奪面雙雄

11-1

 レンゲがくれたメモリには、座標データが示されていた。その場所というのは、新界ニュー・テリトリーにある西貢サイコン区。その山奥だった。

 翌朝、僕は九龍から途中まではバスに乗った。彌敦道ネイザン・ロードから西貢行きのミニバスに飛び乗り、さらにその先はタクシーに乗った。大荷物を背負った日本人は、このへんでは別に珍しくもない。世界放浪中のバックパッカーだと言えば、タクシー運転手は喜んで乗せてくれた。


「へぇー、じゃあ日本からきたんで?」

 バックミラーに映る小太りの運転手は、つたない英語で言った。彼は鏡越しに目線を合わそうしていたけれど、あいにく僕は窓の外を見ていた。

 西貢は、香港で第二位の広さを持つ地区だ。海沿いには風情ある波止場街が広がっている。だが、その奥に行けば話は別である。山道は日本のそれより遥かにも険しく、何度も急カーブを曲がりながら、傾斜をのぼっていく必要がある。これほど急なワインディングロードは、峠道の多い日本国内でもそうそう見つからないだろう。

「ええ、まあ。バックパッカーみたいなもんで」

 僕は絶壁の向こうに見える緑を望みながら、口を開いた。彼にもわかるよう、ゆっくりしと英語で。

「そうですか。西貢にはどうして?」

「自然を見に来たんです。昨日まで九龍にいたんですけど、疲れちゃって」

「あー、あー。わかります、わかります。自然、観光にピッタリですよ」

 運転手はにこやかに言うが、僕の心は晴れやかではなかった。

 ――この先には、レンゲが示した座標がある。

 曰く、そこにはがあると。レンゲは自信を持って言っていた。彼女のハッカーとしての腕は信頼できる。その情報がブラフかどうかは置いておくとして、そういう情報が存在したのは間違いないのだろう。

 問題は、そこにいる白晶菊が何者なのか。本当にリンは白晶菊なのか……。

「運転手さん、このクルマは禁煙ですか?」

 僕は唇に指をあてがうポーズをして、問うた。

「ノー、ノー」と首を振るドライバー。「香港タクシー、全車禁煙ね。吸いたいなら、どこかで止まりますよ」

「いや、いいんです」

 あてがった指を戻す。レンゲが示した場所までは、まだ三十分以上かかるとのことだった。


 やがてタクシーが停車したのは、峠道の中腹だった。道路脇にある緊急停止用の砂場に止まると、運転手は扉を開けた。

「本当にここでいいんですかい?」

 運転手はあたりを見回しながら、オーバー気味の身振りとともに問うた。

 たしかに、周囲に広がる雑木林を見れば、彼が言うのも大袈裟ではないと納得できる。というのも、僕が降りたのは正真正銘ただの雑木林の中。観光どころか、山登りも、キャンプにも行けそうにない。ペンションやホテルもない。あるのは緑だけだ。

「かまいません。ここから先は歩くので」

「歩くって……本気ですか? 確かに登山道なら、ここから歩いた先にありますけど。でも、そこまでなら私が――」

「いえ、ありがとう。大丈夫ですもう。ここから先は、僕の一人の旅なので」

 そう言って僕は、彼に多めのチップを払ってやった。そこまですると運転手も何も言わず、ただUターンして引き返していった。


 ボストンバッグを担ぎなおして、僕は雑木林の中へ。中は本当にただの原野だった。

 そうした手付かずの山道を、僕はかれこれ一時間以上歩いたと思う。もう夕方になりつつあったから、多少なりとも気温は下がっていたけれど。でも、それでも額にはじっとりと汗がにじみ、腕には羽虫がまとわりついて離れなかった。

 猫のような声で鳴く鳥や、耳元で雑音を奏でるコバエ、それから照りつく日差しに耐えて行く。

 やがて一つの建物が見えた。

 僕はその建物に一瞥をくれてから、一枚の紙切れを取り出した。

 それは、レンゲからもらったデータを出力したものだった。といっても機密情報だ。ほとんどは印刷せずに、頭に叩き込んである。ただ唯一出力したのは、衛星写真だった。神の視点から雑木林を映した、一枚の写真だ。

 レンゲはその写真についてこう言っていた。

「グーグルでもなんでもいいけど、とにかくどの衛星写真を見ようとしても、この雑木林にはと表示される。あるのは木立だけ。……でも、実際はそうではない。これ、アタシが中国当局からかすめ取った画像。ほら、見て。よく見ると、木立に紛れて迷彩色で偽装された建物がある。肉眼じゃほとんど見落としてしまうレベルだけど、ほらここ。……なんでもCIAやKGBも追ってるらしいけど。正体は不明らしいわ」

 衛星写真から目を上げる。

 目の前に現れた建造物。モスグリーンに彩られ、天井には自然のカーテンのようにしてツタの張り巡らされたそれは、もはやこの森の一部と化しているようだった。

「ここにリンが求めたものがあるのだとしたら……」

 僕は、そのために殺してきたのだ。

 僕は、そのためにここまで生きてきたのだ。


「……はじめようか」

 そう独り言ちてから、僕はボストンバッグを地面に落とした。その重たさに雑草は頭を垂れ、砂埃は波を立てる。

 ボストンバッグの中には、装備一式がしまわれていた。一番上にはダネルMGLグレネードランチャー。その下にはベネリM3と手榴弾グレネード閃光音響手榴弾フラッシュバン。各種予備弾倉マガジンと続く。

 僕はまずMGLを取り上げてから、次にベネリM3をスリングで肩にかけた。そうしてMGLの中折れ部分を開き、回転式弾倉リボルバーを確認する。

 グレネードランチャーは、文字通り擲弾を射出する装置である。だが、このとき装填されていたのは、炸裂弾ではなかった。

 奇妙な鳥の鳴き声が響く、薄暗い空。僕はそれを見上げてから、ダネルMGLの銃口を上に向けた。

 ためらいなくトリガーを絞る。ボンッ、ボンッ、ボンッ……と音を立てながら、擲弾発射。放物線を描きながら、それは中空にて炸裂した。爆発ではなく、を。

 EMPグレネードだ。建物の中央と左右に向けて撃ち込んだそれは、一時的に電子機器に障害を発生させる電子戦装備だった。

「……タイムリミットは一〇分。それまでに見つけだす」

 左腕、汗ばんだ腕に目を落とす。手首に着けた機械式腕時計は、作戦開始時刻――一八時〇三分を指していた。

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