9-3

 パルドスム財団への潜入、および白晶菊の偵察任務は、僕が知らぬ間に準備が整い、決行となった。

 僕に任せられたのは後方支援だった。リンと御堂アキラのサポート担当である。

 でも、リンは僕に「サポートなんて考えなくていい」と言った。援護や支援といったものはしなくていい。僕はただ見ているだけでいい、と。

 そして実際、僕に与えられた任務もそのようなものだった。


 二三三〇時。

 夜更けの東京都下は、死んだように静まり返っていた。

「どう、配置にはついた?」

 そう言うのは、僕の隣に座る烏瓜レンゲだ。

 僕とレンゲの二人は、クルマの中にいた。『早乙女重工』とラッピングされた紺色の偽装バン。一目しただけでは営業車にしか見えない。だが、その中身はもちろん営業車ではない。コンピュータと通信機とが並ぶ空間は、まさに動く電算室だ。

 僕らは偽装バンを路肩に停め、その車内に待機している。

 レンゲは、カウンターテーブルの前に腰掛けて、ディスプレイとにらめっこを続けていた。耳のインカムからはリンと御堂からの無線通信。そしてディスプレイには、監視カメラの映像が映っている。そのどれもが、財団事務局周辺の監視カメラ、あるいは屋内にある監視カメラである。音声こそ拾えないものの、映像はすべてレンゲがハッキングし、掌中におさめていた。

〈位置についた〉とリンの声。

〈こっちもだ〉と続けざまに御堂も答える。

 二人はすでに装備を整え、事務局の東方と西方に到着済み。あとは玄関と裏口の双方向から潜入を開始するだけだった。

「よかった。これからセキュリティを解除する。監視カメラを騙せるのは、どう見積もっても三十分が限界だ。だから、それ以内に戻ってくるように」

〈わかったわ〉

〈了解した〉

 二人は答え、それからすぐに衣擦れと、金属のこすれる音がした。銃の音だ。

「それじゃあ、メインセキュリティをカットする。カメラにはループ映像を流すよ。……五秒前。四、三、二、一……行って」

 レンゲがそう言った瞬間、二人からの通信が一挙に途絶えた。と同時、レンゲがエンターキーを叩き、セキュリティ解除。ゲートを開く。

 僕はその様子を、黙って見ているしかできなかった。


 パルドスム財団。

 その日本事務局は、意外にも東京二十三区のはずれ。奥多摩の工業地帯にあった。

 しかし工業とは言っても、もう何十年も前に廃れた場所である。駅前はさながら登山口のようであり、さらに奥に行けばオートメーションのトロッコが走る鉱山まである。パルドスムの財団事務局とは、そんな田舎町にあったのだ。

 とても東京都内とは思えないその場所で、僕らは待機していた。偽装バンのフロントウィンドウには、明滅を繰り返す街頭の姿が。光は誘蛾灯となって、点いたり消えたり、羽虫の影を投げかけている。どこか遠くからはカエルの鳴き声も聞こえていた。

「……ったく、ここからは暇だよ。ふぁーあ、後方支援もめんどうくさいよ」

 レンゲがディスプレイから目を離し、うんと背伸びをした。ポキポキと背骨が音を立てる。

「いいんですか、そんな呑気にしてて?」

「いいよいいよ。アンタも楽にしなよ。どうせ滅多なことは起きないからさ」

 そう言うと、レンゲはマグカップを手に取り、ブラックコーヒーを口に運んだ。コーヒーは、もうすっかり冷めていた。

「でも、危険なんですよね? だから僕を行かせなかった」

「うーん、それはどうだろ」

 コーヒーをすすり、レンゲは視線を監視カメラに戻した。ディスプレイには、ループ用の映像と本来の映像とが二つ写しになっていた。右側には本物の映像――つまり、リンと御堂アキラの姿が映っている。二人とも黒のスーツ姿で、その手にはサブマシンガンを構えていた。リンがMP5Kにショートサプレッサーとフォアグリップを装着したもので、御堂がKBPのPP2000である。

「正直、御堂はアンタを行かせたがってたんだよね。最終試験前の新入社員なんだから、これぐらいは経験させておいていいだろうってさ。『いつまでぬるま湯に浸からせておくんだ?』って言ってたよ。でも、リンがアンタを外せって聞かなくってね。けっきょく、リンの希望でこういう編成になったんだよ。

