9-4

 そのとたん、レンゲはその手に持っていたマグカップを落とした。幸いにもカップは割れず、また中も空だったから、ただゴツンという鈍い音がしただけだった。

 床を叩く低い音が響いて、それからレンゲの荒い吐息が聞こえた。彼女は呼吸を整えるように何度も息をして、ようやく言葉をはなった。

「……アンタ、いまなんつった……?」

「雪乃下、シノです」

「アンタ――」

 レンゲの目の色が変わる。

 彼女は床に落ちたマグカップを拾うこともなく、むしろ蹴っ飛ばして立ち上がった。カップ表面のクマのキャラクターは、床板に削られてかすれ始めていた。だが、レンゲはそんなこと気にせず、僕の襟首をつかんだのだ。ネクタイを強引に引っ張って、彼女は僕を引き寄せた。背の低い彼女は、上目遣いで僕をにらみつける。

「……その名前、どこで聞いたの?」

 ネクタイを引っ張って、彼女は僕の首を絞める。

 こんなに鬼気迫ったレンゲの表情を、僕は見たことがなかった。彼女はいつもどこか喧嘩口調なところがあるけれど、それは親愛の裏返しみたいなものだった。

 だけど、今は違う。

「答えなさい! その名前、どこで聞いた?」

「答えたら、どうしますか?」

「会長に連絡する。……それは、アンタが思い出しちゃいけない名前だからよ」

「僕は守田セイギではなく、守田セイギに偽装された雪乃下シノだからですか?」

「……」

 沈黙するレンゲ。

 そうしてとうとう、彼女はネクタイから手を離した。彼女はあくまでもサポート要員だ。前線で銃を握りしめ、文字通りの拳で戦う人間ではない。新人とはいえ、僕相手に勝ち目はないと思ったのだろう。するすると落ちた手は、そのまま床のマグカップへと延びた。

「どこまで知ってるの?」

「リンがアクセスできる情報まで」

「具体的に」

「守田セイギは雪乃下シノに植え付けられた疑似人格であり、守田セイギは存在しない。そこまでです」

「シノについてはどこまで知ってるの?」

「何も。リンがアクセスロックしてました」

「でしょうね。それが正しい判断よ。どこからアクセスしたの?」

「図書館です。リンがいない間に、彼女のアカウントでのぞき見ました」

「のぞき見って……。リンはそこまで能無しじゃないわ。新人にスキを見せるほど馬鹿じゃない」

「でも、ホントです。教えてください。誰なんですか、雪乃下シノって?」

「……弊社の元社員。それ以上でもそれ以下でもないわ。ごめん、アタシには答える権限がないの」

 レンゲは吐き捨てるように言うと、拾い上げたマグカップを机の上へ置いた。

「じゃあ質問を変えます。僕が雪乃下シノのアイデンティティを得たら、困るんですか?」

「困るっていうか……。ごめん、それも答えられない」

「なら、もう一度質問を変えます。雪乃下シノは、楪リンにとっての何だったんですか?」

「それは――」

 レンゲが言い掛けた、そのときだ。

 僕らは聞いてはいけない音を聞いた。本来ならば、この作戦では決して耳にしてはならないもの。

 それは、サプレッサーの装着されていない9ミリパラブレム弾の連打だった。

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