすることができる。何より疲労を感じる心がある以上、ボディを休めたいという深層心理があって、その指示が起こす睡魔に勝てるなんてことはない。眠らず動こうと思えば動けるが、身を滅ぼしたくないのであればドールだろうと十分に眠るべきなのだ。

性欲。こればかりは、誰も彼もが右に左に首を傾げてその存在意義を疑った。ドールは繁殖能力を持たない。女性体ドールがいたなら話は違ったかもしれないが、そんなものは存在しない。何故、繁殖をしないはずのドールに性欲があるのか?最も一般的な認知としては、ニンゲンの雄を完璧に模倣しようとした結果ではないかというものだ。真偽はどうだかわからない。



「おはようらんせんせー、ガーディアン」


「う!おはよう!」


「おはよう、2人とも。今朝は髪を結いにこなかったから心配したんだよ青玉。クレイルの所にいたのかい?」


「ごめんなさい……おはようのあいさつ、おくれちゃったけど、かみの毛むすんでくれる……?」


「勿論。ここにおいで」


「はよーガーディー、朝飯何?」


「手ぇ洗え。それから皿出せ」


「俺がいない間惚気ける相手いなくて寂しかったか?」


「手を、洗え」


「はい……」



朝に強く、起床時間の早いドールであるルァンとガーディアンがリビングとキッチンでそれぞれ時間を過ごしていた。青玉は懐から組紐を取り出すと、クレイルの手を離れて暖炉のそばのルァンの方へ。クレイルは青玉を見送ると、卵を焼いているガーディアンの方へ。

アウターをキッチンカウンター横の梯子に引っ掛けて、シンクの蛇口を捻って手を洗った。冷えた水が指先の感覚を奪っていく。泡立てた石鹸をなるべく早く流し落として、タオルでしっかり水気を拭って振り向いて。

慣れた手つきで戸棚を開けて、自分のマグカップとヘプタのマグカップ、それから人数分の皿を出す。がちゃん、ことん、じゅううと生活音が入り乱れる感覚が、言いようも無い程に愛おしかった。目線の高さほどの段、一番右端の瓶をあけて、マグカップの中にインスタントコーヒーの粉を放り込み、コーヒーの瓶を戻すのと入れ違いで砂糖の瓶を手に取った。

大切に使い古されたのだろうことがわかる橙色のカップに、ドカドカと砂糖を放り込む。隣の、水色の可愛らしくて真新しいマグカップには砂糖を入れぬまま瓶を戻した。

キッチンカウンターの左端に置かれていた魔法瓶を手に持つ。たぷんと中の液体が揺れる音、ずっしりと右手に感じる重みから、ガーディアンが既にお湯を沸かして中に入れて置いてくれたのだろうことを悟って。

とぷとぷと、リビングに満ちる朝の光を返す細い水面が円形の白磁に沈んでいく。ヘプタのカップは7分目までお湯を注いで、自分のカップは4分目辺りまでで止めた。魔法瓶を戻し、冷蔵庫を開けて牛乳の入ったパックを手に取る。橙色のカップにこれでもかとミルクを放り込んだらば、隣で作業をしていたガーディアンがたまたまこちらを見てしまって、そのまま顔を顰めたらしいことが見ずとも伝わった。



「最後まで飲みきれよ」


「え?俺飲み残したことあったっけ」


「昨夜残しただろ」


「昨夜?俺今朝起きたばっかだぜ?」


「冗談は……」


「リーダー起きたんなら声掛けてって前も言ったすっよー!!!」


「ら゛っ!!」



吹き飛んでいくクレイルを間一髪で回避する。弾丸よろしく突っ込んできた寝起きのマルクを引き剥がすのに加勢したせいで、口に出しかけた妙な違和感を問うことも出来ぬまま。キッチンにいる時はやめろ!と大声を出す親友を、訝しげな視線で眺めていることしかできなかった。

こんな時、アイツならどうする。

ガーディアンの胸の内を、白皙の恋人が占めていく。聡いあの人ならば、このぞわぞわとぬるく這い登る、薄気味悪さをどう払う。越冬前に会ってから、ほとんどと言っていいほど会えていなかった。手紙を出しているし、返事もやってくるけれど、手紙からはそばにいる時のそこはかとない安心感を得ることが出来ない。薄気味悪さを忘れたいが故か、寂しさ故かはガーディアンにはわからなかったが、気分を落ち着けたくて仕方がなくなった。明日にでも、なるべく早くに会いに行こうと、変わらぬ表情のまま息を着く。

ようやっと起き上がったクレイルが、髪も結んでいない寝巻きのマルクに身支度をしろと言い付けて追い返し、それからヘプタのカップに少し水を注いだ。体温の低いあのドールはきっと、そのままだったら火傷してしまうから。

マドラーでふたつのカップの中身を順番に混ぜ、右手にヘプタのカップを持ち、空いた左手で自分のカップを持ち上げた。少々行儀が悪いが、一口二口飲み下しながらダイニングテーブルへやって来て、いつもの席のいつもの位置へ、いつものように自分のカップを置いていく。

