7-6

 作戦終了後の夜。僕らは、弊社内のある一室の前で待機していた。

 地下二階のひときわ大きな部屋。コンクリート打ちっ放しの空間には似合わない、重厚なアメリカンチェリー材の扉。僕とリンの二人は、その扉の左右に分かれて立っていた。着衣は作戦遂行時と同じで、僕がスーツで、リンがイヴニングドレスだった。

 ただそのときの彼女は、もはや東雲サツキではなかった。彼女はハンドバッグの中からタバコとマッチを取り出して、慣れた手つきで火を点けはじめる。求めるように吸い口を銜える姿は、完全に楪リンその人だった。

 緑色のパッケージ。ハイライト・メンソールを口惜しむように、時間をかけて吸い、それからショットシェルのような形の携帯灰皿にねじ伏せる。その一挙手一投足というのは、楪リンとして完成されたものだった。演技でもなんでもない。彼女が見せる癖。彼女が求めた癖。彼女が愛した人、パパと呼びたかった人の仕草。そのにおいが香水混じりに香ってくる。滲んでくる。僕はそれに気づいて、とたんに目をそらしてしまった。

 そうしてリンが二本目のタバコを吸い終えたころだ。革靴の音が聞こえて、ようやく僕らの待ち人がやってきた。

「待たせました。用事が立て込んでしまって」

 ストライプの入った、仕立ての良い紺のスーツ。全身オーダーメイドのポールスミスで揃えた彼は、の実質的なリーダーである御楯カンゾウだった。

 アルミ合金製の杖を突いて、彼は何とか部屋の前へ。扉を開けると、僕らの招くように目配せをした。彼の白く濁った瞳は、しかし僕らの姿など見えていないようだった。


 地下二階。ひときわ豪奢な扉を持つその部屋は、御楯会長の執務室である。とはいえ、彼の仕事というのは、取引先との調停役――すなわち政府機関と、弊社との取次役である。よって御盾会長がこの執務室にいる時間は、ほとんどないと言っていいくらいだった。

 しかし、それでも御楯の執務室には必要最低限以上のものが用意されていた。応接セットに、専用のコーヒーメーカー。空調システム一式と、デスク上には仕事用の一体型PCまであった。

 応接セットのソファーに座ると、御楯会長は二人分のコーヒーを用意した。僕のぶんと、リンのぶんだ。

「会長はよろしいんですか?」

 僕はそう尋ねたが、彼は首を横に振った。

「ええ。実は先ほどまで友人と食事会に出席してましてね、早めに切り上げてきたんですが、まあ年の割に食べ過ぎましてね。コーヒーの一杯も飲めませんよ」

 彼はそう言って腹をさすってから、ソファーに腰を下ろした。

「君たちからの報告は確かに受け取りました。かなり派手にやったようですね。まあ、安心してください。後処理は下請けがしっかりやってくれてますので、心配しないでください。

 で、問題はその先ですね。ケン・ウォンを襲った謎の襲撃者と、ウォンがこぼした謎の組織……。一応は調べましたが、まあ、ほとんどわからないことだらけだということがわかりましたね」

 言って、御楯は応接セットの机に触れた。

 それは見かけふつうのガラス製のテーブルだった。だが、弊社の備品がそれで終わるはずがない。

 御楯の右手、五本の指が触れると、とたんにガラス面が光り出す。ガラスではなく、透過式のディスプレイだ。パネルは指紋認証を開始。御楯の五本指をスキャンすると、デスクトップ画面へ移行する。

「まず君たちが遭遇した殺し屋ですが、名前は阿久津カイ。谷口組系の指定暴力団、真陸会に所属していたようです。ですが、三日前に破門になっています」

 フォルダを開き、PDFファイルを表示。紙媒体をスキャニングしたような画像が表示された。それは履歴書のようで、目つきの悪い男の顔写真と、犯罪歴とが細かく記されていた。

 阿久津カイ。彼は、まちがいなく僕らが見たサングラスにマシンピストルの男だった。

「……破門、ね。なるほど。親分に『責任取ってこい』って拳銃一つ渡されて、目標コロシのリストでももらったかしら?」

 言って、リンは足を組んだ。いつものパンツスーツならいざ知らず、ドレスのスカートからは彼女の白い太股があらわになる。

「そういうことでしょうね」と御楯。「搬送された阿久津カイの身柄は、こちらで回収しました。もっとも、すぐに絶命しましたがね。真相はもう闇のなかです」

「で、残った痕跡というのが――」

北極ノースポール……」

 リンにあわせるように、僕はつぶやいた。

 その言葉に、僕もリンも、そして御楯会長も閉口するしかなかった。

 沈黙はリンに喫煙を誘い、それはまた御楯会長もそうだった。御楯はジャケットの裏ポケットからアルミケースを取り出すと、中から小さな葉巻シガリロを取り出した。火は、リンがマッチでつけた。

「何か心あたりはありますか、会長?」とリン。

「いや、ないですね。先ほど外務省の友人にも聞いたんですがね、ノースポールなどという組織は存在しないだそうです」

「では、やはり何かの暗号……」

「と、考えるのがベストでしょうね。北極、北、棒、極……和訳というわけでもないのかもしれません。とりあえずは、何かほかに手がかりを探すしかないでしょう。楪君、そして守田君には、そのの追跡を命じます。よろしいですね?」

「かまいません」

 リンが答え、僕は小さくうなずく。

「では、そのように」

 僕は再度うなずき、それから注がれたコーヒーを飲んだ。程良くぬるくなったブラックコーヒー。僕がそれを飲み干し、そしてリンがソファーから立ち上がろうとしたときだった。

「ああ、そうだ。守田君」

 突然、御楯会長が口を開いた。彼も机上のディスプレイをスリープモードに入れて、次の仕事にでも取りかかろうとしていたところだった。

「君の試用期間ですが、もうすぐ終わるはずです。まあ、めったなことがない限り本採用だと思いますが……。それでですが、直属の教育係から最終試験が用意される予定です。それだけ心得ておいてください」

「最終試験、ですか?」

 僕はそう問うてから、直属の教育係――つまり、リンのほうへと視線をやった。

 だけどリンは首を横に振った。

「内容はまだ考えてないわ。でもまあ、要するに独り立ちできるかどうかって判断よ。……とりあえずいまはノースポール。いいわね?」

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