8-3

 文京区にある弊社から、霞ヶ関の外務省まではクルマで十五分たらずだ。しかも朝方のラッシュは終わったあとだったから、なおのこと道は空いていた。

 外務省本庁舎。言うまでもなく政府官庁には厳重なセキュリティが施されている。一般人が立ち入れる場所ではない。

 だが、それもの前には無意味だった。弊社は、政府が極秘裏に設立した汚れ仕事ウェットワークを請け負う第三セクター。そしてその首領アタマは、元外務官僚と来ている。双方が癒着していないはずがなかった。

 正門口から難なくクルマを乗り入れ、駐車場へ。それから正面玄関のセキュリティゲートを来客用入館証ビジター・パスで一発通過。生体認証バイオメトリクスの類も通過。手荷物検査も一切されることがなかった。すべては御楯会長のはからい、その賜物だった。


 本館北庁舎から一階連絡通路を抜け、新庁舎へ。御楯会長と合流したのは、その一階でのことだった。

「ああ、ちょうど来たようですね」

 彼は二階から階段を下りてきたところだった。杖を突きながら、一段ずつゆっくり下っていく。杖と両足との三本足で。

 それから会長は、僕らの隣を悠々と通過していった。そして通過の際、彼はリンに耳打ちした。

「例によってセキュリティは手配しておきました。あとはあなたに一任します」

「了解です」

 リンも、御楯会長も、お互いの歩を止めずに言葉を交わす。目線も交差せず、ただ歩き続けていた。

 僕はどうすることもできず、ただリンのあとをついていくだけだった。


 それから僕らは、新庁舎地下三階にある資料室に向かった。

 図書館、図書室、資料室、あるいは倉庫……。呼び方はいくらでもある。そして本来、そこは御楯のような外務官僚が業務上必要なデータを求めて訪れる場所だった。

 ……でも、僕らにとっては違う。

 訪問者ビジターパスで通過すると、そのまま室内へ。室温、湿度が調整された中には、書庫と呼ぶには狭すぎる空間があった。

「ここ、本当に外務省の資料室なんですか?」

 僕が尋ねると、その声は書棚に反響していった。そうだ。この資料室には、僕ら以外誰にもいなかったのだ。

「誰もいないですけど。司書も見当たらない」

「でも本があるじゃない。本があったら、そこは図書室よ」

 リンは適当に答え、そのままズカズカと書棚のあいだを通り抜けていった。まるで勝手知ったる我が家のように。もっともいつものようにタバコに火をつけることは、この紙切れの巣窟ではしなかったけれど。

 やがて僕らは突き当たりまでたどり着いた。そこは壁という名の本棚で、壁際にもギッシリと資料が詰められていた。ファイリングされたものから、きちんと製本されものまで。その種類は様々だ。

 だが、これら資料には一つの共通点があった。それは背表紙のタイトルにどれも平成以前の年月日が記されていることだ。

「ここは情報の墓場よ」

 書類の群れを見て、リンが言った。

「一応言っておくけれど、ここでタバコを吸わないのは、弊社と違って完全禁煙だからよ。けっしてこれらのに敬意を払ってというわけじゃないわ。ここにある情報は、五年前にすべてデータベース化された。外務省職員なら、すべてをオンラインか、あるいはオフラインでもディスク媒体で保存しているわ」

「じゃあ、どうしてこんな場所があるんです?」

 僕がそう尋ねると、リンはいつもの笑みを浮かべた。僕の問いかけを、僕の質問をはじめから見抜いていたような、あの嘲笑だ。

「言ったでしょ。最高のセキュリティとは孤独スタンドアロンであることだからよ」

 リンはその白い手を一冊の資料に伸ばした。

 彼女が選び取ったのは、『平成三十一年五月一日』と題されたファイルだった。リンは、その背表紙をクイと引き、持ち上げようとした。

 ――そのときだ。

 突然、先ほどまで行き止まりだった本棚が動き始めたのだ。まるで扉のようにスライドし、その向こうに隠し通路を開かせた。

「ここが存在するのは、つまりこういうことよ。じゃあ、レディファーストということで」

 言って、リンは暗がりに現れた隠し通路へ。彼女が踏み入れたとたん、間接照明が動体を関知。通路の先へ光を照らし始めていった。

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