そのまま踵を返して玄関の方へ。ヘプタの部屋は玄関を通り過ぎた奥にある。人差し指の第二関節でノックを3回。寝惚けたような、なんと言ったかは全く聞き取れない声が聞こえたら、ドアノブを押し込み扉を開けて。



「おはよーう」


「んー……」



布団の中、目を擦りながら身を捩った、白くて青い子どもの姿についつい笑みが溢れ出る。



「ヘプタは寝坊助だなぁ」



何気なく呟いた言葉にヘプタが目を見開いて、酷く緩慢な所作で身体を起こした。リーダー?か細く放たれた問いに、おうと答えてコーヒーカップを差し出す。



「おはよう、ございます」


「おー、おはよう寝坊助」



寝坊助はどっちだ。カップの取っ手を受け渡す時に微かに触れ合った指先は、カップなんかよりも暖かくって、なんだか溜め息が出てしまいそう。

かがんでいたその人が立ち上がる。揃えておいてあった義足を手に抱いて差し出し、早く行こうぜ、なんて、なんでもないふうに笑った。二度寝は許してくれなさそうだ。


すっかり髪を結いきった青玉が、明るい表情でルァンに礼を告げる。きっちり下げられた頭を軽く撫でてやってから、皆を起こしに行こうか、と、小さな小さな手を取った。

仲間達を起こしてまわるのは簡単ではない、皆一癖も二癖もある個性の強いドール達だ、耳元でフライパンをぶん殴りながら30分粘っても起きてこないことだってザラにある。まぁ、大体シリルのことなのだが。

簡単に起きてくれるドール達を優先的に起こしていくのは、寝覚めの悪いドール相手に粘っている時の騒音で起こすよりかはマシだから。暗黙の了解である。

ミュカレとセレンの部屋をノックする。念入りに5回。



「2人とも起きてるかい?」


「みゅかねーね、びんちゃんおはよー!」



返事はなく、ただただ無音。首を傾げた青玉が、ルァンの真似をして扉を5回ノックする。やはり返事はない。

怪訝に思ったルァンが、よく通る声で断りを入れてからドアノブを捻り中を伺う。無人。ミュカレもセレンも不在だった。ベッドの横のサイドテーブルに、トランシーバーがふたつ、赤い羽守りがひとつ置いてある。

散歩にでも行ったのだろうか。あまりジロジロ見るのも失礼だろうと首を引っ込めると、部屋の扉を後ろ手に閉めた。残念そうな青玉を連れて、他のドール達の部屋へ。

ラクリマ、シアヴィスペムを起こす。ラクリマはとっくに起きていて、朝餉の用意を手伝わんとちょうど部屋を飛び出てきたし、シアヴィスペムも部屋の中で髪を結っているところだった。ホルホルとアンドは既に起きているらしく、クラウディオを起こさんと格闘しているようだった。

リベルを起こしに行こうか、と淑やかに告げられる次の予定。本来彼に与えられているはずの、「リベル」と、金釘流の文字で書かれたネームプレートが下がるドアを素通りし、さらに向こうの端の部屋へ。

鍵すらついていないその部屋は、壁に大穴が空いている。扉を押し開ければ爽やかな木の香りが鼻腔をくすぐり、まだ若い木の葉が視界いっぱいに緑をもたらした。リベルは基本的に自分の部屋で休息を取らない。拠点の端の部屋に枝葉を広げる、偉大で、巨大な隣人の元で眠るのだ。拠点横の│けやきの上にできた、大人2人程度ならば優に身体を休められるちょうどのいい空間がリベルの寝床だった。



「りべにーに!おはよー!」


「リベル、おはよう」


「げ……おはよー」



呼び出される前に脱出しようとしていたのかどうかはわからなかったが、しっかりと2本の脚でまっすぐ立っているリベルの姿が見て取れた。とっくに起きていたらしい。

しゅるり、衣擦れの音。緑の髪がゴムで括られ、アホ毛がぴょこんと飛び出たいつもの髪型に。青玉はこのアホ毛のことを、勝手にぴょんこっこと呼んでいる。響きもさることながら、ぴょんこっこ自体の見た目も可愛いのですっかり浸透していた。



「ねぇ、昨夜植物達に誰か水あげた?」


「いや……?みんなに聞いてみようか」


「んー、まだいい。あとさぁ、リーダーって兄弟とかいる?」


「そっちは聞いてみようか、ちょうど今朝起きたみたいだから」


「今朝?今朝……んー…………あ!新しい弓の代金請求しなきゃ」



へらり、飄々とした顔のまま後をついてくるリベルを連れてリビングへ降りる。全員起きたらしく、ダイニングテーブルの上には料理が運ばれだしているし、皆順繰りに手を洗っては思い思いの席に着いていた。

