白晶菊
8-1
翌朝、目を覚ました僕を待っていたのは、いつもどおりの姿の楪リンだった。いつものブラックスーツと、縦縞の入ったワイシャツ。開かれたボタンからデコルテラインが顔を覗かせている。
だが、問題は彼女が現れた、そのシチュエーションだった。
「おはよう。コーヒーいる?」
そう声をかける彼女は、僕の部屋のキッチンカウンターにいた。彼女はシンクの前に立ち、ベッドより這い出る僕を見下ろしていた。
「……あの、まだ七時ですけど」僕は眠い目をこすり、タオルケットを剥ぎながら言った。「モーニングコールなら電話でいいのに」
「別にいいじゃない。たまには母親みたいに世話を焼いてみたくなったのよ。どうせ同じ建物に住んでるわけだし。で、キミって朝はコーヒー派? それとも紅茶派?」
「紅茶です。ミルクティー」
「そう。じゃあ久々にわたしも紅茶にしようかしら」
そういうわけで、その日の朝はティータイムから始まった。
バタートーストが一枚と、リンお手製のスクランブルエッグと、練りからしのように皿の端に引っ付けられたケチャップ。そして、アイリッシュ・ブレックファストのミルクティーだ。角砂糖は一人一つずつ。
「図書室がある。とりあえずそこに行ってみようと思うの」
リンがトーストをかじりながら言った。
「弊社にはそんな施設もあるんですか?」
「弊社の、というとすこし語弊があるけど。でも、まあ間違ってはないわね。企業図書館って知ってる?」
「知ってますよ。企業の資料室みたいなものですよね? じつは僕、図書館学の授業取ってたんですよ」
「へえ。じゃあ説明はいらないわね。司書免許はとったの?」
「あいにく。弊社にまきこまれたせいで、オジャンです。まあ、持ってて何かに使えるって資格でもないですしね。……で、その弊社の図書館なんてのがあるんですか?」
「表向きは外務省図書館の倉庫って立ち位置だけど。まあ、もちろん公表されていないけどね」
フォークを使って、スクランブルエッグをすくいあげる。リンの作った炒り卵は、火の通り方がまばらで、ベチョベチョだったりカチカチだったりした。どうやら銃やナイフの使いは長けていても、フライパンと包丁は苦手らしい。
それからリンは、残りのスクランブルエッグとケチャップとをトーストの切れ端ですくいとった。そしてその黄色と赤色でたっぷりになったパンを、彼女は一気に頬張った。
「おいひいじゃない」咀嚼し、飲み干す。「意外といけるわね。ずぼら朝食にしては」
「ケチャップ、口についてますよ」
「どこ?」
「唇の右側です」
「舌でとれそうな場所? なんならキミ、舐める?」
「冗談はやめてください」
僕がそう言うと、リンはいつものイタズラな笑みを浮かべた。
ぺろり、とリンの舌が唇の回りを一周する。
「ま、とにかく。そういうことだから。支度したら、駐車場に集合で」
結局、リンは僕が身支度するあいだもずっと部屋にいた。おかげで僕は、バスルームで着替えるハメになった。
リンは、
「あなたのハダカなんて、見ても減るもんじゃないし。下着だって着てるじゃない」
と言ったけれど、僕に言わせれば違った。
あの夜のことを――夢だったかもしれないあのときのことを思い出すからだ。
そうして緊張と恥じらいいっぱいの着替えをすませてから、僕らは駐車場に向かった。リンの愛車、テスラ・モデルXは、地下駐車場の奥にあった。
僕が助手席、リンが運転席だ。テスラは、乗り手である僕らを認めると独りでにドアを開かせた。
「これから向かうのは外務省。そこで御楯会長と会ってから、図書館に行くわ」
「わかりました。……でも、どうしたわざわざ外務省まで行かなくちゃいけないんです?」
「最大のセキュリティとは、オフラインであることだからよ」
ブレーキを踏みつけ、モーター始動。転車台が回転し、出入り口までクルマを運んでいく。
「まあ、着けばわかるわ」
転車台が停止。地上階へと続く通路が開かれた。
アクセルを踏むと、テスラは急加速を開始。静かに発進した。
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