 ……でもさ。たしかにパルドスムは、もともと御堂の狙っていた標的クライアントだったから、担当である彼が同行しなくちゃいけないのはわかるんだけど……。でも、リンは一匹狼だし。御堂もそんな好き好んで群れるタイプじゃないんだよな。だから、なんか意外なんだよな、今回の件は」

「意外、というと……?」

「おかしいんだよ。なにか。べつになにも不思議じゃないんだけどさ、なんかヤな予感がするんだよな」

 レンゲがそう言ったときだ。

 僕は、再びそれを見た。この車内が、移動指揮車両となった偽装バンが、青い蝶たちによって埋め尽くされる光景を……。

 まばたきをすると、その光景もすぐに消え失せた。だけど僕には、これが偶然だとは思えなかった。


 しかし、レンゲの言うことは正しかったのだ。リンと御堂の二人は難なくセキュリティを突破。もうあと少しで偵察を完了し、撤収できるというところまできていた。

「だから言っただろ。言うほど危険な仕事じゃないよ、今回の件は。むしろこないだのケン・ウォンの一件のがよっぽどヤバかったでしょ」

 そういうレンゲは、もう仕事を終えたつもりでいるようだった。ディスプレイには、オフィスのPCにハッキングし、情報を抜き出しているリンの姿が見える。御堂の居所はちょうど死角になっていたが、彼も仕上げに入っているところだろう。

 ――ただ……。

 僕はそれよりも、他のことが気になって仕方なかった。

 まばたきする度に幻視する蝶の群。

 リンが言った『バタフライ・エフェクト』という言葉。

 未来人だと語る彼女の正体。

 そして僕の正体、雪乃下シノ。

 リンは僕が「雪乃下シノとは僕のことではないか?」と問うたとき、否定も肯定もしなかった。いや、むしろ肯定するような口振りだった。

 ――雪乃下シノとは何者か。

 仕事の緊張がほどけたせいか、よけいな考えばかりするようになってしまう。忘れようとして、結局忘れられなかったこと。僕は守田セイギなんかじゃない。大学生でもなくて、あの記憶は――図書館で本を探したり、ゼミで発表を控えて焦ったり、両親に大学生活について尋ねられて……というような思い出は、すべて疑似記憶ニセモノなのだ。ということ……。

 いつしか僕は、一つの仮説を立てていた。

 雪乃下シノが何者か。

 そして、『楪リンの本当の目的』とは何なのか。

 つまり僕は、こういうことだと思うのだ。リンがかつて言った『白馬の王子様』。あるいは、『パパ』と呼びたかった愛しの人。その人物こそが雪乃下シノなのだ、と。そしてリンは彼を生きながらさせるため、回りくどい蘇生手術と、疑似記憶の植え付けを行った。どんな姿であっても、自分を育て、愛してくれた人に生きていてほしかったから……。

 であれば、僕がリンの愛しの人に似ているという話には辻褄が合う。彼女が僕の育成に躍起になってるのもなんとなくわかる。そして、あの日肌を交わした理由も……。

 だけどいくつか気がかりな点もある。

 一つは、年齢だ。いくら蘇生手術に整形手術を受けているとはいえ、リンの育ての親である男が、大学生を演じられるほどの年齢なのだろうか? リンは二十代後半だ。十代から育てたとしても、十年以上は経過しているはずだ。それほど若いはずがない。……それとも、実年齢を見失うほどの肉体交換が行われたということなのだろうか?

 もう一つは、名前だ。あの日――僕とリンがカラダを重ねたあのとき、彼女は僕のことを『シノ』とは呼ばなかったのだ。彼女は僕を『セイギ』と呼んだ。雪乃下シノが愛すべき人なら、彼の名前を呼ぶはずなのに……。

 ――いや、あの夜のことは寝ぼけていたのだ。夢だったのだ。途中までは本当だったとしても、あれから先は信憑性が薄い。

 ……だとしたら、やはり雪乃下シノは……。

「あの、レンゲ」

 僕は意を決し、言葉に出した。

 いまこの瞬間なら、リンも聞いていないと思ったのだろう。そしてレンゲなら何か知ってるかもしれないと。あるいは、調べてくれるかもしれないと思ったのだろう。

「一つ聞いていいですか」

「なによ」

 レンゲはディスプレイから目を離さず、コーヒーを口に含んだ。

「……雪乃下シノって、だれですか?」

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