料理の皿を運ぶクレイルを呼び止めたリベルが右手を差し出し、瞬き一度の後にクレイルがいい笑顔で頷く。様子を見るに、新しい弓はどうやらすぐに手に入れられそうだ。そのすぐ後にリベルが何かを問いかけて、それを受けたクレイルが、遠目からでもわかるくらいはっきりと、首を左右に揺らして返した。あぁ、そのまま流れるように皿を持たされている。運搬係に任命されてしまったらしい。あわれ。



「ねぇリーダーおはよう、ねぇねぇ、困った時はお互い様だよねー!」


「おうラクリマおはよう、寝起き早々作った覚えのない借りを返さないとダメなのかー。今度はなんだ?」


「図書館にいる警邏隊の、警備の人を退かしたいんだけどー、どうするのがいいと思うー?」


「そりゃ他所で騒ぎ起こしてひっぺがすのが……」


「ラクくん!殴るのとかは無しってちゃんと言わなきゃ!」


「殴らねーよ、わかった、頑張ってなんとかしてやっから…………一時半くらいに図書館で待ってろ。あと、絶対。ぜーったい!絶対テレビつけるな。ほら皿持ってけ」


「ンー!さすが、話がわかるねっ!これで大丈夫……だよね!」



アンドとシリルが目玉焼きに何をかけるか口論しているのをBGMに、皆順々に席に着いて手を合わせる。いただきますと上がった声。箸の鳴る音、料理をとる音。思いついたように、シアヴィスペムがサラダを茶碗に取り分けながら声を上げた。



「ミュカレくんとセレンくんの分ラップして冷蔵庫においてあるけど、みんな食べちゃダメだよ!」


「食べちゃダメッスよ」


「こっち見ないでください!俺食べるなって言われたら食べませんからね」


「ヘプタくん前科あるから……」


「へぷちゃん前科もち!」


「あれはシリルさんに唆されたので……」


「えぇ!?僕が悪いってのかい!?」


「シリルお前越冬前に俺が用意した柚子湯の柚子全部潰しただろ」


「それはつまみ食いじゃないだろう!?潰した方が効能強くなると思って……」


「食べ物無駄にするとかホントしょーもないよね、そんなんだから首取られちゃうんじゃないの?」


「黙って食え」



ガーディアンの仏頂面がじとりとダイニングテーブルを一瞥する。はぁい、と気だるげな返事、うーっすとゆるい返事。ガーディアンの一声は少々トゲがあったが、誰もそれを気にはとめないため空気が剣呑さを帯びることはない。話し声が止み、リズミカルな箸の音とほんの僅かな咀嚼音だけが響くダイニング。ぽっかり空いた空席ふたつが、全員の食事の進みを遅めていた。















空いた席の主である、ミュカレと檳榔子玉。手を繋ぎ、朝の陽射しがゆっくりと昼の陽射しに変わり出す木漏れ日の中を2人並んで歩いていく。拠点からかなり離れたが、啄木鳥の森を見に行こうという提案を実行するには仕方の無い事だった。

雨の降らぬ啄木鳥の森は美しい。雨が降っていても美しいことに変わりはないのだが、やはり、泥濘のない軽やかな土を踏みしめる感覚は何者にも変えがたかった。

少し古ぼけた神朱色の鳥居が連なる石畳の上まで歩を進めると、地面特有のやわさを含んだ足音が乾いた足音に変わって、静けさの中に響いて消える。

桃色をたたえ始めた桜の木から、緑が芽吹き始めた楓の木から、悠々と広げられる枝葉の間から舞い降りた薄明光線が伸びてきて、ゆっくりと森の空気を浄化していく。木々の微かな呼気が森特有の柔らかな香りを作って、動物達の、ドール達の肺を清めてまわっているような。



「ねぇセレン、愛してるよ」


「えっ、急、俺もだよ……どうしたの?何か、あったりした?」


「ふふ、照れてる?」


「はぐらかさないで」



クスクス、笑って口元を隠すミュカレが、反対の手で檳榔子玉の頭を撫でた。はぐらかしている訳では無いらしい。



「凄く嬉しいんだ、こうしてセレンと一緒にいられることが」



それは、檳榔子玉だって一緒だ。願わくば、ミュカレと共に遥かな夢である大海を望むことができたらと思うほど。自分はミュカレと並んで、遥かな景色を望みたいのだ。一体全体、どれほど焦がれたことか。



「ねえセレン、僕達ずっと一緒だよね」


「当たり前でしょ……なんで急にそんなこと言うの」


「ふふふ」



例え身体が離れても、互いの心は固く固く、糸で結ばれている。ミュカレが心底嬉しそうに笑って、檳榔子玉を抱き締めた。

照れくさいながらも、応えないなんて選択肢は無かった。そっと抱きしめ返して、ハグの後にいつもキスを贈ってくれる恋人の為にほんの少しだけ距離を開ける。右手を頭上の頬へ添えれば、ミュカレの左手がそうっと檳榔子玉の右手を包んだ。深く艶やかな、紫色のアメジストが輝く婚約指輪がちかりと瞬いて照れくさい。

