7-2

 薬袋トモヒデをタグ付けしてから、僕らは一度絡めていた手を離した。そして僕は飲み物を求めてバーカウンターへ、リンは食事を取りにテーブルへと向かった。

 壇上では、まだ映像が流れていた。僕はそれを後目にカウンターに着いた。

「なんにいたしましょうか?」

 タキシード姿のバーテンが僕に尋ねる。この老人とアベックばかりのパーティーで若い男一人では、さぞかし目立って見えただろう。

 本当なら「マティーニを」などと答えればよかったのかもしれない。だけど、あいにく僕はそんな見え透いたスパイではなかった。

「ペリエを二ついただけますか? いえ、僕のぶんと、ツレのぶんです。このあとまた運転しなくちゃいけないので」

「かしこまりました。すぐお持ちいたします」

 こういう場所のバーテンは、まったく行儀がいい。僕の話を聞くと、顔色一つ変えずグラスにソーダを注いだ。ウィスキー・ソーダを作るときのように、丁寧に。

 そうして二人ぶんのペリエがそろったとき。ちょうどリンが戻ってきた。

「待ったかしら」

 と、後ろから声。

 僕は彼女のぶんのグラスを持って振り返った。

 そこには二皿の料理を持った女性がいた。楪リン――いや、東雲サツキだった。皿の上にはグレイヴィーがたっぷりかかったローストビーフと、マッシュポテト。そして葉物野菜とサーモンのマリネ。はしにはブラック・オリーブが添えられている。

 僕とリンは、グラスと皿を交換。それからカウンターに二人でついた。

「ごめんね、付き合わせちゃって。本当は嫌いでしょ、こういうパーティーとか。そういうの」

 リンはもっともらしい台詞――さも東雲サツキらしい言葉を吐いた。大学講師のオンナ。頭のキレる小賢しい、ダメオンナの風格だ。

「別にいいですよ。サツキが来いって言ったんだから」

 僕ももっともらしい言葉を吐き、そしてソーダを口に含んだ。でも、僕の視線はそのどこにも向かっていなかった。僕の目は、ただレンズ上に投影される文字列だけを睨んでいた。

〈薬袋はまだ動いてないわね〉

〈みたいですね〉

 僕はグラス片手に自然に振り返る。カウンターに背を預けて、東雲サツキの言葉に耳を傾けながら。

 レンズ上に拡張現実AR表示。演台近くの人だかりの中に、赤いタグ付けのされた人影が見えた。薬袋トモヒデは、いまだスリーピーススーツの老人の群れと握手を交わしていた。もっともそれもすぐに終わりそうだったのだが。

〈動き出すまでは、あと少しってとこかしら……。ま、とりあえず喉でも潤しましょうか。そのあとは予定通りに。わたしはこのまま追跡を継続。キミはわたしのサポートを。……ホテルの図面は頭に叩き込んであるわね?〉

〈もちろん〉

 視線追跡操作アイ・トラック・コントロールでそこまで打ち込んでから、僕は残りのペリエを飲み干した。空になったグラスはカウンターへ戻す。そしてオリーヴと肉をひとつまみ。口へ放り込む。

 咀嚼し、飲み込んでから、僕は口を開いた。

「ごめん。ちょっとお手洗いに行ってくるよ」

「わかった。じゃあわたしは先に行ってるけど。いいわよね?」

「いいよ。

 これが僕らの合言葉。

 作戦開始の号令。

 その言葉を皮切りに、僕らはお互いに位置についた。リンはタグ付けされた薬袋トモヒデのほうへ。一方で僕は、お手洗いのほうへ。むろん、ただ用を足しに行くのが目的ではない。


 それから僕は、あえて会場から離れたトイレに向かった。プラザホテルの南館、その中層階にある比較的大きめの化粧室だ。南館の中層階にも、本館と同じくボールルームがあったのだが、あいにく今日は使われていなかった。というよりも、使われないようにが仕向けていた。

 誰もいない男子トイレ。左右合計で十ほど並んだ個室。その一番奥、窓際の個室の前にぽつんと立て看板が置かれていた。『ただいま清掃中。ご迷惑をおかけします』という立て札だ。だが、このトイレには清掃員の姿どころか、清掃用具すら見あたらない。

 そう、これもすべて初めから仕組まれたことだったのだ。

〈位置についた?〉

 と、耳元からリンの声が聞こえた。メガネのフレームを通じて、骨伝導で伝わっている。音が漏れることはない。

「たったいま」

 と、僕は左右を確認。誰もいないことを確認すると、清掃の立て看板をどかして個室に入った。

 個室の中は、特になにも変わっていない。別段汚れているわけでもないし、いたってふつうの洋式便器だ。……ただ一つの点を除いては。

 便器に併設された貯水タンク。陶器製のその部分の蓋を引っ剥がすと、それは現れた。

 タンクの中に隠された、鉄の塊。水が浸食しないようジップロックに封じ込められたそれは、だ。長い銃身と高倍率のスコープ、そして弾倉マガジンとが分解されて押し込められている。

「あと六十秒だけください」

〈ダメ。薬袋が動き出した。まもなくランデヴー・ポイント。五十秒でどうにかして〉

「了解」

 水に浸かったジップロックを大急ぎで引っ張り出した。封を開けて、中身を確認する。ストック一体型のグリップと、サプレッサー、バレル、ハンドガード……。パーツは揃っている。それらすべてを元の通りに組み合わせると、ライフルが姿を現した。H&K SL9SD。消音装置サプレッサー搭載の消音狙撃銃だ。

 最後にニコンの可変倍率スコープを取り付けると、窓を開けて銃口を外へ出した。零点ゼロイン距離は設定済み。残されているのは、汚れ仕事ウェットワークだけだ。

 銃口を出した先。ちょうどそこは、プラザホテル本館が一望できる位置だった。スコープには本館とその駐車場が写っている。

「位置に着いた」

〈了解。こっちもすぐに着く。指示を待て〉

 リンの返答が音声通信からメッセージに切り替わった。時は近いのだ。

 僕はじっと息を殺し、スコープをのぞき込んだ。その先は薄暗い駐車場。ウォンと薬袋の密会ランデブーは、そこで行われるという情報だった……。

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