8-4

     †


 ――守田君。

 そう呼ばれていることに僕が気づくのは、このあとおよそ十秒後のことだ。

 ――守田君。

 僕はその呼びかけに応じる気配もなく。ただ呆然と排架された本の群を見ていた。大学図書館の地下二階。電動書庫の最下層。第C群として配置されているのは、一部の洋書と、学術雑誌の群。僕は脚立の最上段に登って、その文字列たちと格闘していたところだった。

 ――守田君。

 三度目の正直という言葉は、そのときの僕には通用しなかった。僕が彼女に反応したのは、実に四回目のことだった。

「守田君」

 そう言われて、僕はようやく脚立から首だけ動かした。

 僕の眼下。書棚の下にいたのは、一人の女性だった。長い焦げ茶色の髪に、淡いピンク色のブラウス、そしてカーキ色のキュロットパンツ。いかにも大学生然とした格好の彼女は、僕と同じゼミの生徒だった。

 ――誰だっけ、この子。

 そう思って記憶の糸を辿ろうとする。

 脳裏に浮かぶのは、それまで見たことのある顔たち。教授に、講師に、サークルの友人、同じゼミ生、それから両親と、そして……。

 ――楪リン。

 彼女の顔が一瞬だけ見えた。だけど、そのとき見えたリンの姿は、いつもと違っていた。ポニーテールにされた髪は、肩ぐらいのウルフカットになっている。そして顔にもいつもの冷めきった微笑みではなく、空虚な無表情を浮かべていた。

 無表情の、なにかが違いリン。その姿が浮かぶや、とつぜん僕のアタマはズキズキと痛みだした。そして同時、その痛みは幻影を呼び覚ました。

 幻影……。そうだ。視界に映るのは、僕を見上げる同級生の少女のはず。

 だけど、急に立ちくらみがして、その光景に重ね合わオーバーレイされたようにが見えたのだ。

 ――それは、バタフライだった。

 青い蝶。鱗粉を撒き散らしながら、それはフワフワと宙に浮かんで、少女の顔に重なる。そして重なった瞬間、僕はまた立ちくらみを覚えた。

 

 視界が一瞬、暗転した。写真のネガのように黒く、茶色っぽくなったかと思えば、僕は一瞬だけそこに葬列を見た気がした。菊の花と、それから炎が並ぶ。棺の運ばれる祭壇の姿を……。

「大丈夫? 脚立、あぶないよ?」

 名前も思い出せない少女が言う。その声で、ようやく僕は蝶を振り払った。

「……ごめん、ちょっと立ちくらみ……。こんな地下の書庫まで、どうしたの?」

「ゼミの資料探し」

 そう言ったけれど、しかし彼女の両手は空いたまま。すかすかの両手には、本の一冊も抱かれていなかった。一方の僕は、脚立も足下に山のように本を積み上げていたというのに。

「佐藤先生厳しいもんね。資料、見つかりそう? あたし、ぜんぜん見つからなくって」

「調べればあるよ。レファレンスはした?」

「レファレンスって?」

 彼女は小首を傾げる。

 記憶のなかの、名前も知らない彼女。ゼミ生のなかの、有象無象の彼女。もはや消えてしまった大学生守田セイギの記憶の欠片。

 僕は脚立を降りて、自分が集めた本を拾い上げた。ちょうど本棚の間は狭いから、僕と彼女の距離はかなり近かった。でも、僕の鼻孔をくすぐっていたのは彼女の髪や香水の匂いなんかじゃなくて、図書館の本を覆い尽くす紙の甘い匂いだった。

 

 その甘い香りが呼び寄せていたのだ。青い蝶を、そして炎の葬列を。

 本を持ち上げたとき、僕はまた立ちくらみを覚えた。本当なら彼女にレファレンスのことを教えようと思ったのに、それはできなくなった。

 なぜなら、からだ。

 僕の視界は、いま再び青一色に支配された。絵筆で一つ一つ丁寧に塗られた点描画のように。そしてその点の一つ一つとは、すなわち蝶だったのだ。

 無数の蝶が、紙の甘い匂いに吸い寄せられて、そして大いなる羽ばたきを引き起こす。その烈風は蔵書のページを一気に繰っていった。まるで風が速読していくみたいに……。


     †


「なにぼーっとしているの」

 リンの言葉が聞こえて、僕ははたと気づいた。自分の意識がどこか遠くに失せていたことに。

 ――どこか遠く。

 それはセンチメンタリズムであり、遠くかつての記憶だった。といっても、僕が大学にいたのは、ほんの数ヶ月前までのことだ。なのに、僕にはもう何年も前のことのように思えていた。

 日に焼けた紙の甘い色香が僕を惑わせたのだろう。僕は一瞬、殺し屋となった現実から離れて、まだ一介の文学徒にすぎなかったころを思い出していた。

 ――そして……。

 あの蝶の群れ。その姿はきっと、リンの言った言葉のせいだろう。

『わたしは蝶の羽ばたきバタフライ・エフェクトを引き起こす、ささやかな鈴の音なの』

 その言葉が僕に蝶の夢を見させた。きっとそれだけのことだ。図書館のノスタルジーとリンの言葉とが重なって、僕の記憶がいびつな階層レイヤー表示をしてみせた……きっとそういうことなのだ。


 僕はそう思い込むと、あらためて弊社の資料室とやらを見廻した。

 電動書庫が幾重にも折り重なって、その狭間から紙の束を覗かせている。その蔵書量は先ほどの資料室にも匹敵する……いや、それ以上かもしれない。

「ここは情報の墓場よ。そして、わたしたちは墓荒らし」

 リンはそう言うと、電動書庫の向こう、小さなデスクに腰を下ろした。まるでレファレンスカウンターのようなその小さなスペースには、いまどき珍しいブラウン管モニタのデスクトップパソコンが置かれていた。

「ずいぶんと古いパソコンですね」

「中身はそれなりに改良されているけどね。この中には、わたしたちが生まれるずっと前からのデータがすべて入ってるの。古いシステムだけど、全文検索もできる。もちろん、そのなかには一般に公開されていない機密情報クライファイド・ファイルもある」

「そんなデータベース、こんな場所にあっていいんですか?」

「こんな場所だからよ。このパソコンは、どこのネットワークにもつながっていない。ただここにある蔵書だけをデータ化して、保存しているの。

 かつては弊社の社員が本の内容をフロッピーに直打ちして、それで検索をかけたそうよ。もっとも今はスキャナーにかけて全自動で送られてくるのを解析するだけなんだけど」

 と、リンはパソコン後ろの電動書庫を指さした。

 見れば、それはただの電動書庫ではなかった。書棚の背の部分から、モーターの駆動音が聞こえてくる。それからパシャ、パシャと光がはじける様子も見えた。

「あの本棚は、所蔵された情報をすべてここに送り込む。そしてここにある本は、資料室の予備が送られている。表向きは予備の保管として」

「でも実状は――」

「弊社が使える機密情報のデータベースってこと」

 リンはそう言うと、またいつものようなクスクス笑いをして、パソコンに向かった。彼女がキーボードへ真っ先に打鍵した言葉は、言うまでもなく『ノースポール』だった。

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