シンプルなデザインのプラチナリングは、規則正しく光を返して艶めいていた。森の緑、ミュカレの黒髪。そして、それを焼き焦がさんばかりに燃え盛る、炎のような青い色。

まっすぐ、まっすぐこちらへ。



「ミュカレ!」



真っ直ぐ落ちてくる青い星から守らんと、両腕を伸ばして最愛を突き飛ばした所までは確かに意識の内だった。



暗転。

















​───────​───────

















「……昔の話です」


「でも、大事な話だよ」


「そうでしょうか」


「きっとそうだよ」



図書館。白い光を帯びた白皙のドールと、瞼を閉じた洗柿色のドールがカウンターの内で寛いでいた。日曜昼の図書館は静かだ、皆昼飯時であるし、店を営むドールにとっては稼ぎ時だ。よっぽど読書好きのドールでないならば、日曜日は皆読書以外の他のことをしている。

週末は図書館の司書をしているスティアと、図書館の警備当番があたったアルクの同僚であるお菓子屋の店主も、土日ばかりはほとんど出勤してこない。

今思えば相当ゆるい勤務体制が敷かれているなと思うが、臨時で雇われているだけのようなものだから、仕方がないかと息を着く。むしろその緩い勤務体制に救われている箇所もあるのだ、自由が効くのと効かないのとでは当然前者の方がいい。



「こんなに人がいないのに、こんなに沢山警備がいるのは不思議だと思わないかい?」


「本が貴重だから、ですかね」


「それはそうだけれども。君も頻繁にここに置かれているね」


「……自分の意思です」


「そうかな」


「…………多少、指示でもありますが、元はと言えば自分の意思ですよ」



スティアは基本的にいつも目を閉じているが、周囲にどれだけの人がいるのか、大まかに何が周囲に置かれているのか、その程度の簡単なことならは目を開かずとも把握することが出来た。

帳簿を指で探り、微かな凹凸を頼りに最新の空白を引き当てる。そのまま伸ばした手のひらで、上品な装飾の施されたペンを手に取ると、目を瞑っているとは思えぬほどに流麗に、司書当番表に自分の名前を書き示した。慣れている。見ずともわかるのだ。



「今日はなんだかね、とっても楽しくなるような気がしてならないんだよ」


「……勘、ですか?」


「そんな感じかな。亀の甲より年の功というだろう?」


「なるほど」



顔は見えない、見ない。だが隣の好々爺が、理解し難いほどに楽しげなことだけは伺えた。
























永朽派拠点。

大聖堂に配置するに相応しい、洗練された家具の並べられたリビングには、昼の陽射しが差し込んでいた。ステンドグラスの灯りを潜るようにリビングを抜けて、キッチンに向かう通路の左手、下へと降りる階段へ。

大聖堂には地下室がある。地下空間には大浴場と、拘置所。


柔らかな布の感触が頬を撫でる。暖かくも冷たくもない空気が檳榔子玉の身体を包んでいた。するり、誰かが。覚えのある体温が檳榔子玉の頬を撫でる。



「おはようマイディア」



ミュカレ。声を押し出すも、ろくな言葉にはならなかった。それでも伝わったのだろう、ぼやける視界の中、愛しい恋人の表情が柔らかく蕩けて。

はっきりしない意識がゆっくり、緩慢に浮上してきて、ようやっとのことで視界に収まる情報が頭の中に入ってくる。ミュカレは見たことの無い格好をしていた。

枝毛ひとつない艶やかな黒玉ぬばたまの髪が、左の肩の上を流れるようにゆるい三つ編みに結われており、紺碧色のヘンリーツタを模した装飾がその中に編み込まれている。まるで鎖のように伸びるその装飾は髪のみならず、衣服にまでも伸びていて。

見たことも無い服だった。紫色はミュカレの色だからと見慣れていたが、その紫色に溶け込むように伸びては絡む紺碧色の自然の鎖。

ここはどこだろう。ぱちり、目を瞬いて、ゆっくりと上体を起こしていく。あまり動かないでとミュカレが優しく檳榔子玉の頬を包んだ。



「ここ、どこ」



ミュカレは答えない。変わりに優しいキスを。首を動かしてみれば、石床の上に毛足の長いラグが敷かれた簡素な空間。檳榔子玉のいるベッドから見て左手には壁。右手には鉄格子。狭くはないが広くはない部屋の中には、檳榔子玉の愛用していた画材がほとんど一式揃っている。遠目から見てもわかる。どれもこれも上等の新品だった。

身動ぎすると、右の足首に革の枷。パッと見ただけでもかなり分厚く、相当頑丈な代物だろうことが伺える。眼前に立つミュカレの姿をもう一度よく眺めたらば、ミュカレの足首には枷なんかどこにも見当たらなかった。



