7-4
「しかし、ずいぶん風貌が変わったな。まるで仙人にようじゃないか」
薬袋の声。両手を広げてオーバーに驚く姿がスコープ越しに見えた。それから彼は、部下の黒服にも同意を求めるような目配せをした。
いっぽうでウォン教授は、技術者風の寡黙さを保ったままだった。
「……大学をあとにして、行方を眩ました」
「それは私も聞いている。君と連絡を取るのも一苦労だったんだぞ?」
「すみません……。じつは、あえて連絡を絶っていたんです」
「あえて?」
首をかしげる薬袋に、ウォンは復唱して答えた。「あえてです」と。
「……私はいま、ある組織にいます。正確には、いました。
そこは、要するに企業の研究部門とでも思ってください。はじめはヘッドハンティングでした。大学にいるより、企業の研究機関にいたほうが良いかもしれないと思ったんですね。給料もよく、妻子のためになると思った。……でも、それは間違いだった。
最初は良かった。だけど組織は転勤を命じました。転勤と言っても、職場と住居はすべて会社が用意しました。ひどいもんですよ。オフィスも住居も、すべて同じビルの中。外へはセキュリティの問題で出られない……。ええ、事実上の軟禁です。組織は、私を半ば監禁状態に置き、第三者との接触を絶たせました。
それでも私はなんとかして脱出しました。それが七日前のこと。そういうわけでこの有様というわけです。……でも。それでも私は、状況を変えなきゃいけないと思った。そして薬袋さん、あなたなら……あなたなら私を救ってくれると思った。だから、連絡した。」
「待て。ウォン、君はわたしを便利屋か何かだと思ってないかね? たしかにわたしは君を高く買っているが、それとこれは別だ。理由なき投資は出来ない。わたしが聞きたいのは一つだ。ウォン、その組織というのはなんだ? なぜ急に行方を眩ました?」
「……妻子を人質に取られたんです」
愕然とする声。
それは薬袋のものだったが、それとも彼の部下によるものだったか。
「どういうことだ。人質だと? その組織というのはなんだ? その口振りからして、合法な組織ではあるまい」
「はい。薬袋さん、あなたは自信過剰の野心家で、独り善がりな大金持ち。でも、あなたのやってることはまだ正しかった。未来ある人にカネという名の水を与え、育つようなら栄養をやり、芽が出ぬようなら焼き払ってしまう……。そのやり方に賛否はあったけれど、でも、あなたはまだ正しかった……薬袋さん、いま私がいる組織は……ええ、そうですね……」
ウォン教授が言い掛けた、次の瞬間だった。
〈ウォンの後方。柱の後ろに人影〉
リンの声。テキストではない、音声通信だ。焦りようが一発でわかった。
僕は即座にスコープをそちらに向けた。
たしかに、いた。
ウォンの後方。柱の後ろに人の影がある。スーツ姿の背の高い男。サングラスをかけていて、顔は確認できない。ちょうどクルマの陰になっていて、僕からでも見えるのは上半身だけだった。
〈武装の有無は確認できる?〉
〈確認できず。上半身しか見えない〉
僕はテキストメッセージで返す。
だけど、いまの僕は言葉を発するわけにはいかなかった。なにせ、まだあの二人組の談笑が聞こえてくるからだ。
〈注意して〉
リンがそう言ったと同時、ウォンが沈黙を破った。
「……ええ。黙っていても始まりませんね。おそれていては、何も変わらない。そのために私は、あなたを呼んだのですから」
「非合法な武装組織に脅迫されているのか?」
「限りなくそれに近いです」
「では、君は――」
薬袋が言い掛けたときだ。
例の人影が動き出した。ゆっくりと、大股で。柱の影に身を隠しながら。
〈必要なら撃って〉とリンからメッセージ。
そうだ。
必要なら、トリガーを絞るしかない。
引鉄を引き、必要とあらば命を奪う。
それが僕の仕事だ。
でも、すぐそこでは一般人が談笑をしている。サプレッサーを付けているといえど、銃声を聞かれるわけにはいかない。
――どうする?
――やるしかないだろ。どうにかして。
僕はとっさの判断で、便器の水洗レバーに足をかけた。
――音でごまかす。それしか方法はない。
水洗レバーを思い切り踏み倒した。便器の中が水であふれるくらい、長く、強く。
それは銃声の音姫だ。勢いよく流れる水の音。滝のようなその流水音にあわせて、件のサングラスの男が飛び出した。僕はすぐに『撃たなければ』と悟った。男の両手に銃が握られていたからだ。マイクロUZIが二丁。左右にマシンピストルが一丁ずつ握られている……!
――間に合え。
水音の中、僕は引鉄を絞った。
サプレッサーに鎮められた銃声。金属を叩いたときのような、しかし籠もった音。ボルトの動作音が
そして僕が放った七・六二×三ミリ亜音速弾は、緩やかに弧を描きながら着弾した。
サングラスの男の右大腿部から鮮血がほとばしる。バランスを崩した彼は、きりもみ状態になってその場に倒れた。
だが、遅かったのだ。
パパ、パパパ、パパパ……と散発的な銃声。遠くからではまるで安っぽいエンジンの作動音としか思えなかったが、しかしそれはまぎれもない銃声だった。サングラスの男は、着弾の間際に引鉄を引いていたのだ。
きりもみになって倒れた彼。その原因は、バランスを崩した足と、遅れるように発砲されたマイクロUZIのリコイルショックだった。衝撃をいなせず暴れる両腕と、折り重なって倒れた足。それが彼にダンスを踊らせ、そして真っ赤な抽象画を描かせた。
だが、最悪だったのは、その抽象画はただ一つの絵の具では作られなかったことだ。
〈
無機質なリンのテキストメッセージ。それが表す通りだった。
サングラスの男を踊らせた九ミリのマシンピストルは、不幸にもケン・ウォンの耳を貫き、脳を貫き、そしてわき腹を貫いたのだった。
僕の判断遅れが原因だ。
〈銃撃戦になる。すぐにその場から撤退しなさい〉
〈……わかりました〉
水洗レバーにかけていた足を上げる。代わりに銃の分解を始め、そのパーツを再び水タンクの中へ放り込んだ。
それから僕は、さも強敵の腹痛と対峙したフリをして、個室をあとにした。
でも、最大の強敵は、いま対峙しているこの状況のほうだった。
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