「え、監禁……?」


「うーん、ちょっと違うんだけど。そっちの方が良かった?」


「良くない良くない」



首を横に振る。それはもう元気に。そんな檳榔子玉の姿にクスクスと笑ったミュカレが、ちらりと鉄格子の方へ視線をやって嬉しそうに笑った。



「ねぇ、ヴォルガ様。セレンが起きたよ」


「そうですか。よかったですねぇ……」



ゴトン。ゴト、重苦しい足音が石床を鳴らしてやって来る。鉄格子の向こう、淡い青に緑を孕んだ長い髪。淑やかな振る舞いをする、よく見知った、檳榔子玉の。


檳榔子玉の親友。



「おはようございます」


「あ……」


「ねぇ、ヴォルガ様。これが僕のセレンだよ、気に入った?ずっと一緒にいてもいいんだよね?」


「ええ。とっても、素敵なプリンセスだ」


「本当?ふふ、ヴォルガ様がセレンのことを気に入ってくれなかったらどうしようかと思ってたんだ」



見たこともないくらいに、隣のミュカレがはしゃいでいる。子供のように笑顔を浮かべて、酷く嬉しそうにぎゅうっと檳榔子玉の手を握るその姿。



「マイディア。この人はね、僕の……なんて言ったら良いのかな、とっても素晴らしい人なんだ。僕のヒーローなんだよ、警邏隊の、ヴォルガ様って言うの。きっとセレンもすきになる」


「随分仰々しい紹介ですが、私はただのミュカレの上司です」



越冬中に何度も電話を交わして笑った相手だ。檳榔子玉の恋の話をいつだって遮ることなく聞いてくれた唯一無二の友人が、最愛の恋人の上司で、話に聞いていた恩人と同一人物だったとは夢にも思うまい。



「そしてミュカレ、私と鶴は……セレンは、親友と称して差し支えないほどには親密な友人関係です」


「そう、だけど……ミュカレの、恩人さんで、けいらたい?瑠璃が……ヴォルガが……?」


「セレンの親友さんが、ヴォルガ様?」


「ええ。お2人にはっきり言ったことはありませんでしたが……セレンの聞いていたミュカレの恩人とやらは私で、ミュカレの聞いていたセレンの親友とやらも私です。黙っていてすみません」



なんで。



「ふふ、その方が、ほら。美味しいじゃないですか。あなたがたふたりミュカセレ監視みまもりに都合が良くて」



クスクス、手袋に包まれた指先が口元を隠す。ミュカレとヴォルガは、笑い方がそっくりだった。



「……こんな状況でさ、こういうこと言うの、場違いかもしれない。でも言いたいん、だけど」


「……ミュカレ、席を外してください。少し二人きりで話がしたい。終わったら仕事をお渡ししますから」



わかったと、こくりと頷いたミュカレが檳榔子玉の額にキスを落とす。軽やかな足取りでヴォルガの横を抜け、鉄格子の向こうに消えていく。ヴォルガとすれ違う時にハグをしようとしたらしいが、ヴォルガがそっと左手でソレを制止した。少々残念そうに手が高度を落としたが、それすら大して気にならないのか、スキップでもするみたくその場を離れていく。階段を上がっていく音の後、ヴォルガが檳榔子玉の側へ寄った。


ヴォルガが檳榔子玉と話す時は、いつだって跪く形になるのだった。今回もそうだ、2m近い身長を持つ親友の、酷く目立つ緑色の瞳が間近に降りてくる。

出会った時はここまで身長差は酷くなかったというのに。置いていかれるような気がしないでもなかったが、頭の位置が離れても、ヴォルガはいつだって檳榔子玉の隣で大口開いて笑っていたし、檳榔子玉もヴォルガの隣で大声上げて笑っていた。

にこやかに緩く弧を描く口元が、早く続きを話せと急かしている。


一息。吸って。







「この状況!!!瑠璃の同人誌で見た!!!!」


「うわ、鼓膜」



怒鳴りつけるみたく大声を上げる。遠慮はいらなかった。どうせ、秘密も、性癖も、ひとつを除いて全てを知られているのだから。ヴォルガもセレンも、瑠璃も鶴も、互いに尊敬はすれど遠慮はしない。ミュカレとのこともかなり開けっぴろげに話していたことが思い起こされるが、ミュカレ本人とも交流があったというのなら、きっと本当に全部知られているのだろう。



「瑠璃こういうの好きだもんね!!」


「はい!大好きです」


「いい返事!!はいじゃない!」


「だって、利用しない手がありますか。大好きな親友が、長年恋い焦がれていた相手と共に末永く幸せになる姿を超至近距離で見られるんですよ?監禁のお手伝いのひとつやふたつ」


「しかも俺君の仕事ぜんっぜん知らなかったんだけど」


「言ってませんでしたからね、警邏隊だなんて一言も」


「言うでしょ、普通。少なくとも監禁の手伝い始めるよりかは先に言うと思うよ俺は」


「えぇ、言いますぅ?物語中で結ばれる2人の幸せを陰ながら手引きした人が真の正体を明かすシーンは物語の終盤までとっとくものでしょう」


「そうだったね、瑠璃は幸せと書いて監禁エンドと読むメリバ主義の人だったね、泣きたい」


「鶴は結末幸福主義者でしたものね。あー泣かないで、あなたが悲しいと私も悲しいです、よよよ」


「腹立つぅ……」



2人はオタク趣味だった。


そも、出会ったきっかけがあまり大声で他人に言えるようなものでは無かった。鳥籠の中には東洋のニンゲンが残した文化がかなり色濃く残っている。

雅で、風流で、趣のある、遥か悠久の時を渡り残されてきた、大昔から紡がれる伝統的な物。それから、頭がおかしくて、性癖の煮凝りみたいな、ニホンジンと呼ばれたニンゲン達のちょっと悪い所を、妙な職人気質で新たな文化として確立させてしまった比較的新しい日本独自の__伝統。


2人の共通の趣味は同人活動である。

ニワスと呼ばれる鳥籠内で屈指の大きさを誇るコミックマーケットで、2人は運命的な出会いをした。それはそれはもう他者にお話し難い程運命的だった。

ヴォルガは大瑠璃と名乗ってレーサー界隈の血みどろナマモノ二次創作をしていたし、檳榔子玉は鶴と名乗ってゲロ甘ハッピーエンドの少女漫画ナマモノ二次創作をしていた。何故かジャンルも性癖も違うのに意気投合して、狂気の合同サークルを立ち上げるほどには仲良くなってしまっていたのだ。互いに互いの黒歴史を握っている。



「ひとつ間違いをただすとすれば、貴方はミュカレに監禁されているというよりも、私に捕縛されているということです」



さっきまでゲラゲラ笑っていたくせに、急に真面目な空気に引き戻してきたヴォルガをチベットスナギツネのような瞳で見やる。チベットスナギツネなんて生き物は鳥籠の中に存在しない。架空の生き物である。愚かな何かを憐れむような視線を寄越す姿がいたくニンゲン達の間で好まれた、という伝説が残るキツネの仲間だとは聞くが。



「貴方、革命派と交渉する為の捕虜なんです」


「捕虜」


「囚われのプリンセスということです」


「プリンスが囚えてる側にいるんだけど?」


「困りましたね」


「こっちのセリフだけど?」



また笑いだしてしまった親友の姿を横目にため息をついた。ミュカレが永朽派側のドールだったことにショックはある。誰かの下で動いていたこともショックだ。だが、その相手がヴォルガだったことに安堵する自分も心のどこかにいて。

ミュカレの上司が、親友でよかった。この状況を見直してみたら、決して「よかった」なんて言えるような状況ではないのだが。

ヴォルガならば、本当の本当に檳榔子玉とミュカレの幸せを願ってくれていると知っているから。だからまだ、落ち着いていられる。基本的にこの親友は暴走気味なのだ、少々手荒だが、間違いなくこれは「ミュカレと檳榔子玉を引き剥がしたくない、くっ付けておいておきたい」という理想が超特急ノンブレーキで発射してしまった結果だろう。さすがに長い付き合いであるから、親友の性質くらいは理解していた。



「あなたも私の部下にするという手があったのですが」


「しなかったんだ」


「……だって貴方、ミュカレと海を見たいって。その後私ともと、仰ってましたよね。外が見たいって」



冗談めいた声の後、するりするりと落ちていくトーン。ほんのり冷たさを帯びた、しかし芯のある声が檳榔子玉の鼓膜を揺さぶる。



「貴方、絶対断ってるでしょう。こちらへ来ないかと言っても、貴方なら断った」


「ミュカレが寝返ってるのに?」


「ふふ、貴方がひとつのことに一途で、意外と強情なこと、知ってますから」



親友と恋人が、はるかな夢を捨てろと囁いても。きっと檳榔子玉は、と。ヴォルガの顔はほんの少しだけ寂しそうで、申し訳なさそうで。



「その上での捕縛です。残念ながら、貴方に諦められないものがあったように、私にも諦められないものがあります」



檳榔子玉も、ヴォルガも。果たしたい夢があると語らった仲だ。互いがどれだけその夢に、願いに、悲願に思いを馳せていたのか知っていた。だから。



「貴方が、私が今まで隠してきた一連の嘘についてどう思うかは関係ありません。私は警邏隊のドールとして、貴方達を潰さなければならない。使えるものは使います」



しん、と静まり返ってしまった地下牢。空気は案外穏やかだった。恋人が、あの暖かな巣を裏切ったという事実を突きつけられても。親友がそれに一枚噛んでいたと知っても。

ミュカレはあの巣を裏切った、けれども檳榔子玉を手放さなかった。ミュカレが盲信している相手は、何処の馬の骨とも知らないドールなんかではなく、檳榔子玉とミュカレの幸せを真に祝福してくれる親友だったということが。その事実が。

自分は、愛されているなと。風のない日の湖畔みたく、妙に凪いだ心の内側で漠然と理解した。でも、だからと言って。

ミュカレと、愛しい男と海を見たいなんて、ささやかで遥かな夢を諦めるつもりは無い。

そう告げてやろうと口を開きかけたところで、地下牢に響いた足音がそれを遮った。否、正しくは遮られたのではなく、自分で止めたのだと数泊遅れて気がついたけれど、その考えもタンタンタンと、無遠慮で勢いのある、軽やかなヒールの音でかき消された。ミュカレでは無い。檳榔子玉の肩が緊張に強ばる。



「リーダー。これ……?」


「あ」


「おや、コラール」



ほんの昨日、顔を合わせたばかりの好敵手ライバルの姿に思わず口が開いてしまった。

桃色の可憐なドール、コラールの機嫌が急降下しつつあるのが傍目からでもよくわかって、檳榔子玉は気が気でなかった。



「トランシーバー、呼び出し音なってる」


「わざわざありがとうございます」


「役に立つのなんて当然だから。もっと褒めてもいいよ」


「気が利きますね、まるで駒鳥のように愛らしいと言うのにこんなに頼れるなんて。流石です、ラル」



高飛車な態度をとるドールに礼を告げ、トランシーバー片手に地下牢を出ていくヴォルガの姿を見送った。

かちり、ピースの嵌っていく音。檳榔子玉はヴォルガに恋の話をしていた。していた、だが、それはヴォルガも同じことで。親友の惚れた人。淡い桃色の髪に、仕事熱心で、少々言葉にトゲがあるが愛らしい人。



「……恋人の恩人かつ上司が俺の親友で、親友の好きな人が俺のライバルで恋人の同僚……ってこと……?」


「何?急にブツブツ言い出して。ウザイんだけど」


「ごめん……」



あまりの混乱具合に咄嗟に謝ってしまったが、今のは謝る必要がなかったの冷静に思い直す。とてつもない四角関係を認知してしまった。こんなことあってたまるか。あるのだが。



「コラール、大通りの見回りをお願いできます?本来私が行くものだったのですが、緊急で別の場所の交通整理の仕事が来て。私の代わりを頼めますか?」


「リーダーの代わり……任せてよ、完璧にしてみせるから」


「ありがとうございます。大通りの見回りが終わったら非番に戻ってくれて構いません。私は今から飛行競技場の方へ行きます」


「うん」


「ではセレン、また。見張り置いていきますね」


「いらない、お土産みたいなノリで言わないで……」



ヴォルガが手を振り、格子の部屋を閉める。鍵をかけて颯爽と出ていった親友に手を振り返したら、華やかな好敵手にキッ!と睨みつけられた。


ミュカレは檳榔子玉と、鳥籠の内で心中したい。

檳榔子玉はミュカレと、鳥籠の外を望みたい。

諦めやしない。きっと諦めるような日は来ない。長いことそう思っていて、そう思っていたからこそあの派閥に身を置いたのだ。

セレンディバイトの名を冠した黄金の覚悟は硬い。硬いはずなのだ。



「……とりあえず…………どう、しようかな……」









コラールと共に地下を出たヴォルガが、リビングのソファにかけていた警邏隊のウエストコートを引っ付かみ、やや乱雑に身に纏う。テレビの前、ミュカレがぽつんと立っていた。

どうかしましたか、と近寄れば、テレビの画面に知った顔。



「……急に飛行競技場の交通整理なんて、おかしいとは思いましたが……そういうことですか、お師匠様」



画面の向こう、10年前と寸分違わぬ姿で空を舞うヒーローとその下で熱に浮くドール達の姿に、ヴォルガの激情が燻って。

何か企んでいるのだ。何を企んでいるのかはわからないが、その企みはきっと、様子を見るに成功しているのだろうことが伺える。赤い光の灯る飛行競技場に、病的なまでに沢山のドールが集まってしまったらしい。その様、まるで誘蛾灯。



「デライアとニアンは非番で、確かレースを見に行くと言っていました。アルク先生は図書館の警備、スティアも図書館……」


「梦猫はサボり、アルファルドは非番で店、ルフトとアイアンとカーラが隼の谷見回り」



よく覚えてましたね、梦猫はあとで報告書ですとヴォルガがコラールの頭を軽くなでる。無念なことに容赦なくサボりをチクられてしまった梦猫は、報告書一枚が確定した。

ヴォルガが2階に向かって声を張り上げる。シルマーとラフィネに地下の見張りを言い付けたらしく、2階、やや遠くからシルマーの平坦な了承が返されて。

北と南はいいので、大通りをお願いします。北と南も行けるよ、と返したコラールに、少し困ったように眉尻を下げてから、ではそちらもお願いしますと追加で仕事を増やしてしまった。

わかった。コラールからの短い応答。機嫌を損ねたかと思ったが、どうやらコラールのやる気を煽るのには寧ろ、仕事を増やしてやった方がよかったらしい、ほんの少し晴れた表情でしっかりと頷く。ヴォルガが笑ったのを見留めると、コラールもほんの少しだけ微笑んで返して見せた。



「ヴォルガ様、僕もついて行っていいかな?」


「元よりそのつもりですよ」



ヴォルガ、様?様とはなんだ。

コラールの、花も恥じらうような微笑みはミュカレの呼び掛けの後にほんの一瞬で消えた。焦るようにすぐさま踵を返したリーダーが急ぎ足で拠点を出ていき、それを、見たことの無い、紺の葉の鎖を身に纏う紫の蜘蛛の姿が追っていく。

ミュカレは檳榔子玉に夢中であるし、ヴォルガもコラールに夢中であったが、コラールにはそんなことを知る由もなかった。

あちらもこちらも、抑えようのない春の風と血の香りに掻き乱されている。

















​───────​───────

















『“ こっちにきてくれ ”!とびきりいいもん見せてやる!!』



カメラを通じてテレビ、マイクを通じてラジオ、スピーカー。伝播する赤い熱、集まる人、人、溢れる、人。



「凄……これほとんどこのレース目当てに集まったんですよね?やっぱりあの人が空飛ぶ姿はみんな見たいんですよ」


「いやここまで来たらなんかキモくない?みんな何でそんなに一箇所に群がるかなー、お兄さんにはちょっとよくわかんないね」


「う!くれいるー!がんばれー!!」


「聞こえるはずないでしょ、ほら、迷子になられたらすー…………ッッごい迷惑だから、ヘプタと手ぇ繋いで。行くよ、お兄さん達の役目は観戦じゃないの」



飛行競技場。

クレイル、ヘプタ、リベル、青玉。



「ね、ねぇニアン、これ変じゃない……?」


「んん……人、すごいいっぱい……ょ、いそう……」


「なんか、こ、怖いよこれ。さっきまでこんなにいなかったのに、あの人出てきてから五倍くらいに……ぅ、すず、も、どこだろ、見えない、くるしいっ」


「でらぃあくん、出よう、人酔いしそうだし……外にるふとくんと、あいあんくんと、かーらくんいるって」



ニアン、デライア。

ルフト、アイアン、カーラ。













「外の警備員さんがいなくなってしまったねぇ……」


「何か、あったんでしょうか?」



図書館。

アルク、スティア。



「一時半だね、シアヴィスペムが戻ってこないけど……中に居るってわかるだろうし、そろそろ行こうか」


「凄〜、あはっ、ホントに人いなくなったぁ」


「まだ残ってるッスよ、油断大敵ッス!」


「ンー、ガーディアンサン、本何冊一気に持てるー?」


「まさかお前、全部俺に持たせる気なのか」



ルァン、アンド、クラウディオ、ラクリマ、ガーディアン。










「えぇっ!?大通り、なんか人少なっ……!?」



ルァン達に同行していたシアヴィスペムは、一時的に別れて単独行動をとっていた。さげたポーチにはお小遣いを入れておく小さなお財布と御守り。

喉が渇いて、大通りでボトル入りの麦茶を買おうとやって来た。やって来たの、だが。日曜日の大通りは混雑しているはずなのに、パッと見て分かるぐらいにスッカスカ。出店も、何故か隼の谷の方へ移動していく店が多く、やっている店はいつもの3分の2程度に減っている。

冷えた麦茶を売っている出店は幸いなことにそのままで、シアヴィスペムは吸い寄せられるようにそちらへ向かって飛んでいく。



「あ、変な髪型の」


「え?あ、脳筋のうっさいの」



麦茶屋の前。可愛らしい、エメラルドの双眸を持つドールと、アクアマリンの双眸を持つドールが鉢合わせた。



「何?おつかい?はいはい偉いねー、おままごとの延長でおつかいまでするんだ。手が込んでるぅ、ちゃんとお金もらってきたの?勘定できる?」


「警邏隊って暇なんだね……お金のお勘定はちゃんと教えて貰ったからできるに決まってるでしょ、自分の分のお小遣いの管理くらい自分でしてるし」


「暇じゃないんだけど?一緒にしないでくれる、ボクはお仕事中なの。お小遣いじゃない、お仕事してお給料貰ってるんだから」


「ふーん、君みたいな脳筋にお仕事任せるなんて、警邏隊も人が足りてなくてなりふり構ってられないんじゃないの?」


「はァ?ボクは認められてあの警邏隊にいるんだけど。リーダーの……警邏隊のことバカにしないでくれる?」


「そっちこそ。僕だって皆に認めてもらって皆と一緒にいるんだから、革命派のみんなのことバカにしないでよ!」



麦茶屋の店主が困ったように、されど和まされてでもいるかのような表情で2人を見守っている。いつの間にか周囲には人垣が出来ており、可愛らしいドール二体のキャットファイトの行方を気にかけていた。



「何、やろうっての?」


「いいけど、警邏隊と革命派って括りでは絶対やらないから」


「なら喧嘩。正々堂々来なよ、ボッコボコにしてやるから」


「…………わかった、そっちこそ。負けたら革命派のことバカにしてごめんなさいって言わせてやるから!」


「こっちのセリフだよ……!」



ばさり、二対四翼の美しい、白い翼が広げられ、愛らしいドールたちが向かい合う。









​───────

Parasite Of Paradise

6翽─人工太陽

(2021/12/30_______21:00)


修正更新

(2022/09/18_______22:00)

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